第10話 退方に似た傍の在り方

 電車から降りたのは僕らだけだった。見慣れた最寄り駅のはずなのに、初めて来た場所のような気がするのは深夜だからだろう。ホームも、改札の周辺も、他に誰もいなかった。静かだった。駅前も、道路も、いつも尊と別れる十字路も……尊は黙ってついて来るから、家に帰り着くまで僕も何も言わなかった。

「コート、はたかないと……砂が付いてる」

 かちゃっと音を立てて鍵が開いた時、おずおずした尊の声が聞こえた。振り向くと、曖昧な距離で尊の腕が迷っていた。

「リュック下ろせよ」

 小さく息を吐いて、それだけ言うと尊は大人しく従った。両肩から胸と腹をはたく度にぱらぱらと細かい砂が散らばった。両肩に手を添えてくるりと身体を裏返す時も、尊はされるがままだった。背中も同じようにはたいて砂を落とした。砂が目立たなくなった時、そっと一歩距離を空ける。尊が手を伸ばしてくるより先にリュックを下ろしてコートを脱いだ。迷ったように突っ立っている尊の前で大袈裟にコートを振って砂を飛ばす。自分でも呆れるくらい、上手くやれた。

(ずっとやってきたから)

 人に身体を触られそうになる度に、さり気なく視線を外して身体を引く。不意に身体のどこか――手や肩や腰を触られても慌てず、悪寒を堪えて身体を外す。怪しまれずに、人に触られることを避ける術が自然に出てくる。だから、いつも一緒にいる尊も気づいていないのだろう。気づいていたら、あんなことを告げるはずが無い。

「髪も砂っぽいな……シャワー浴びよう」

 そう言ってドアを開けると、尊はまたこっくりと頷いた。靴の中にも靴下の中にも細かな海砂がたっぷり入っていた。それも玄関で捨てる。塩気の強い砂は粘ってなかなか自分たちの身体から離れなかった。脱衣所に案内した尊へハンガーにかけておくから、と言ってコートと制服の上下を受け取った。丸一日以上、無人だった家は当然冷え切り、真っ暗だった。制服とコートを抱えて自分の部屋の電灯を点けた時、何故だか口元が緩んだ。

(本当に君は……)

 尊の制服とコートをハンガーにかけて、壁に吊るす。自分も上着を脱ぎながら、着替えを貸してやらないといけない、とか、布団もこっちへ運んでおこうとか、そんな日常的なことを漠然と考えた。クローゼットの中を漁って着替えを見繕ってタオルと一緒に脱衣所へ置いて、母さんの病室だった部屋から姉さんたちが泊まりに来る度に使う布団を僕の部屋に運んだ。

 殺されかけた彼の世話を、殺しかけた僕が甲斐甲斐しく焼いていた。膝を抱えて座り込んで、そのちぐはぐさと、解決していないことに頭を抱えた。尊でなかったら、僕の家には来ないだろう。言われた時は頷けても、帰る道中で正気に戻れば自宅に帰ることを選んだだろう。尊は、そうはしなかった。尊にそれを選ばせた感情を、何と呼べばいいのだろう。

【それはな】

 分かっている。認めるしかないことも。そう思った時、部屋のドアが開いた。

「狼貴……? ありがとうね、着替えとかタオルとか」

「いいよ」

 遠慮がちに言って部屋に入ろうとしない尊を視線で促す。尊は小さく頷いて、ドアを閉めて、僕が運んでおいた布団の上に座った。体格に差が無くてよかった。貸したジャージのサイズは、ほぼ合っている。

「……ベッドと机、どうしたの?」

「売った……四月からは施設で暮らすから、もういらないんだ。さっさと片付けないとだって、義兄さんと姉さんが」

 そっか……と尊は目を伏せる。長閑な、石鹸の匂いがした。

「転校したりしないから、安心しろ。三年生も芸術系クラスなのは変わらないから」

 物言いたげだった尊は、そう言ってやると少しだけ視線を上げた。それに軽く頷き返して、シャワー浴びてくるから寝てていいぞ、とだけ言って部屋を出て浴室に向かった。

(だから)

 友達でいられるぞ、とは言えなかった。それを言えば、尊を失恋させてしまう。何も言わなければ、と一瞬だけ考えて自分でも首を振ってしまった。尊に言われてしまった以上、応えなければならないのだから。

(どうしたらいいんだよ)

