第31話 『逃げた先に』




「露木くん!」


彼が黒い糸に覆われて消えていくその瞬間、私は迷わず駆け出した。

伸ばした手が闇に弾かれた痛みも、胸を突き刺す恐怖も、考える余裕なんてなかった。

でも、その行動をはばむように、突然、誰かの手が私の腕を掴んだ


「そこに入ってしまうなら、君の【影糸】がどうなっても知らないよ!」


振り返った先で、アンがいつもとは違う真剣な表情をしていた。


「君の影糸すら彼の【呪い】に反応して、変わってしまったら……その時は、私にもどうしようもないよ」


それでも行くのかい?そう問うような眼差まなざしのアン。


正直、怖くてたまらない。

足が震えて、喉がひゅっと細くなる。


でも。


それでも、このまま彼を失うくらいなら。

そう思ったら、私は迷いなく彼女の手を振り解いた。

次の瞬間、全身が闇に呑まれる衝撃とともに、その黒いおりへと飛び込んでいた。


冷たい深海に沈むような感覚が全身を包み、喉の奥から小さな悲鳴が漏れそうだった。

目を開けても光はどこにもなく、ただ黒い糸がうごめきながら闇を満たし、私をさらに深く引きずり込んでいく。


その闇の中で、不意に声が滲み出した。


——どうして、誰も俺を見てくれないんだ。


そのなげきに呼応するように、黒い糸がざわりと震え、その中の一本が私の腕に冷たく絡みつく。


——どうして、捨てられるんだ。

——どうして、誰も気づいてくれないんだ。

——どうして、愛してくれないんだ。

——どうして。どうして、どうして……!


彼の感情が胸の奥へ、波のように寄せてくる。

それは次第に自分のものと区別がつかなくなり、気づけば瞳から涙が一筋、流れ落ちていた。


(露木くん……どこ?)


必死に彼の姿を探す。

しかし探せば探すほど、黒い糸がざわめいて、私の目を覆いおおい隠していく。

まるで『見つけさせない』と言わんばかりに。

足を動かしても自分が歩いている実感はなく、もどかしさに「露木くん!!」と確かに叫んだ。

けれど、声は喉を抜けたはずなのに、何も返ってこない。まるで水の底から叫んでいるみたいだ。

もう彼の声も聞こえなくなり、世界に独り残されたような感覚が胸を締め付け、恐怖がじわりと身体を支配していく。


(これが、アンとの契約を果たした先なのかな)


その瞬間、闇が一段と牙をむいた。

全身に絡みついていた無数の黒い糸が一斉に蠢き、目の前に私の【影糸】が現れ、そして、それをまるごと喰らい尽くすように呑み込んだ。

冷たさが血管にまで染み渡り、指先から力が抜け、視界の端がぼやける。

自分の一部が、音もなく奪われていく。


やがて、影糸たちは私を悪夢へと投げ飛ばした。


気がつけば、目の前は実家の台所。

小学生くらいの私が、ひとりで、もくもくとご飯を食べている。

箸先に伝わるご飯の冷たさが、胸の奥にしまい込んだ小さな寂しさを音もなく叩き起こす。

つけっぱなしのテレビでは、家族が楽しげに食事をするCMが繰り返し流れていた。

その明るい笑い声が、私の孤独をいっそう深く刺していく。


(やだ……。観たくないよ!)


そう思うのに、まるで視線をはずのを許してくれないみたいに、やがて水面に吸い込まれるような感覚と、「ざぶん」という音が同時に襲い、場面は、学校の教室へと切り替わった。

教室は笑い声とおしゃべりで満ちている。

机を寄せ合って楽しそうに話すグループ、誰かがふざけて突っ込み合う声、紙をめくる音。

その喧噪の只中で、私は自分の存在を消すように、小さく身を縮めていた。

けれど、すぐに誰かが『面白い獲物』を見つけたかのように、私に目を向ける。

ゴミが飛んでくる。

蔑む言葉が飛び交う。

誰かが私の表情を見て、くすくすと笑う。

彼と同じ名を持つ『マナト』が私にサッカーボールをぶつけると、楽しそうな笑い声を上げる。

それが、耳を裂いた。

仲の良かったはずの友達と目が合っても、彼女たちは何事もなかったように、すぐ目を逸らす。

私はただ俯きながら、早くこの時間が過ぎてくれることを、祈るしかなかった。


(お願い……誰か……)


