第25話 伯爵邸の温室
長い坂を上り、アーチ型の門を抜けた先に、カスタニエ伯爵邸はあった。
門から屋敷までさらに30メートルほど進み、ようやく入り口に辿り着く。
扉の前には、黒い燕尾服を着た初老の男性が立っていた。
近寄ると階段を下りてきて、胸に手を当てる。
「クリスティアン・アッシュベルト様でいらっしゃいますね。お待ち申し上げておりました」
深々と一礼し、僕を屋敷の中に招き入れる。
ダンスパーティーとは違い、中は静かだった。
自分の靴底が立てる音が気になるほどに、高い天井に響いて聞こえた。
階段を上がり、二階の奥の部屋まで行くと、その男性は中に声を掛ける。
「ベアトリスお嬢様」
すると、軽い靴音がして、ベアトリスが姿を現した。
シックな真紅のドレス姿で、髪にも同じ素材のヘッドドレスをしている。
「いらっしゃい、クリス」
「お招きいただき、ありがとうございます」
本当に制服で良かったんだろうか。
僕は内心ひやりとしながら、ベアトリスに一礼した。
なぜなら部屋の中には、タキシード姿の男性しかいなかったからだ。
「ここに居ても退屈よ。一緒に温室へ行きましょう」
内緒話をするように耳元で囁くと、僕の手を引いて階段を下りていく。
「良かったんですか?」
「いいのよ。もう顔を突き合わせるのも、飽き飽きしていたの」
一階に下りたところで先程の男性に会い、相手は目を丸くしていた。
「温室へ行きたいの。鍵をちょうだい」
「かしこまりました」
ベアトリスは、大きな鍵を受け取ると、僕を連れて邸の奥へ進んだ。
建物を出て庭を抜け、更に奥にあるガラス張りの建物を指差す。
「あそこが、うちの温室ですわ」
温室と言っても、寮の半分くらいはありそうな広さだ。
三角屋根の天井も高く、優に5メートルはあるだろう。
「入って。初めは少し暑いけれど、すぐに慣れるでしょう」
中はそれほど温度は高くなく、汗ばむほどではない。
ただ、少し湿度は高く思えた。
「ここにある花は、私が育てているのです」
「きれいですね。見たことのない花ばかりです」
ベアトリスは花の説明を始めて、僕はそれに聞き入っていた。
花にまつわるエピソードは興味深く、ベアトリスの笑顔を見られるのは嬉しいが、僕は引っかかりを覚えた。
もしかしたら、誘われたのは僕だけなんだろうか。
てっきりファルコ・クラッセのメンバー全員かと思ったら、セレスの姿さえない。
「こちらにいらして」
ぐるりと温室を見て回った後、ベアトリスは僕に白いチェアを勧めた。
木製のチェアは背凭れが
僕がその片方に座ると、ベアトリスはその隣に座った。
そして、バランスを取ろうと肘掛けに置いた僕の手に、白手袋をはめた手を乗せる。
振り仰ぐと、ブルーグレイの瞳が細められた。
長いまつ毛が揺れて、影を落としている。
赤い口紅を引いた唇を開き、僕に囁く。
「クリスは私のこと、どう思って?」
どうと問われて、僕は戸惑った。
この状況で、何を訊かれているのか、さすがに僕にもわかる。
僕がベアトリスにどういう感情を抱いているか。
もっとはっきり言えば、好きかどうかということだろう。
でもそれを、どうして僕に聞くのだろう。
ベアトリスが好きなのは、婚約者であるアインハルトのはずじゃないのか。
既にわかっている事実なのに、僕の気持ちをここで聞く意味なんてあるのか。
僕に何を言わせたいのか。
そして、僕はこの問いにどう答えたらいいのだろう。
僕は考えあぐね、言葉が思い浮かばない。
すると、ベアトリスは更に身を寄せてきた。
濡れた瞳に僕を映し、何か言いたげに唇を開く。
その時だ。
さっと冷たい風が、温室に吹き込んだ。
ドアが開き、誰かが入ってきたのだとわかったところで声がした。
「抜け駆けはいただけないな」
聞き覚えのある声は、間違いなくアインハルトだ。
僕はチェアから立ち上がり、慌てて否定した。
「誤解です」
すると、ベアトリスも立ち上がり、僕の腕に手を添えた。
「あら、あなたに許可を願う必要があるかしら? クリスはまだ、誰のものでもなくってよ」
僕が誰のものかなんて、この際どうでもいい。
アインハルトが今、眉を顰めているのはそのせいじゃない。
「お前には、俺の想いがわかっているんだろう?」
僕は、ベアトリスから離れたかったが、まさか腕を振りほどくわけにはいかない。
その間に、二人の話はヒートアップしていった。
「クリスに好意を寄せていることかしら。だからと言って、私が遠慮する必要はありませんわ」
「クリスの意思はどうなる。お前は今、自身の想いを押し付けているだけだ」
一体、この二人は何を言っているのだろう。
話がまったく見えない。
アインハルトはベアトリスのことが好きなんじゃないのか。
僕への好意って、どういうことか。
「今宵のあなたのご希望は?」
ベアトリスは、僕の胸元にそっと手を当て、下から顔を覗き込んでくる。
希望?