 湯を全身で受けながら、自分の中に問いかけても答えが出ない。声も沈黙したままだった。肝心な時に役に立たない、と毒づいても何も聞こえなかった。いつもより時間をかけて丁寧に身体と髪を洗って、洗面を済ませた。暗くて寒い廊下の先にある僕の部屋から明かりが一筋伸びていた。ドアを開けると、尊はさっきと同じ姿勢で布団の上に座っていた。

「狼貴」

「寝てればよかったのに」

尊に寝ててほしかった。それなら、先延ばしにできる。できる限り、さり気なく布団を敷く。尊も、僕の布団に並べて自分が寝る布団を敷いた。布地が擦れる音だけがしていた。

「寝ようか」

 二人分の布団が敷かれたのを見計らって、それだけ言って、尊の返事も聞かず電灯を消した。尊が息を呑む気配がしたけれど、何も言わず布団に潜り込んだ。尊に背を向けて横になると、尊が布団に潜り込む音がした。尊は、単純な奴だ。僕みたいな不眠でもない。明かりを消す前にちらっと見た時計は、午前二時を回っていた。だから、きっと眠気に勝てずに寝てしまうだろう。そうすれば、朝はギリギリまで寝て、慌てて学校に行って、授業を受けて放課、部活をして一緒に帰って、ずっと友達で……

「狼貴、起きてるよね?」

 闇の中でも、背を向けていても、尊の視線はずっと僕に注がれていると気づいていた。



 寝ててほしい、と狼貴が思っていることには気づいていた。帰って来てから一度も目が合ってないし、呼びかけてもはぐらかされていたから、苛立っていることも分かっていた。それでも。

「おばさんのこと、本当にごめん。おばさんの気持ちも、君の気持ちも全然分かってなかった。それでも……」

 厚かましいな、と自分でも思う。秘密を守ることはできなかった。そのせいで、殺意を抱かせるほど狼貴を追い詰めてしまった。分かっている。でも、僕にそうさせた感情を抑えきれない。

「おしえてほしいんだ……僕が、君を好きって言ったらいけない理由」

 布団から出ている狼貴の黒い頭に話し続ける。沈黙。告白を拒絶されたことは、もう分かっている。友達のままでいてほしい、というのはそういうことだ。でも。

「恋人になれなくても……狼貴が好きだから、嫌がることは絶対にしない。君が嫌なら、もう話しかけないし一緒に過ごすのもやめる。でも」

「性欲はあるか?」

 予想もしない問いに僕は、え、とだけ言った。狼貴がどうしてそんなことを聞くのか、分からなくて戸惑っていた。答えられない僕に、狼貴は動かないまま、また同じことを繰り返した。

「性欲は……あるか?」

 思い出していた。海を見に行こうと狼貴に言われた日の朝のこと――狼貴と抱き合う夢を見て、目覚めた時に僕の身体は……いや、身体だけじゃなくて、紛れもなく僕自身が望んでいたことは。

「ある」

 恥ずかしくて声が小さくなってしまう。多分、僕の顔はトマトみたいに赤くなってる。狼貴は背中を向けたままなのに、顔を見られたくなくて布団を顔半分くらいまで引き上げる。

(したい、って思ったんだ)

 誰だっけ? 部活の同級生で、男の子同士の恋愛ものが好きだと言っていた女子たちがいた。学校への漫画の持ち込みは禁止なのに、その子たちがこっそりその手の漫画を持ち込んでいたことがあった。僕ら男子は冷やかして面白がり、女子たちが止めるのも聞かずページをめくって……あまりの生々しさに沈没した。僕らの年齢では買えないはずの漫画だったらしい。漫画でもそうだったのに……狼貴とは、それをしたいと当たり前のように思っていた。その欲望は性欲と呼ぶしかない。

「じゃあ駄目だ」

 狼貴が、呻くような声を出した。

「君に性欲があるなら……友達にしかなれない」

 狼貴は、腹痛を堪えるように身体を丸めた。どうして、と言いかけて思い当たることがあった。

「僕が男だから」

「違う」

 知り合った頃の狼貴が好きだと言っていたのは、女子生徒だった。何度か強引に引っ張って行かれて見た彼女は、なかなかの美人だった。だから、拒まれる理由があるなら、それだと思っていた。

