もう一度、始まりから

瞬遥

プロローグ 『後悔と喪失』

0.1 柏木恭子(34歳)


――2025年4月

 ビルの隙間を吹き抜ける夜風が、春の終わりの湿った空気を運んでくる。

ネオンがちらつく駅前を抜け、コンビニの前を通り過ぎるとき、ふと視線を横に向けた。


 ガラスに映る自分の姿。


 少し伸びて肩にかかるダークブラウンの髪。

厚手のカーディガンの下に隠した胸。

細身のデニムとパンプス。


服装だけを見れば、ごく普通の女性に見えるはずだった。


 でも――。


 映る顔を直視できず、私は目を逸らした。

喉の奥にわだかまる違和感を無理やり飲み込む。

ガラスに映った私は、私の中にある「理想」とは程遠かった。


 視線を戻し、歩き出す。


すれ違う人の気配に、無意識に肩をすくめた。


 見られている。


 そんな気がするたびに、足がすくむ。

まるで通りすがるすべての人が、私の正体を見抜いているかのようだった。

実際、職場では何度もそんな場面に遭遇している。


 ドラッグストアのレジに立っているとき、ふと聞こえた囁き声。

 「あの人、元男でしょ?」

 「あ、やっぱり……声で分かるよね」


 気のせいかもしれない。


でも、耳に残る。

頭の奥に焼き付いて、離れない。


仕事中、私は笑顔を作り続ける。

接客業の基本だ。


どれだけ言葉が突き刺さっても、表情を崩さずに、淡々とこなす。

でも、喉から絞り出すように発する「ありがとうございました」の一言が、どうしても嫌だった。


 この声がなければ。

 この体格がなければ。


 どれだけ努力しても、どうしても埋められない「差」がある。


 もっと早く始めていれば。


いつもそこに戻る。

遡るのは、あの頃。


 ──バスケットボールに打ち込んでいた中学、高校時代。


 私は、あの頃すでに気づいていた。

自分が「男」として生きることに違和感を覚えていた。

けれど、スポーツを辞める勇気がなかった。ただ「なんとなく」続けてしまった。


 そして、気づけば背は175cmを超え、肩幅は広くなり、体はごつごつとした筋肉に覆われていた。


 辞めればよかった。


 あのとき「自分は女の子になりたい」って、ちゃんと伝えればよかった。


 なのに、私は逃げた。

世間体を気にして、「普通の男」を演じてしまった。

結果として、私は「なりたかった私」にはなれなかった。


 歩きながら、拳を握る。

こんなこと、考えても意味がないとわかっている。

それでも、後悔だけは積もり続けていく。


 マンションに着き、玄関の鍵を開けた。

暗闇の部屋に入り、灯りをつける。


 無機質なワンルームの鏡の前に立ち、カーディガンを脱ぐ。


 シャツのボタンを外し、そっと胸元を見下ろした。

手術で得たCカップの膨らみ。

そこにあるのは、人工的に作り出した自分の体。



だけど、それでも私は――。


 ゆっくり視線を下げ、肩幅、鎖骨、腕の筋。


 鏡に映る自分の体が、まるで誰か他人のもののように見えた。


 豊胸をしても、ホルモンを打っても、性別適合手術を受けても、戸籍を変えても私は「私」になりきれない。


 私は、本当に女になれたんだろうか。


 そんな疑問が、何度も、何度も、頭をよぎる。


 ふと、体の力が抜ける。


 「こんな人生なら、いっそ……」


 ぽつりと漏れた言葉に、私ははっとした。


 それ以上、考えてはいけない。

考えてしまえば、取り返しがつかなくなる。



でも、もし――


もしも、やり直せるのなら。


私は、違う人生を生きられたんだろうか。






0.2 柏木恭平(5歳)


 白い。


 どこまでも、ただ白い世界だった。


 上下も左右もわからない。

ただ、私はそこに「立っている」という感覚だけを持っていた。


 ――夢?


 そんなはずはない。

私は確かに、自分の部屋で鏡を見ていた。

あのどうしようもない現実に押しつぶされそうになっていたはずだ。

それなのに、気がつけばここにいる。


 静寂の中、ふと気配を感じた。


 目の前に、ぼんやりとした影が立っている。


 人……? いや、それとも――


 形を持たないそれは、私をまっすぐに見つめていた。


 「人生をやりなおしたいか?」


 声が響いた。

直接耳に届いたわけではないのに、まるで頭の中に流れ込んできたようだった。


 「……え?」


 唐突すぎる問いかけに、声が詰まる。

だが、その言葉が持つ意味を理解した瞬間、胸が締めつけられた。


 やり直したい。


 何度願ったかわからない。


 もっと早く、この体と向き合っていれば。

 もっと早く、性別移行をしていれば。

 もっと早く、自分を偽るのをやめていれば。


 だが、それは叶わない願いだった。

やり直すには、時間はあまりにも残酷で、人生はあまりにも一度きりだった。


 ――本当にそんなことができるのか?


 喉の奥で、言葉にならない声が震える。


 もし、それが本当に叶うなら。


 私は、もう一度、自分の人生を生き直せるのなら――


 「やり直したい……」


 そう呟いた瞬間、白い世界が一瞬にして光に包まれた。


視界が焼かれるほどの眩しさ。

意識が遠のいていく。


 次に目を開けたとき、違和感に気づいた。




 天井が、やけに高い。


 ぼんやりとした頭で、ゆっくりと手を動かしてみる。


 小さい。


 信じられないくらい、小さな手だった。


 ――なんで? どうして?


 混乱しながら、身体を起こそうとする。

その瞬間、耳に飛び込んできたのは、幼い自分の声だった。


 「……え?」


 震える手を見下ろし、戸惑う。


 まさか、そんなはずは――


 だが、確かにこれは私の体だった。

1996年、5歳の幼稚園児だったころの、自分の体だった。

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