軽やかな香りも憐れみを誘わず Ⅱ
「アイン! アイン!」
「あねき! 返事しろよ!」
半狂乱になって、消えた従姉を探す。アインの母などは、髪を振り乱して泣きじゃくっていた。
「……まさか。でももう、あそこしか……」
ダットたちの叫びが聞こえたのだろう。視界の端で呆然と佇んでいたズンは、青ざめた顔で一目散に駆けていった。一度は探した、祖父の室近くの説教部屋へと。
「……ズンさん?」
老いた使用人は、彼らしくない荒々しさで戸を開いた。叩き壊さんばかりの勢いで。物置でもある室内は、何度見渡しても雑多な家具や小物で溢れかえっている。でももう一度、冷静になって探したら、きっと。
深く深く息を吸い、足元の大きな壺を持ち上げる。ちなみにダットは、先程この壺に躓いて転んでしまった。今も打ち付けた箇所が痺れている。それでもアインが無事に見つかりさえすれば、痛みなどたちまち吹き飛んでしまうはずだ。
「アイン……。もう女らしく淑やかにしなさいなんて叱らないから、出てきておくれ……」
フック伯父もまた、行く手を塞ぐ品々を、放り投げる勢いで退かしていた。今度服でも髪飾りでも、好きなだけ買ってやるからと涙ぐみつつ。一方ズンは手どころか体全体を戦慄かせつつ、壁のある一点を注視したままで。
ダットたちをここまで連れてきたのは――実際は、ダットたちが勝手について行っただけなのだが――ズンなのだ。傍らの寝台を動かせなんて求めやしないが、せめてその横の椅子を持ち上げるぐらいはしてほしいものである。
「――ズンさん?」
非難と、それを凌駕する焦燥を込めて、老爺の肩をそっと叩く。すると老いた使用人は何事かを決心したらしい。ごくりと唾を呑み込み、枯れ木めいた指を壁の木材の穴に差し込んだ。
「あんたさっきから、何やってんだ?」
眉を寄せるダットをよそに、ズンは長年の労苦の跡もあからさまな手を横に動かす。すると耳を塞ぎたくなるような、軋む音がして――
「……な、」
そうして壁の一部が、ほんの僅かながら確かに、動いた。
この説教部屋は、折檻を加えられるほどでないが、祖父の怒りを買った子や孫が連行される室でもある。祖父への態度はどうあれ勉学を好むダットは、この部屋に入ること自体今日が初めてだった。この屋敷で生まれ育ったタインや、祖父に明白に嫌われているアインとは違って。だからこんな仕掛けが隠されているなんて、全く想像していなかった。伯父の妻のランや、従弟のチュンも同じだろう。けれども流石に、フック伯父は把握していたはずだ。伯父は亡き従兄と同じく、この屋敷で生まれ育ったのだから。
「……これは一体、どういうことだ?」
しかし少年の予想は、驚愕も露わな問いかけによって、たちまち吹き飛ばされてしまった。現在三十六歳のフック伯父も初めて目の当たりにしたとは。ならばこの仕掛けは、一体いつから存在していたのだろう。少なくとも、フック伯父の物心が付いてから施されたものではあるまい。
壁に擬態した引き戸の建付けはかなり悪いらしい。ズンが歯を食いしばっても、中々動こうとしなかった。
「退いてくれ。後は私がやる」
焦れたフック伯父が、ズンを押しのける。すると不快極まりない音が部屋中に轟いた。ダットたちの心の軋みを現実のものにしたかのような悲鳴が。
ズンやフック伯父が額に汗して開いたというのに、壁の向こうの空間は大人の男がやっと一人入れそうなほどの広さしかなかった。しかも剥き出しの狭い床のほとんどは、化け物の口を彷彿とさせる、ぽっかり開いた暗黒に占められている。
ようよう目を凝らせば、下に続く階段を確認できはした。しかしこの下に進む勇気を搔き集めるのには、相当苦労するだろう。松明を携えていたとしても、この穴の中にはできる限り入りたくなかった。
「お前たちは、ここで待っていなさい」
ダットの怯えを知ってか知らずか。フック伯父は寸毫の躊躇いもなく、怪物の口に身を投じた。伯父を独りにするわけにはいかないから、震える足を叱咤して、ダットもどうにか続く。その後ろからは、ズンが来てくれた。