「違うんだ……君が女でも無理なんだ」

 独り言のような声は、それきり続かなかった。カーテンの隙間を車のヘッドライトらしい明かりが横切っていった。お互い身じろぎもしなかった。

「じゃあ、僕に性欲が無かったら……」

「それなら恋人にならなくていいだろ?」

「それは……違うと思う」

 どうして性欲と恋人になることが連動するのか。

「性欲が無くても、僕は狼貴の恋人になりたいよ。狼貴が欲しいんだ。好きで好きで……どうしようもないんだ。君だって、あの女子生徒にそう思ったんだから、分かるよね?」

 狼貴は何も答えなかった。布団から少し出た肩が、僅かに動いた。

「近くにいて……色んなことを分かち合って、味わって、君と一緒にいたいんだ。好きなことも嫌いなことも、楽しいことも辛いことも……全部、狼貴としたいんだよ。オペラを観たり、オーケストラを聴いたり、また海を見に行ったり……僕のピアノも、指揮者になったらその時も君に一番良い席で聴いてほしいし、君が絵を描いている姿も、描いた絵も一番近くで最初に見たい。そうやって」

「なら友達でいいだろ!」

 低い声で怒鳴られて、言葉に詰まった。狼貴の肩が小さく震えていた。同じように、震える声が続いた。さっきとは打って変わって小さい声だった。

「友達だって君が言った全部ができるじゃないか……だったら別に、恋人にならなくても友達のままでいいじゃないか……友達でもいいだろ……それじゃ嫌なのは、本当はやりたいからだろ……誤魔化さないで言えよ、裸になれって……やらせろって」

 あまりに露骨な表現は狼貴らしくなかった。海辺でもそんなことを言ったような……噛み合ってない、と僕はやっと気づいた。狼貴は何か勘違いしている。狼貴にとっての恋愛は、つまり。

「性欲だけなの……? だって、あの女子生徒への気持ちは違うって、狼貴だって言ってたじゃないか」

 狼貴以外の同級生なら、そんなもんだろうと納得できた。卑猥な漫画をこっそり学校に持ち込んでいたのは女子だけじゃない。スマホで見られる動画のほうが紙の漫画より隠しやすいから、そっちはもっと多かった。でも、狼貴は。

「そんな話、一回もしなかったし……子どもとか一緒に暮らす家とか言ってたけど……それってそういう意味じゃなかったよね?」

 それについて話す時の狼貴は本当に楽しそうだった。一緒に暮らしたら、とか、子どもが生まれたら、なんて話もしていたけど、それは絵本に出てくる家族の絵みたいな呑気さしかなかった。男女が一緒に暮らした時にするであろう行為の生臭さとか湿気とか粘り気からは、最も遠い感じがした。

「あの人は……綺麗だった。なんていうか……世界の美とか善良とか、そういうのが人の形になったら、あんな感じだろうなって思ってた……そんな人と愛し合える僕になりたかったんだ。だから、そういう気持ちとは違うんだ」

 随分と詩的なこと言うなぁ、とさっきとは別の意味で赤くなる。でも、狼貴のことだから本気でそう思っていたんだろう。狼貴への恋愛感情を自覚する前の僕なら、ちょっと笑ってしまったかもしれないけど、今の僕は笑えない。僕の抱いている感情だって、あの日以来の葛藤だって、他人から見れば笑ってしまうようなものだろう。それが分かっているから、笑えない。

「信じてもらえないかもしれないけど……したいって思ったことないんだ。キスも、その先……つまり…………も」

 狼貴に一番似合わない言葉が狼貴の口から出てきたことに、僕のほうがぎょっとしてしまった。一瞬の後、自分がしたがっていた行為の正式名称だと気づいて、狼貴の言っていることも理解できた。

「でも……好きなんだよね? それなら恋人になりたい僕の気持ちも分かるよね?」

 そうだ、するしない、したいしたくないとは別に恋人になりたい気持ちがあるなら――したいって思ったことが無い、というのは置いといて――僕と同じ気持ちになったはずだ。

「だから」

「分からない」

 振り払うような声だった。

「恋人と友達の違いが分からないんだ……友達でも君がさっき言ってたこと全部やってきたし、その……しないなら恋人になっても変わらないし……それが関係無いなら、どういう気持ちなんだよ……? 恋人になりたいって……一緒に暮らすのも、子どもも、友達でもできることだろ? 子どもは……しなきゃできないだろうけど、方法は他にもあるし……」

「えっと……」

「あの人と暮らすのは想像したよ。でも……想像の中であの人と話していることも、一緒にやりたいことも、君と毎日していることと変わらないんだ……読んだ本の感想を話して、スケッチを見せて、二人で出かける場所も……ただ、女性に向かっているから恋なんだろうって思っていた。親しくなったら、したいっていうより……するんだろうな、くらいしかなかったけど……」

