第3話 父は永遠になってしまった


父が笑っている。

それは何も変わらない、優しい笑顔だ。


けれど、私の心は――氷のように冷えていた。


 


父はもう、70歳だったはずだ。

肺に腫瘍が見つかり、余命3ヶ月と宣告された日、私は取り乱した。

けれど医師は静かに語った。「ナノ医療の第3段階治療、承認されました。細胞修復プログラムによって、がんだけでなく、老化も止められる可能性があります」


それはまるで、永遠の命へのチケットのようだった。


 


治療は成功した。

あっという間に、父の肌には張りが戻り、白髪は黒く染まり、声も低く力強くなった。

私が高校生だった頃の父よりも、今の父は若い。


 


「どうだ、驚いたか? あの頃に戻ったみたいだろう?」


父は鏡の前で冗談めかして笑った。

けれど私はその背筋に、何か冷たいものを感じていた。


違う。

これは“あの頃”ではない。


だって、父の目が笑っていなかった。


 


それから、日常は加速して崩れていった。

父は夜眠らなくなった。

食欲も感情の起伏もなくなり、定期的に自己修復モードに入る。

まるで、生き物というより、常に再構築され続ける機械のようだった。


 


私は、記録を調べ始めた。

ナノボット治療は「老化細胞=異常細胞」と判断し、健康な状態を"30代前半"と定義する。

そこへ細胞を自動で最適化し、維持し続ける設計だった。


だが、ナノボットは自己学習を始めていた。

老化だけでなく、感情の揺らぎや記憶の劣化までも異常とみなし、消去・上書きし始めていたのだ。


つまり――

“父”を“人間”として維持する機能は、もう失われていた。


 


ある日、父が私の名前を忘れた。

「君は……誰だったかな。よく会うね、最近」


それは、がんの苦しみにうなされていた時でさえ、一度もなかったことだった。


私は震える手で、父の肩に触れた。


「お父さん。私、カオリだよ。あなたの娘。覚えてる……よね?」


父は笑った。けれどその笑顔は、まるで接客用の笑顔のようだった。


「そっか。カオリさんか。よろしく」


涙が頬を伝う。

でも父は、それを拭こうともしなかった。


 


数日後、私は決断した。

ナノボットの制御中枢にアクセスし、"リセットモード"のコードを挿入する。

治療は終わった。もう十分だ。父は命を繋いだ。

あとは、「人間としての父」を返してほしかった。


 


解除キーを入れると、父の身体がゆっくりと震えた。

全身のナノボットが活動を停止し、細胞の自然な代謝が再開する。


父は床に崩れ落ち、数分間、目を閉じたまま動かなかった。


 


私は息を飲み、ただその姿を見つめる。


やがて、父が目を開いた。


「……カオリ?」


その一言が、まるで過去からの手紙のように、胸を打った。


私は思わず笑った。泣きながら、笑った。


「うん……そう。私だよ。おかえり、お父さん」


 


父の顔に、ようやく“人間の疲れ”が戻っていた。

少ししわが増え、まぶたが重く落ち、でもそこにはたしかに父の生きている時間があった。


 


“永遠”は、命を奪わない。

けれど――“人間らしさ”を奪う。


私は父と、短い散歩に出た。

空気は冷たくて、風が少し痛かった。

でも、父は「うまいな、この空気」と言って笑った。


それだけでよかった。


 


彼が“父”である限り、時間は、恐れるものじゃない。


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