ダットが足を踏み外して転んでしまったら、前の伯父も巻き添えになってしまう。自分だけが怪我をするのなら、己の鈍臭さを笑いの種にもできる。だがフック伯父に万が一の事態があってはいけない。
爪先で探りながら進んでいるためか、階段は中々終わらない。もしかしてこの階段は永遠に、あるいは冥府まで続いているのではないだろうか。終わりがあったとして、その先に待ち受けるのは人間に害を成す、恐るべき何かなのではないだろうか。
やっと一段降りるごとに、吐き気を催す異臭が強くなっていく。この先に、あの紅い服の妖魔が――祖父の叔母の姿を盗んだ怪異の本性が食い散らかした、死骸が転がっているのでもあるまいに。
また一つ階を降りた途端、ざらついた硬い物体が、少年の素足を撫でた。
「――」
声にならない悲鳴を迸らせた少年は、半狂乱になって駆け出す。立ち止まった伯父の背に顔面を打ち付けたために、運動を不得手とする体は簡単に均衡を崩した。無様に転倒した少年の右の指先に、固い何かが絡みつく。粘ついた悲鳴をどうにか堪え、二、三度深呼吸すると、百足の死骸だと判ぜられた。
怒りのままに毒虫を壁に投げつけると、かちゃりと金属が揺れる音がした。荒い吐息もそのままに周囲の様子を伺う。そうしてやっと、ようやく階段を降り切ったのだと気づけた。
「……なんだよ、これ」
少年は、震え、掠れた呟きをどうにか絞り出す。床というより穴の底と評した方が相応しい隙間の両隣には、鉄の格子を嵌められた空間が広がっていたのだ。
「……地下牢にございます」
呻く少年が立ち上がる手助けをしつつ、老爺は先ほどから微動だにしない男に問いかける。
「いかがなさいましたか、チーティエンさま?」
伯父はただひたすら左側を凝視していた。ダットが百足の死骸を投げたのとは逆の方の、牢の向こうを。
立ち込める湿気と熱気に、頭の芯まで犯されてしまったのだろうか。少年は心構えなど一切しないまま、伯父の視線の先を追ってしまった。そこには必死に探していた従姉の、変わり果てた姿が転がっていたというのに。
「アイン! 大丈夫か!」
衝撃のあまり錯乱してしまったのだろう。伯父は牢の格子を拳で叩いて、中の娘を助け出さんとした。拳から鮮血が滴っても、なお。
一方ズンは、数瞬の後には我に返った。あまりの衝撃に膝から崩れ落ちてしまったダットとも対照的に。
「こ、これを!」
そうしてダットが先ほど百足の死骸を投げた、金属が揺れた気配がした辺りから棒状の物体を取り、伯父に差し出したのである。
伯父はらしくなく乱暴な所作で、乾いた手から鍵を奪い取り、手探りで鍵穴に差し込んだ。
先程の引き戸を開く際の軋みよりももっと耐えがたい絶叫を発し、牢は開いた。あるいはそれは、ダットたちの叫びだったのかもしれない。
「――お願いだ! 目を覚ましてくれ!」
叔父の腕の中の従姉は、安らかに目蓋を下ろしている。まるで眠っているみたいに。しかしその瞳はもう二度と開かないのだと、ダットは認めざるを得なかった。従姉の白く細い首は――喉は、ぱっくりと裂けているのだから。
「……俺、伯母さんとチュンを呼んでくるから……」
獣の咆哮めいた慟哭が、土の壁を揺るがす。そっと横たえられた乙女の手からは、一輪の蓮がぽとりと落ちた。変色した血に塗れ、斑入りとなった牡丹蓮が。
伯父と共に咽び泣きつつ、従姉の亡骸を地下牢から運び出した後。もうぴくりとも動かない従姉に縋りつく伯父たちの嗚咽にも負けじと、少年は怒声を張り上げた。
「――なんでこの屋敷にあんなもんがあったんだよ!」
「……申し訳、ございません……」
分かっている。地下牢などというものがこの屋敷に隠されていたのは、ズンの責任では断じてない。おそらくは、アインが殺されてしまったことも。しかし身を焼く怒りを誰かにぶつけねば、魂までもが灰になってしまいそうだったのだ。
「あれは……三十五年前からは使われてはいないはずなのです。だから今となっては存在を知る者など、儂ら一握りの使用人と、旦那様だけで。なのに、どうして……」
ダットに肩を掴まれているズンの瞳には、一切の光が射していなかった。あの地下牢への入口と同様に。
「……ジジイ?」
ダットたちの会話に反応し、チュンは涙で濡れそぼった面をはっと上げた。