 そう言われると僕も分からなくなってしまう。

「友達でも同じなのに、どうして恋人になりたいんだよ? 違いって言ったらそれしかないじゃないか」

「それは……」

 違う、と言いかけて違わないと気づく。でも、何か違う。こういう時、狼貴が羨ましい。どんどん思ったことを言えて、力説できて、それなりに纏まっている狼貴が。でも、何も言わないわけにはいかないんだ。僕は、布団を少し下げて顔を全部出した。

「恋人ってさ……一番になれるじゃん?」

 狼貴が少し頭を動かした。まだ顔はこちらに向けてくれないけど。

「ほら、友達を誘った時に恋人と先約があると断られるけど、友達と先に約束しても恋人を優先するのって珍しくないじゃん? そこまでじゃなくても、馴れ馴れしく誰かの恋人に近づかないとか、そういうのあるじゃん? 恋人になってくれれば、もう誰も狼貴に告白しないから……他の誰かに狼貴の一番になってほしくないんだ」

 多分、これが一番大きい。

「僕は、狼貴の一番になりたいんだ。だから」

「好きだよ」

 今なんて言った?

「僕が一番好きなのは、尊なんだ。他の友達も、恋人もいらない。姉さんより、妹より、義兄さんより尊と一緒にいたい」

 それなら。

「でも、僕はできない」

 またカーテンの隙間を明かりが動いていった。狼貴は動かないから、表情が分からない。

「多分、君の『好き』と僕の『好き』は違う……君が望んでいることはしてやれない。だから、ずっと友達でしかいられないんだ。だって……」



「ずっと友達でしかいられないんだ。だって……」

 そこまで言って、唇が動かなくなった。尊が、続きを待っているのが分かる。きっと目を見開いて、息を詰めて僕の言葉を待っているんだろう。尊は本当にいい奴だから。他の誰に言っても考えすぎだとか、ふざけてるとか、屁理屈だと言われるようなことも、尊は笑わないで受け止めてくれる。現に、さっきまでの話も笑わずに聞いてくれた。それに、もう隠さずに諦めてもらう方法が思いつかない。

「人に触られるのが……嫌なんだ」

 息を呑む気配がした。ごめんな。もっと早く言うべきだったんだろう。そうすれば、もっと傷つけずに済んだかもしれない。

「人に触られると悪寒がして、耐えられないんだ……抱き着かれるのも、肩を組むのも、握手も嫌だ。だから……もし君の『好き』と僕の『好き』が同じでも、恋人は無理なんだ」

 布団が動く気配がした。尊が上半身を起こしたのだろう。予測はしていた。驚くだろうし、信じてもらえるとも思えない。だから、尊にもずっと言えなかった。身体への接触は、合意の上なら愛情表現だ。手を繋ぐことも、髪を撫でることも、キスも、身体を重ねることも……愛情の深さを現す行為とされている。それが、できない僕は……いや、それに結び付く感情が起こらない僕は……

(おかしい)

 尊はきっとそう言うだろう。そんなはずないといって身体に触ろうとするか、別れるための方便と見做すか、どっちにしろもう尊は……

「誰かに何か酷いことされたの?」

 何を言ってるんだ、と問い返す前に尊が重ねて言った。

「ほら、よく言うじゃん……人に、その……酷いことされた人が触られるの怖がるようになるって……言いたくないなら……言わなくていいけど、でも……」

 尊の言う「酷いこと」が何かはだいたい察した。それじゃない。分かりやすい理由は、何も無い。

「僕に言えないなら……先生とかお医者さんとか、スクールカウンセラーとか……どうかな?」

 予測もしない言葉だった。こんな突拍子も無い話を信じてくれて、僕が傷ついてないか――それだけを考えてくれる。そう理解すると、身体の内側の温度が上がった。尊だけなんだ、僕をこんなに思ってくれるのは。

「あのさ、まさか……実習生じゃないよね? 君にその……」

「君が心配しているようなことは無いよ」

 安心しろ、と寝返りを打って尊に向き直った。肘を突いて上半身を起こしていた尊が、視線を合わせるように身体を寝かせた。

「本当に?」

「うん、本当……誰にも何もされてない」

 それは本当だ。でも……

(されてはいないけれど……あれは……)