僕は、二人に仲良くしてもらいたいだけだ。
でも、二人が望んでいるのはそんな答えじゃない。
わかっているからこそ、僕は一歩退いた。
「すみません。僕は──」
「ベアトリス、彼を追い詰めるな」
アインハルトが重ねるように言い、ベアトリスに詰め寄った。
二人は口論を始めて、僕は仲裁しようとしたのだが。
「お嬢様、おやめください」
先程の初老の男性まで現れて、僕に告げた。
「どうぞ今宵はここまでにしていただきたく」
頭を下げられて、僕は命拾いした心地がする。
後ろ髪を引かれながらも、温室を出て伯爵邸を後にする。
僕を追ってくる人がいなくて、ホッとしながら寮に向かって歩き出した。
学院の正門が見えてきて、僕は安堵して身体の力を抜いた。
ふらふらと校内を歩いていたところ、ジラソーレ寮の前に佇むセレスの姿が目に留まった。
僕の方へと近寄ると、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ベアトリスさんのところにいたの?」
「知っていたのか?」
「うん、クリスを誘うって聞いていたけど」
それなら事前に言っておいて欲しかった。
そうすれば僕は──。
きっと、行っていなかった。
だから、それを見越して、セレスは言わなかったのかもしれない。
僕にはセレスを責めることはできない。
自分の気持ちくらい、自分で決めて動く。
セレス任せになんてできない。
僕はそこで、ふと思い至った。
僕のゲーム内能力は、まだ有効なのかと。
「セレスは、気になることはある?」
「今は、デュークのことが気になるの」
テンプレ通りのやり取りをすると、ホログラムのような構内図が浮かぶ。
講堂の傍の中庭。そこに光が点滅している。
噴水がある場所で、夜はあまり人通りがなく静かだ。
昨夜言っていたのは、あそこのことなのか。
頭にデュークの顔が過り、僕は気持ちを落ち着けようと一つ深呼吸をした。
今は、セレスの気持ちを優先する時だ。
僕の感情なんてどうでもいい。
「中庭に行こうか」
「中庭? あそこ噴水があるものね。夜もきれいかな」
僕は久しぶりに二人きりでセレスと歩き、互いに労い合った。
「きっと、今の私たちを見たら、お母様は嘆くわね」
お母様、と言われても。
僕は、母の顔を知らない。
ゲームには、出てこなかったからだ。
チクリと胸が痛んで、僕は我知らず顔を歪めた。
「あれ、デュークじゃない? デュークーっ!」
セレスが名前を呼びながら駈けて行く。
噴水の縁にある段差に座っていたデュークは、立ち上がってこっちを見た。
正確には、走り寄るセレスを。
銀色の髪が月光に輝いている。
すらりとした長躯は、シルエットでも美しい。
胸が、痛い。
さっきの比じゃないほどに、胸が締め付けられる。
デュークがきれいであればあるほど、僕は苦しくなる。
二人が話し始めたのが見えたところで、僕は背を向けた。
きっと、デュークなら、セレスを寮まで送り届けてくれるだろう。
僕がここに残る必要はない。
──違う、そうじゃない。
必要かどうかではなく、僕はただこれ以上、二人が話す姿を見ていられなかっただけだ。
僕は、痛む胸を押さえながら、暗い夜道をひた走った。
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