第21話 友達





すっかり暗くなった夜、私はまだ『Le lienル・リアン』に居た。


外はすっかり夜の帳が下り、時折吹き抜ける冷たい風が、窓をそっと揺らしていた。

暖炉の火が、ぱちぱちと静かに弾ける。店内の沈黙をかすかに破るのは、その音だけだった。

テーブルの上には、まだ湯気の立つ麦茶と一枚の白紙。

膝の上に広げた進路希望調査書を、私はじっと見つめていた。

ペンは握ったまま、まるで凍りついたように動かない。


「はぁ……」


何度目かわからない、大きな溜息が口からこぼれる。

口元にわらび餅の粉をつけた猫が、呆れたように尻尾をぱたんと振った。


「いつまで悩んでいるのかのう。もう、夜遅いぞ」


アンはそう言いながら、ストーブの前からのそのそと歩いてきて、テーブルの端にひょいと飛び乗った。

そして、口の端についた粉をぺろりと舐めて、満足げに目を細める。


「やっぱり風見庵のわらび餅は絶品だのう」


幸せそうなアンを見ながら、私はふと思う。


(悩みがなさそうで、羨ましいや)


また一つ、浅いため息が漏れる。

何度見つめても、白紙のままの紙は何も語ってくれない。


「どうせ、誰とも繋がらなくなるって言うのに。こんな物、捨ててしまえ」


ポイッと前脚で紙を落としたアンに、「こら!」と声を上げる。

けれど、気にする様子もなく、今度はグルーミングを始めたその態度に、私は思わずムッとした。


「それでも書かなくちゃいけないんですー」


小さくぼやきながら、床に落ちた進路希望調査書を拾い上げる。

角は、ほんの少しだけ折れ曲がっていた。


「なぁに。お主は夢とかないのかのう」

「夢……」


その言葉を口にしたとたん、胸の奥が少しだけざわついた。


「夢は……ない。でも、なりたくないものなら、ある」


ぽつりとこぼれた言葉が、静まり返った店内に、ゆっくりと染み込んでいった。

アンはグルーミングの手を止め、こちらにだけ、目を向ける。


「ふむ。では聞こうかのう。お主が『なりたくないもの』とは、なんじゃ?」


問いかけに、私は迷いなく言葉にする。


「研究員。それだけはなりたくない」


思い浮かんだのは、お母さんの背中。

玄関を出たきり、何日も帰ってこないお母さんを、私は静まり返った家の中でずっと一人で待っていた。

「寂しいよ」なんて言ったら、何かが壊れてしまいそうで、ぐっと堪える日々。

気づけば、お母さんとの会話は、冷蔵庫に磁石で留めた小さなホワイトボードだけになっていた。


(だから、あんな職になんてつきたくない)