 暗い部屋が、絡み合っていた父さんと母さんの姿を思い出させる。落ち着かない気分で、意味も無く布団の位置をずらす。その一瞬の空白の後に、尊が言った。

「されてはいなくても、何かあるよね? 黙っているのは言いたくないからだよね?」

 何も、と言いかけた言葉を尊は遮った。

「言いたくないなら言わなくていいよ。でも……本当に何もされてないんだね? 誰かが狼貴に酷いことしたわけじゃないんだよね?」

 卑猥な出来事に対する好奇心から出てくる言葉ではないことは、尊の固い表情と遠回しな言い方で分かる。言わなくていい、と言ってくれるなら言えるのかもしれない。それでも、迷った。沈黙を遣り取りする僕らの間に、遠くの方で鳴く猫の声が割り込んできた。

「狼貴」

 身体の内側がまた温かくなる。こんなに僕を温めてくれる尊になら言えるだろう。言ってもいいのだろう。

「子どもの頃……幾つの頃かは覚えてないんだけど……」

 シーツの皺にだけ視線を向ける。暗闇の中の白い皺は、砂丘に似ていた。母さんと同じ布団で寝たこと、どうしてか夜中に起きてしまったこと、母さんを探しに行った先で見た父さんと母さん……二人がしていたこと……母さんの瞳……翌日の母さんの言葉……調べても僕のようになった人は見つけられなかったこと……その全部をゆっくり話した。尊は、何も言わなかった。

「……だから、それが原因ってわけでもないと思う。そういうの嫌だと思う理由にはなっていると思うけど、触られると悪寒がするのとの関連は、分からないんだ」

 だから、治しようもない。そう言いかけた時、尊が小さく、でも一つだけ良かった、と呟いた。何が、と戸惑いと苛立ちが混じった時、尊は続けた。

「嫌なもの見たの辛かったよね……小さい子ならショックなのも仕方ないよ。僕が今……父さんと母さんのそれ見たら、嫌だと思うし……気持ち悪いって思うと思うから……でもね」

 息継ぎのように言葉が切れた。上目遣いに見た尊が、唇を舐めるのが見えた。

「狼貴が酷いことされたわけじゃないなら良かった。でも、ごめん……僕、実は……」

(君って奴は)

 どうしてこう呆れるほど人が良いのか、と呆れと感心が入り混じる。黙っていれば追及されないかもしれないのに、言い淀みながらも謝ろうとしているのは。

「気づいていた。電車の中で君が僕の手を握っていたのは……でも、眠気が強くて、嫌って思う暇も無かったよ」

 謝るのは苦痛なことだ。プライドを捨てないといけないし、赦されるかは分からない。それは、僕が一番よく分かっている。だから、尊にそれを言わせたくなかった。それでも、尊は辛そうな顔をした。

「ごめん、いけないとは思ったけど、どうしても我慢できなくて……君が触られるのは嫌だって知らなくて……」

 開き直らず謝れる尊は、本当にいい奴だと思う。今まで告白してきた連中は二言目には「好きだから」で全てを正当化した。一方的な欲望を語ることも、弱みに付け込むような言い草も、身体に触れようとすることも……「好き」と言えば何もかもが正当化されると言わんばかりだったのに、尊だけは。

「いや、触られるのが嫌じゃなくてもいけないことを……本当にごめん」

「もういいよ」

 怒っていないのは本音だ。でも……それでも。

「恋人にはなれないんだ……君に我慢させることになる。恋人になりたいってそういうことだろ? それを僕は受け入れられないし……恋人になれないまま、ずっと今までみたいに友達でいるなんて君もできないだろ? だから……」

「好きだって言ってほしくなかったの……?」

 頷くしかない。告白してきた連中全員を拒んできた僕は、その先に起きること全てが分かっていた。誰一人として友達のままではいられず、友達にもなれなかった。そこに男女の違いも、付き合いの深度も長さも違いは無かった。皆自分勝手に傷ついて去って行った。

「手を繋ぐのも、抱き合うのもキスも、その先も僕にはできない。恋人と友達の違いも分からない。そんな君を僕に繋ぎ止めるには友達でいるしかないだろ? でも、君は僕を好きになったから、もう……」

 終わりだ、と言えなかった。目を閉じて口元を覆う。閉じた瞼の裏に色んな光景が見えた。尊と初めて会った時、初めて一緒に出かけた日、好きだと思った女子生徒を一緒に見に行った午後、図書館で過ごした日曜日、高校に合格したと知らされた昼前、入学式の朝、自作の詩を朗読した夕方、海を見た夜……

(あれ……?)

