猫車侍
大星雲進次郎
猫車侍
「飯をもらえぬか」
蕎麦などを出す小さな食事処に、侍が一人入ってきた。
「御武家様、ようこそいらっしゃいました。粗末な物しかお出しできませんが、よろしいでしょうか……」
「ああ、構わぬ。豪奢な物は求めぬ。……それと、猫もいるのだが、構わぬか?」
これは訳ありだなと、店主は察した。
この侍、そのあたりにいる小汚い輩とは違って、いや小汚いのは小汚いのだが、ある程度の身だしなみに気を使っている。受け答えも丁寧。浪人に身をやつした良家の坊ちゃんあたりか。
そして、猫。
「お猫様ですな、勿論よろしゅうございます」
「このお方も」
侍がそう言うと、猫は前足で侍の頬を打った。
「この猫も人と同じ物を食すのだが…」
「ええ、勿論、お猫様もよろしゅう御座います。ささ、堅い座布団しかございませんが、こちらに座ってお待ちください。ただ今茶を持ってまいります」
「すまぬな。ではひ……ではなく殿……」
猫は再び侍の頬を打った。
「猫殿はこちらへ」
侍は猫を上座へ座らせた。
これに猫は侍の頬を打つことはしなかった。この順が猫にとってはごく普通のことなのであろう。
これは猫といって無碍に扱うことがあろうものなら、即無礼討ちになると店主は察した上にさらに察した。さっき猫が殿と呼ばれていたのも聞き逃してはいない。
「お待たせいたしました。お猫様はお熱い茶は問題ございませんか?」
「にゃー」
「すまぬが店主、浅い皿を借りたいのだが。あまり深いと猫殿が飲み辛い」
なる程、猫「殿」か。これなら不自然ではない。
そんなわけはない。猫が茶を飲むと言っていること事態が不自然だ。
「これは、大変失礼いたしました。すぐにお持ちします」
「ああ、店主殿。そう急がずともよい」
店主は慌てて、奥からなるべく浅い湯飲みを持ってくる。
「おやっさん」
「何だ急いでんだよ」
「あのお侍、たぶん猫車侍だ」
「それくらい俺も分かってんだ。ただどんな客でも俺は真心でもてなす、それだけだ」
店主はちらりと店の入り口に邪魔にならぬよう停めてある、妙な台車を見た。
猫が乗る小さな籠の下に車輪が一つ。そしてこの珍妙な車は曳くのではなく押して使うのだ。
「お待たせいたしました。……ご注文はお決まりでしょうか?」
「うむ、盛りを二枚もらおうか」
「へい、少々お待ちを」
猫車侍。
この界隈で近頃噂を聞くようになった、侍だ。
乱暴狼藉を働くわけでもなく、猫と食事をして去って行く。それだけだ。
奇妙ではあるが、御武家の事には関わらない方が良いに決まっている。
何事もなく早く帰ってもらえるよう、店主は慎重に対応するのだ。
「お待たせいたしました。盛りでございます」
「うむ」
「……お猫様の箸はどうします?」
「ああ、よい。儂が食べさせるによって」
猫は侍の頬を打つ。
「すまぬが店主よ。小皿と箸を頼む……同じ箸はお気に召されぬようじゃ」
侍の口から、愚痴がこぼれる。
猫は再び侍の頬を打った。
「へい」
店主はすぐさま、こんなこともあろうかと用意していた箸と小皿を侍に渡した。
「おお、気が利くの」
侍はなかなか器用に蕎麦を細かく切っては猫の口に運ぶのだが。
「お侍様、これではあなた様の蕎麦が伸びてしまいます。もしよろしければ、私の娘にお猫様のお食事のお手伝いをさせますが」
店主は奥で野次馬を決めている常連をじろりと見る。
「おう、さっちゃん呼んでくるぜ」
まもなく店主の娘、幸がやってきた。
「ほう、そなたの娘か」
「幸と申します」
幼いころから大店へ奉公に出ている一人娘である。高貴な方々ともお付き合いのある店であるため、奉公人への躾もそれなりに厳しく、つまりはこのような状況にうってつけの娘であった。
「うむ。これは何とも美しい、立ち振る舞いにも品があるではないか」
猫は侍の頬を数回打つと、
「にゃー」
と鳴く。
「幸とやら、猫殿の食事の世話を頼むぞ」
結局、猫は半分ほど食べ、侍は一人前と猫の残りを食べた。
「店主よ、それと幸も。世話をかけたな。まことに旨い蕎麦であった」
「にゃー」
侍はかなり多めに支払うと、猫を丁寧に抱き上げ店を出た。
「またのお越しを……」
店主が言い終わる前には、猫車侍は姿を消していた。
「ふう~」
猫車侍のおかげで客の入りはさっぱりだったが、儲けとしては上々だ。だからと言って、また来てほしいかというと……。
猫車侍の器などを片づけていると、今度は老侍がお供を五人ほど連れてやってきた。
「少し聞きたいのだが」
「はい、なんで御座いましょう」
「ここに、少し身なりの良い娘とお付きの者が来なかったか」
ああ、そういうことなのか。
つまりこれは、姫君と若侍の悲恋なのだ。
「いえ、見ておりません」
「そうか、邪魔をしたな。……行くぞ」
老侍は急ぎ去って行く。
お付きの侍が一人、猫車の車輪跡を見つけると、店主に向けて小声で言う。
「まあ、そう言うことだ。口外無用で頼む」
「心得て御座います」
店主は深く頭を下げた。
「父さん、いったいどういうことなの」
「さあな。……今度お見えになったときは、美味い蕎麦をゆっくり味わってもらいたいもんだって、思っただけだよ」
猫車侍 大星雲進次郎 @SHINJIRO_G
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