遠くを見つめる私を見て、アンは「人間って面倒くさい生き物だのう」と溜息交じりに呟いた。

私は頬杖をしながら、もう一度、膝の上の白紙を睨みつける。


その時だった。


カラン、と凛とした鈴の音が店の中に響き渡る。

反射的に顔を上げると、開いた扉から風が吹き込み、ひときわ冷たい空気が店の奥まで届く。

その後を追うように、あの不機嫌そうな目をした彼が、ゆっくりと足を踏み入れてきた。

頬の傷は昼よりも赤く腫れていて、着ている作務衣もところどころ埃で汚れ、裾や襟元は乱れていた。

まるで、ついさっきまで誰かと喧嘩でもしていたような格好だった。

私と視線がぶつかると、後藤くんはほんの一瞬、目を大きく見開いた。

驚きと戸惑いの入り混じったその表情に、私も息を呑んだ。

一瞬、時が止まったみたいに、どちらからも言葉が出なかった。

それでも、何かを言わなきゃと思っていた、次の瞬間。


「……っくしゅん!」


店内に、突然くしゃみの音が響いた。

私がびくりと肩を跳ねさせたのと同時に、彼は不機嫌そうに鼻をすすった。


「俺、猫アレルギーなんだけど」


そう言って、アンを睨むように見下ろす。

その言葉の意図がわからなくて、私は「えっと……」と瞬きを繰り返した。


「あっ、ご、ごめん!アン、ちょっと散歩でも行ってきて!」


慌ててアンをひょいと抱き上げると、「にゃん!?」と短く鳴いて抗議の声を上げた。


「こ、こら!ここは我の店だぞ……!」


抱き上げられたアンは、腕の中でもぞもぞと暴れながら、後藤君に聞こえないように小さく、必死に抗議した。

それでも私は、もぞもぞ暴れる彼女をそのまま玄関の外へ放り出した。


「か、神になんていう無礼を!!おい!聞いているのか、お主!柚葉!?」


ドア越しに聞こえる怒鳴り声に、私は「はいはい」と小さく返事をして、扉を閉めた。

戻ると、後藤くんはいつの間にか私の席に座っていて、テーブルの上に置きっぱなしにしていた白紙のままの進路希望調査書をじっと見つめていた。


「ちょっと!勝手に見ないでよ!」


思わず声を上げて、私は彼の前からその紙をひったくった。

後藤くんは肩をすくめる。


「俺だってまだ白紙のだし。……お互い様だろ」


どこか憂いを浴びた視線はガラス張りのサンルームの向こうを捉えたまま、まるで何かを思い出すかのように遠くを見つめていた。

彼がここに来たということは、きっと今、人との縁に苦しんでいるのだろう。

何て声をかければいいのか。

迷いながら、私はまず、後藤くんの前に湯気の立つ麦茶をそっと置いた。

そして、恐る恐る口を開く。


「その頬……誰に殴られたの?」

「……父親」


一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

驚きと戸惑い、そして、どうしようもないやるせなさが、胸に広がっていく。

驚きと戸惑いが混じる沈黙の中で、彼の視線が静かに店内を巡る。

掃除がだいぶ進んで、以前よりずっと綺麗になったはずの『ル・リアン』。

それでも、あちこちにアンがどこからか拾ってきた『コンセプト不明』の品々が並び、どこかちぐはぐな空気を残している。

ガラス玉や、歪んだ地球儀、誰のものかもわからない仮面。

そんな不思議なものたちが棚やカウンターの隅にちょこんと置かれている。

その風景を見つめる後藤くんの眉が、自然と眉間が寄るのが見えた。


「お前、ここでバイトしてるのかよ」

「えっ、うん」

「ここって、何の店?」


後藤くんはそう言いながら、近くの棚にあった小さな金属の置物に手を伸ばした。

どこかの民族のお守りのようにも見えるその置物を、指先で転がしながらじっと見つめる。


「……売るもの?」

「いや、それはただの、ここの店主の趣味」


私がそう言うと、後藤くんは「変な趣味」と小さく呟き、まるで汚いものでも触ってしまったかのように、指先だけでそっと置物をテーブルに戻した。

そして私は、彼の言葉に心の中でそっと頷いた。


(それは、同感)


うんうん、と頷きながら、彼にこの店について、どんなふうに説明すればいいのか悩む。

ここが縁の神様が運営する店、と伝えたところで「頭大丈夫?」と言われるのが目に見えていた。

言葉を探していると、カランと鈴の音が店内に響いた。

玄関の方へ目を向けた私たちは、同時に目を見開いた。


「……愛斗?」

「悠真?」


扉の向こうには、制服の上にコートを羽織った露木くんが立っていた。

思いがけない場所での再会に、私たちは一瞬、息を呑み、動けなくなる。

はっとした後藤くんは、腫れた頬を手で隠しながら顔を背けた。

愛斗の表情には、見られたくなかったものを見られたような、怯えの色が浮かんでいた。

そのままサンルームの方に逃げようとする後藤くんを、気づけば、私は無意識のうちに、その腕を掴んでいた。

そんな私を見て、後藤くんは意味がわからないというように眉をひそめ「は!?」と叫ぶ。


「ご、ごめん!でもなんか……!」


そうしなきゃいけない気がして。

彼のまわりで、何かが揺れている気がして。

どうしても、手放しちゃいけない気がしていた。


「……悠真、その顔どうしたんだよ。朝より、腫れてないか?」


ようやく正気を取り戻したかのような露木くんの声には、かすかな戸惑いと、心からの心配がにじんでいた。

その一言に、後藤くんの腕がびくりと震える。

掴んだ手のひらから、彼の張り詰めた緊張がじわりと伝わってきた。


「……別に」


低く絞るような声で、後藤くんは言い返す。

素っ気ない返事に、露木くんは一度だけ視線を落とし、それから、息を整える。

ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、揺らぎながらも踏み出そうとする、かすかな意志がにじんでいた。


「……本当に?」


一瞬、静寂が降りた。

後藤くんは、睨むように露木くんを見つめる。

彼が、このように露木くんに敵視するのは、私がここに来て初めてだった。


「……はっ、何それ」


乾いた笑いが、唇の端からこぼれた。

次の瞬間。


ドクン——。


空気が、どこかでひとつ脈打ったような気がした。

直後、彼の背中から、黒く、細く、それでいてぞっとするような【糸】のようなものが、ふわりと立ち上った。

まるで生きているかのように、ゆっくりと宙を漂いながら、彼の肩や腕、指先にまとわりつく。


(もう、【】してる……!)


後藤くんの瞳が、鋭く、狂気を持つ。


「お前だって、いつもそうじゃん」


吐き捨てるような声音に、怒りと、悲しみと、どうしようもない孤独が滲んでいた。


「友達のふりだけしてさ、大事なことなんて一つも話さない。いつも距離置いてばっかで……!」


叫ぶように吐き出したその声に反応するように、背中の【糸】がびくりと震えた。

それは生き物のように宙を漂い、彼の肩や腕、指先に絡みついていく。

それは静かに、しかし確かに、彼の感情の波に合わせて震えていた。


「本当に、俺のこと心配してるわけ?」


強く睨んでいた目が、ふと揺らぐ。

にじむような声が、その唇から落ちた。


「俺のこと、友達だって、思ってくれてるのかよ……」


その声は、思った以上に低く、擦れていた。

後ろで露木くんが息を飲んだ。


(後藤くんも、全部、感じ取ってたんだ)


露木くんが、本当は誰にも心を許せずにいたこと。

後藤くんの寂しさと痛みが、触れた腕からまっすぐに伝わってきて、手の力を緩んでしまう。


「……っ!」

「あっ!」


その気を逃さず、後藤くんは初めて会った時の露木くんみたいに、サンルームから飛び出して行った。

彼の後ろを追うべきなのでは、と露木くんを振り向く。

けれど、彼は、ありえないものを見たかのような表情で、立ち尽くしていた。


「なんだ、あれ……」


そして、続いた言葉に、世界が一瞬、動きを止める。


「あの黒い糸……!なんだよ……!」



その言葉に、私は、喉の奥がひやりと凍るのを感じた。

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