「そういえばあねき、昨日ぼやいてた。“お祖父さまに説教部屋に呼ばれてるのを、数日前からすっぽかしてるけど、今日は流石に行かなきゃやばいかも”って……」
ならばアインがいつ頃あの室に入り、そして殺されたかを突き止められるかもしれない。さすればアインを――アインたちを殺した犯人の正体も、きっと。
「ダット!? このことはもう、ジジイには伝えさせて――」
従弟の悲鳴ともつかない制止を振り切り、少年は祖父の元へと急ぐ。
「一体どうした。全く煩わしいやつだな」
祖父の表情も様子も、普段といささかも変わりなかった。孫娘の身に起きた悲劇は、もうとっくに把握しているはずなのに。
「悪いな。でも、あんたに聞かなきゃならねえことがあるんだよ」
チュンから教えられた事実をほとんどそのまま伝えると、祖父は首を縦に振った。
「もっとも、普段儂が床に入る半刻前には来いと念を押したというのに、あやつはすっぽかしたがの。随分と待った気がするが、やはりあやつは訪れなんだ」
だから流石に馬鹿馬鹿しくなって、自室に戻ってすぐに床に入った。
そう吐き捨てるが早いが、祖父は酒を仰いだ。日中から酒を飲むこと自体を止めるつもりはない。だけどなぜ、こんな時に飲酒などできるのだろう。長男が殺され、その息子である初孫が殺され、そして孫娘まで殺されたというのに。祖母などは、ダットたちが進めなければ食事も摂ろうとしないほどなのに。
「……そうかよ。じゃあ、夜中に不審な――あの地下牢への戸が開けられた時の音とか、聞かなかったか?」
「生憎、使用人たちに起こされるまでは眠っておったのでな」
祖父が説教部屋でアインを待っている間に、誰かがアインを地下牢に連れ込み殺したというのはありえない。アインが地下牢に連れ込まれたのが、祖父が説教部屋から去った後だとする。しかしあの戸が引かれたのなら、起きていても眠っていたとしても、祖父は必ず物音で異変を察知するはずだ。だとしたらアインはいつあの説教部屋に――地下室に連れ込まれ、殺害されたのだろう。
昨晩の見回り役を除いては、使用人たちは空が白む頃には起床するのが常である。だから使用人たちが働きだす時刻以降というのも、物音を考えればありえないのに。
「分かったら、とっとと出ていけ。これ以上あの馬鹿娘の話などしていると、酒が不味くなるわ」
普段のダットならば、唇の端を歪める祖父に殴り掛かりはせずとも、罵声の一つや二つは浴びせかけていただろう。だが今は、声を出す余力すらなかった。体ではなくて、心が限界だったのだ。
枷を嵌められているわけでもないのに重い足を引きずって、従姉の遺体が横たえられた説教部屋まで戻る。
「……アイン、どうして? あなた、昨日約束してくれたじゃない。市場で買ってきたっていう、あなたとお揃いの簪もくれて。いつかこれを挿して、一緒にお出かけしましょう。だから元気だしてお祖母さまって、言ってくれたじゃない。なのに……」
既に到着していた祖母ハンは、アインの母ランやチュンと抱き合って号泣していた。
「赦さない。絶対に赦さないわ。わたしがあなたたちを殺したあの化け物を探し出して、八つ裂きにしてやる!」
祖母はすっかりやつれた顔を歪め、繰り返していた。あなたたちを守れなかった自分の無力さが腹立たしい、と。腰を痛め、普段の生活にもまだ支障を残す老女が。
「わたくしも、悔しいです。どうしてアインが、こんな目に遭わなくてはならなかったのでしょう……」
ダットもまた、悔しかった。ぼろぼろと大粒の涙を零す伯母と同様に。
アインは確かに奔放すぎるし、他者の心の機微を解しようとしないきらいがあった。しかしアインも確かに、身内への情けや思いやりを持っていたのだ。他者とはその表し方が多少異なるだけで。それにアインは、勇敢な娘でもあった。
アインは、ダットを
あれが何を目的としているのか、ダットにはさっぱり判ぜられなかった。それさえ理解でれば、謎は全て解ける気がするのに。従姉の葬儀の間中考え続けても、ちっとも。
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