 軽やかな痛みが頭蓋を貫いた。幾つかの見覚えのない光景が広がる。これは違う。空の色も、街並みも、内装の様式も、視界の端々にいた人の服装も……ここは……何処だ? あれは、尊?

「恋人は諦める。でも……」

 顔半分を覆うように引き上げていた布団が、そっと下げられた。冷たい空気の流れが頬を撫でた。

「僕は狼貴の一番の友達でいたい」

 身体に手が触れないように細心の注意を払っていることが分かった。それでも、尊の顔を見ることができなかった。できるわけがない、と思うのに声にできなかった。

「本音を言えば狼貴の身体に触りたい。手を繋ぎたいし、抱き合いたいし、キスもしたいし……その…………もしたい。夢も見たんだ。君と抱き合う夢を見た。起きた時に僕の身体は反応してて……恥ずかしかったけど、その先を君としたいって思ったのも本音なんだ。でも……それは性欲だけじゃなくて、もちろん性欲もあるけど特別な関係っていうか、君が僕の一番で、僕が君の一番って確かめたいって……でも、それも僕の勝手な言い分だって今は思うんだ。僕が本当に望んでいるのは、狼貴、君の隣にいることなんだ」

 尊の声は弱々しいのに、言葉の強度は高かった。言い返さなければと思うのに、言い返せる急所も見えているのに声が出なかった。世界の中に僕らしかいないような静寂と冷気と暗闇に包まれていた。

「友達と恋人って全然違うって思っていた……正直、今も同じだとは思わない。でも、無理に分ける必要もそんなに無いって思うんだ……狼貴は、我慢させることになるっていうけど、確かに君とはできないことが多いんだろうけど……君と友達でなくなって離れたら何も無いんだ。だから……君を失うことに比べたら、できないことを我慢し続けることを選びたいんだ」

 こんなことを言ってくれた人なんて一人もいなかった。さっきからずっと、いや、海を見た時からずっと予測もできないことばかりだった。尊のことは何でも分かっているはずだった。単純で、人が良くて、起きたことは何でも受け入れてしまうのが、僕の知っている尊だったのに。

「一緒にいるためなら何でもする。君が僕にしてくれたように、僕の父さんを説得してくれたように、君の義兄さんを僕が説得する。まだ入試まで時間あるから、君は絵に専念しなよ。必ず合格して、一緒に夢を叶えよう」

 薄く開いた瞼の隙間から、尊を見た。海辺の時と同じように心臓の辺りを右手で掴んでいる。海を見に行こうと言った昼休みも似たような動作をしていた気がする。苦しいのか……? なのに、薄暗い中に見える表情に苦しみは読み取れない。真剣というありふれた言葉より、真摯や崇高、神聖というような言葉で表現したい顔だった。

縋りたかった。性欲と信仰が愛の両極だということを、この時初めて実感と共に受け入れられた。両方が尊の中にあるのに、尊は言葉以前の段階でどちらも掴んで、それでも高いほうを選ぼうとしている。そういう人間に縋りたいと思ってしまうのは、僕が弱いからだろうか? 友達のまま尊を繋ぎ止めたい僕の思いは、愛のどのくらいの位置にあるんだろう?

何も言えないでいる僕に、尊はまた身体に触れないように布団をかけ直した。

「何も言わなくていいよ……これからもずっと僕は変わらないから。狼貴が、尊といるのはもう嫌だって言うまで僕は一緒にいるから……もし狼貴がこっそりどっか行っても今度は絶対に探すから」

「本音を言え」

 ようやく絞り出したのは、捻くれた言葉だった。自分で分かっているのに、言ってしまう。

「全部本音。狼貴としたいのも、できないのを我慢して狼貴と友達でい続けることを選びたいのも……どっちも本音。でも、欲を言ってよければキスしたい。その先は……まあ、おいおい」

「未成年のくせに」

「だから期待しないで待ってる」

 おやすみ、という尊の声は、どこまでも甘くて柔らかくて、強かった。



 少年二人の寝息が規則正しく繰り返されていた。冬の長い夜は明ける気配もなく、部屋には夜闇が満ちていた。つと、一つの寝息が途切れた。茶色い髪の少年は、隣で眠る黒髪の少年を慈しむように見つめた後、そっと呼びかけた。