後ずさりたい。

目を閉じてしまいたい。

だけど、逃げられない。


「誰か助けて!!!」


絞り出した声に応えるように、ふわりと光の珠が現れた。

その光は、この暗闇の中で不思議なほど温かくて。

まるで私をそっと抱きしめて、『大丈夫だよ』と囁いてくれているみたいだった。


「温かい……」


私は震える手を伸ばし、その温もりに触れる。

触れた瞬間、呪われかけた【影糸】の一本だけがふわりと揺れ、光り出したと思うと、まるで私をどこかに導くように、闇の奥へと伸びていく。

光の糸の先は、先ほどと変わらない暗黒だった。だけど、なぜかこの糸をたどれば露木くんに会える気がした。

私はごくん、と唾を飲み込み、意を決して一歩を踏み出した。


どのくらい歩いただろうか。ようやく、人の形が暗闇の向こうに浮かんだ。


「露木くん」


ようやく彼を見つけ出した安堵感で名を呼ぶが、闇に捕らわれ、うずくまったまま返事はない。

影糸たちが脈打ちながら、来ないでとでも言うように、私の前に立ちふさがる。

それでも、光に包まれた一本の糸が、闇を切り裂くように強く輝くと影糸の動きは、たちまち鈍っていった。

その刹那、私は躊躇わず露木くんの肩を掴んだ。

少しだけ温かさが戻った指先に、また冷たく重たい何かが触れて、思わず「うっ……」と息が漏れた。


「露木くん!しっかりして!」


私は叫び声の力を振り絞って、彼の名をもう一度呼んだ。

先ほどの叫びとは異なり、その声は届いたのだろうか。露木くんの指先がぴくりと動き、微かな反応が返ってきた。

けれど、その瞳には焦点がなく、顔はまるで誰かの借り物のように無機質だった。

私は唇を噛み締め、声を振り絞って言った。


「帰ろう。きっとお祖父さんも心配してるよ」


その名を敢えて口にした瞬間、露木くんの肩がびくりと揺れた。

抑え込んでいたものが、思わず零れたように。


「……そんなわけ、ないよ」


彼の声は掠れていて、あまりにも細く小さく、空気に溶けていきそうだった。


「もう、いいよ」


声は掠れ、あまりにも細く小さく、闇に溶けて消えそうだった。

短い沈黙ののち、諦めを滲ませた言葉が落ちる。


「どうせ俺のことなんて、誰も本気で気にしてないに決まってる。むしろあの人に似ている俺なんて、もう見たくもないはずだよ」


はは、と乾いた笑い声が闇の中にこだまし、鼓膜を震わせる。


「期待するだけ、馬鹿だった。優しくして、自分を押し殺して……それさえすれば、誰かに愛されると思ってたのに」


次の言葉は今までのどの言葉よりも重く、苦しかった。


「全部無駄だったんだよ」


そのまま、彼は縋るように私の腕を掴んだ。


「お願いだよ、小谷野さん。俺も……俺のこの【影糸】やらも、全部切ってもらうようにアンさんに頼んでよ」


胸の奥に鋭く突き刺さった。

まるで心臓を爪で抉られたみたいに、痛い。


それでも、私は逃げなかった。

彼の目から、視線を逸らさなかった。


「私は、露木くんのこと、もっと知りたいよ」


私はそっと、彼の手を包み込むように握り返す。


「私もね、ずっと昔、同じようなこと思ってた。小さい頃にお父さんを亡くして、お母さんは仕事で家に帰ってこなくて。誰にも迷惑をかけなければ、いい子にしていれば……きっと、愛されるって信じてた」