「アドルフ……君、アドルフだろ? 私が誰か、君も気づいているだろ?」

 久しく使っていない異国の言葉で、かつての名を呼ばれた黒髪の少年はゆっくりと瞼を開け、問いかけに答えた。

「グストルか」

 生身の人間では越えられない時を越えての再会に、不釣り合いなほど素っ気ない声だった。それでも、茶色い髪の少年は、感極まるほど素っ気なくなる親友の性質をよく知っていた。変わらないと思えば、それも愛おしく、ただ静かに頷いた。

「君の主観ではどれくらいの時が流れた? あれだけのことをやったなら……そう簡単には出してもらえなかっただろう? 私だって戻って来るのに人の一生分くらいかかっている」

「さてな……数えて、数えるのをやめて、また数え始めてやめて……千年、二千年……あるいは、もっと……」

 それはそうだろう。それだけのことをしたのだから……と茶色い髪の少年は目を伏せた。それでも、自分のことを覚えていたのは、その精神の営みをどう呼べばいいか……分かり切ったことだ。

「私はね、アドルフ……先の人生が終わる時に、切に願ったんだよ。君とやり直したい、と……その願いが聞き入れられたことに心から感謝したい。ただ、まさか、こういう人生を与えられたのは予想外だけれど、それでもね」

「確かにな……何もかも違うのに、よく似ている。その上、普段は彼らの中にいる……別ではないが、全てでもない……干渉も交渉もできるが、彼らは彼らで、我々は我々で独立している……奇妙な感覚だ……」

 茶色い髪の少年は、その言葉に頷いた。そして、ある種の覚悟を以て口を開いた。

「アドルフ、これだけは分かっておいてほしい。今の私……この少年が今の君に抱いている感情は、私があの頃、君に抱いていた感情と同じなんだ」

 黒い髪の少年は何も言わなかった。星が降るだけの夜は、無音だった。茶色い髪の少年は、黒髪の少年の瞳に焦点を合わせて言った。

「私はどうやら……女性にも男性にも同じように惹かれてしまう人間のようでね……あの頃はそんな人間がいることも、ましてや自分がそういう人間だということも知らなかった。だから、君に友情とは別の意味で惹かれている自覚も無くて……君の身体を求める欲動は親しい女性がいない欲求不満のせいだと、君に粉をかける人間に苛立つのは魅力的な君への嫉妬だと思い込んでいた……いや、思い込もうとした」

 黒髪の少年は何も言わず、さりとて瞳を動かすこともなかった。茶色い髪の少年は、続けた。

「それでも日々、違和感が大きくなっていて自分が怖かった。君と離れるのも恐ろしかったが、君が私の気持ちに気づいて拒むのではないか、という恐れがもっと大きかったよ……君がいなくなった時は、その不安が的中してしまったのかという恐慌から逃げたくて……この心の嵐は全て、君という親友を失ってしまった喪失感だと思い込もうとした。でもね……誤魔化せなくなったんだ。妻に恋をした時だ。君に寄せていた感情と、寸分違わない感情が私の中に生まれていたんだ。それを否定すれば、もう誰にも恋はできない……認めるしかなかったよ……失恋してしまったんだと、恋をしていると知る前に君を失ってしまったんだと……そうして一晩泣き明かして、翌日には妻に交際を申し込んだ。恋を失うのは一瞬だと、その痛みは耐え難いのだと、好きな人はいつまでもいてくれないのだと知ったからね」

 声が途切れた時、黒髪の少年は何も答えなかった。代わりにそっと瞳を揺らし、視線を漂わせた後そっと茶色い髪の少年を見つめた。互いの瞳は僅かに潤んでいた。

「気づいていた」

 茶色い髪の少年は、やはり、とだけ思った。黒髪の少年は、続けた。

「一緒に暮らし始めた頃から、君の私に寄せる感情が少しずつ変わっていることも……それが恋と呼ばれる感情であることも……全部気づいていた。それでも、私は動けなかった。君が男だったこともあるが……私も、この少年と同じことで悩んでいたからな」

 黒髪の少年は、遠くを見るような瞳になった。茶色い髪の少年は続く言葉を待った。

「遠くにいる美しい少女に夢を見て憧れる、それはできていたのだが……人の身体に触れたいとも、触れてほしいとも全く思えないんだ。小説や噂で見聞きする『恋』とも、君が私に向けるものとも、私の感情は違っているようで……私は生身の人間には惹かれないのではないかと悩み始めてもいた。人に触られることが苦手なのも、他の人はそうではないのだと知り始めた頃でもあったから……混乱していた。君が私に向ける感情と、私が少女に抱く感情は似ているが違うようだと……そして、君が私に恋することはあってはならないことだと……離れなければならないと……私との生活が君を悪い方へ変えてしまったのだと……そう思っていた」

「そうか」

 茶色い髪の少年にとっては予想通りのことだった。

「私は結局、その手の感情も欲動も生涯抱けないままだったようだよ……居心地の良い関係を失いたくないとは思うのだが……どうにも感情が一致しないのでね、ほったらかしにしがちで悲しませることが多かった。私は……大切だと思う人との関係は、君との関係と同じになるはずだと思っていたから……それにも混乱していた」

 それは大抵の人間は――ましてや、彼を恋する女性には辛いものであったろうな、と茶色い髪の少年は一つの疑問を口にした。

「君の奥方は……君を理解してくれたか?」

「時間はかかったがね。半分くらいは年齢のせいだと思ってはいたようだが、それでも私に合わせてくれた。私が多少なりとも応えられるようになるまで、彼女は待ってくれた。本当に多くのものを、彼女は私に与えてくれたよ」

 そう言って微笑む黒髪の少年に、茶色い髪の少年も安堵の笑みを浮かべた。親友が完全な孤独ではなく、自分以外にも心を通わす存在を得ていたのは――一抹の悔しさもあれど――喜ばしいことだった。

「お互い自分のことを知らなすぎたな……自分が分からないまま、それを表す言葉も無いなかで夢だけを追っていた。無知で不器用だったな」

 それを『恋』と呼ばないのは彼なりの思いやりだ、と黒髪の少年は誰よりも知っている。そして、ふと気になっていたことを問うた。

「瀕死の母に、思っていたのは……あれは、あの頃と同じか?」

 針先で突かれたように茶色い髪の少年は眉を寄せたが、即座に淀みなく答えた。

「同性の間には友情しか存在し得ない、してはならないと思っている人間には望みようがないことだ。まあ……何も感じなかったわけではなく、どうしてか理由の分からない悲しみはあった。でも、それだけだ。そういう点では、この少年は欲深いな」

 選択肢が増えると欲も増すからな、と続ける茶色い髪の少年は嘘が下手だと、黒髪の少年はよく知っている。母が亡くなる直前の遣り取りも前回と似てはいても違ったものだったから、そういうことなのだろう。黒髪の少年は、そう納得した。茶色い髪の少年は、そのまま続けた。

「今の私たちは……この少年たちは、あの頃の私たちよりも自分に素直で正直だ。きっと上手くやれるだろうな……夢も、二人の関係も」

「全く同じではない上に選択肢も増えていて……異質な悩みだ。それに、私はやはり……その……君が男性であることが、どうにも……」

 言い淀む黒髪の少年に、茶色い髪の少年は静かに頷いた。以前の彼がしたことを思えば、そうだろうとも思っていた。だからこそ、言うべきことは一つだった。

「私だって似たようなものだ。以前の私も自身の相反する感情に葛藤して一生涯の秘密にしたんだ。それでも消すことはできないから君とやり直したいと望んだ。私のために、その葛藤と君が犯した罪を引き受けてくれ……君を愛している」

 長い沈黙だった。黒髪の少年は、眼を閉じた。茶色い髪の少年は、愛する人から目を離さなかった。永劫に似た静寂の後、黒髪の少年は瞳を開いて言った。

「私は、君を君の望むように愛せないだろう。でも……私なりに君を愛そう」

 茶色い髪の少年は、清い水に広がる波紋のような笑みで言った。

「それでいい。君と生きられるなら、それでいい」

 二人の視線は、確かに交わされた。その刹那、茶色い髪の少年は言った。

「彼らが起きたら、また私たちは中に隠れなければならないし……こうして直接話せるまで、また暫く時間がかかりそうだ。だから……一つだけ我儘を聞き入れてくれ」

 何を、と問い返される前に彼はそっと黒髪の少年の唇に接吻した。鳥の羽が撫でるように、花びらが落ちるように柔らかく、短い接吻だった。

「おい……」

 頬が燃え上がったかのような色になり、言葉も出ない黒髪の少年に茶色い髪の少年は揶揄うように微笑んだ。

「私だってね……一回目の人生と、それから人の一生分くらいは待っていたんだ。覚悟しておいたほうがいいよ、君が思う以上にこの少年、つまり今の私は君を愛していると気づいているからね」

 それでは、おやすみ、と茶色い髪の少年は、黒髪の少年より先に目を閉じた。

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