先ほどの悪夢がふと蘇る。だけど、私は言葉を止めない。


「でも、どこかで気づいてしまったの。どんなに頑張っても、誰にも届かないなら、それは無意味だって。だから私は、気づいたらもう、誰にも期待できなくなっていたんだ」


吐き出すたびに胸が痛む。だけど、彼にだけは、どうしても伝えたかった。


「前の学校で、一番信じてた友達に裏切られて、いじめに遭って。言えなかった、誰にも。気づいたら私は孤立していて、逃げるようにここに来たんだ」


ふと見ると、露木くんは小さく目を見開いたまま、私を見ていた。

驚いているような、戸惑っているような。

でもその瞳の奥に、かすかに揺れる何かを、私は確かに感じた。


「アンに会った時、私もチャンスだと思ったの」


少し笑って、そう打ち明ける。


「もう、こんな辛い想いをしなくて済むかもしれないって。人と関わるたびに傷つくくらいなら、最初から全部断ち切ってしまった方がいいって、そう思った」


闇の奥に、糸がざわりと震える気配がした。

たぶん、それは私自身の【影糸】なのだろう。


「でも……」


涙が流れそうになるのをぐっと堪えながら、私は露木くんの手を握る手に、さらに力を込めた。


「露木くんが、いなくなるなんて、絶対に嫌だよ!」


こんなにも、誰かを失いたくないと思ったのは、初めてだった。

絶対に失いたくない。絶対に。


「誰にも愛されないなんて……そんなの、違うよ」


喉の奥がぎゅっと詰まりながらも、私は真っ直ぐに続けた。


「だって葵さんも、後藤くんも、ちゃんと露木くんを見てる。お祖父さんだって、心配してくれてるし、大事に思ってるよ」


そしてきっと天国にいるお祖母さんだって、露木くんが幸せになることを願ってる。

張り裂けそうな想いが喉まで込み上げて、息が震える。


「私だって、そう。弱さも、格好悪さも、露木くんの全部ごと抱えて、それでも隣にいたい」


心の奥から願うように、私は彼を見つめた。


「愛斗くんの隣にいたいよ!」


ずっと恐れて怖くて口にできなかった名前。

だけど、今は目の前の人の名は違うものだと、心が叫んでいる。


「だから帰ろう愛斗くん!」

「っ!」


それは、冷たい水面にひとしずくの光が落ち、凍りついた心を解かすように、静かな波紋が広がり、彼の瞳の奥に閉じ込められていた闇を、少しずつ溶かしていく。

彼の口端がわずかに震え、涙と笑みが入り混じったような表情で呟いた。


「うん……俺も。柚葉がいなくなるなんて、考えたくない」


その言葉に応えるように、握りしめた手のあいだから、細やかな光の糸がふわりと立ちのぼり、夜明けのように闇を押しのけていく。

黒い影糸たちは怯えるようにざわめき、次々とほどけていった。

眩い輝きは波紋のように広がり、閉ざされていた檻を少しずつ砕いていく。


——ぱきん。


どこかで氷が割れるような音がして、闇は一気に崩れ落ちた。

気づけば、風景は静かに『ル・リアンLe lien』へと還っていた。

まるで何事もなかったかのように。


「戻って来たかのう」


さっきまでの悪夢が嘘のように、静かな店内に凛とした声が響いた。

ゆらりとランプの明かりが揺れ、猫の姿に戻ったアンが私たちを見つめていた。

その瞳はどこか優しく、そしてどこか寂しげだった。


「──やっと、やっとだのう」


そう意味深な言葉を洩らしたアンは、私たちの握った手に確かに結ばれている赤い糸を見つめ、今まで一度も見せたことのない、慈愛じあいに満ちた表情を浮かべた。


その時だった。


光の粒がふわりと浮かびあがり、雫のように舞いながら形を失っていく。

棚やピアノ、カウンターまでもが次第に輪郭を失い、泡のように溶けていった。

そして、最後に残ったひとつの光の珠に向かって、猫の姿のアンが静かに語りかける。


「……これで、約束を果たせたよ。春子」


その声は優しく、安堵と別れを含んでいた。


「待って、アン!!」


姿が消えていくアンに手を伸ばす。だがその手は透けて、何も掴めないまま空を切った。


「よう頑張ったのう、柚葉」


いつもは意地悪ばかり言う猫が、決して口にしないはずの言葉だった。


「ありがとう」


その声とともに、意地悪な縁の神様は光の粒へと溶け、完全に見えなくなった。

ただ、握りしめた手の温もりだけが確かに残っていた。


それは、私たちが『逃げた先に』見つけた答えのように──。







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