第5話 片恋に似た罪の抱え方

 1、2、3……とカウントを取って、音を伸ばす。肺一杯に吸い込んだ空気を一定の配分で吐くには、それなりにコツがいる。入部して最初に言われたのが「畳んだ牛乳パックを息だけで膨らませられるようになれ」だったな。あの頃はこんなふうになるなんて思ってもみなかったけど……そっと唇からトランペットを離して溜息を吐く。今日何回目であの日から通算何回目の溜息か分からない。

(君に言わなくちゃいけないことがあるんだ)

 言わなくちゃいけないこと――狼貴のお母さんに酷いことを思ってしまった――はまだ言えていない。でも、狼貴はもう気づいている。気づいているから言うなと言われた。

――君が何も言わなければ僕らは友達でいられるんだから、言ったら駄目だ。

(無理だよ……)

 言わなくても以前のようにはできなくなった。昼休みに一緒にお弁当を食べることも、朝一緒に登校することも、部活が終わった後に一緒に帰ることも、全部あの日からできていない。狼貴を前にすると罪悪感に襲われる。いや、本音を言えば狼貴が怖い。

――君は僕の母さんに「また『友達』……黙って死ねよ、クソババア」って思ったな。君の望み通り、何も言わずに母さんは死んだよ。満足かい? 尊。

 そんなことを思っているんだろうか? 物凄く怒っているから、謝らせてもくれないんだろうか? そう考えると、狼貴の顔を見るのも苦しい。だから、昼休みは部活のミーティングだの楽器の運搬だのと理由を付けては教室から逃げ出した。朝は朝練、帰りは居残り練習と見え透いたことばかり言って返事も聞かずに狼貴に背を向けている……今週に入ってからはネタが尽きたから、もう何も言えなくなった。我ながら最低だと思う。

(どうでもいいとは思ってないんだよ)

 夕暮れ時の校舎に向かって、トランペットを構え直す。個人練習をいいことに、部室棟最上階のベランダに一人で陣取っているのは、ここからなら美術室のある本校舎が見えるからだ。メトロノームが刻むテンポに合わせて、そっとトランペットに息を吹き込む。何代か前の卒業生が作曲してくれた、ブラスバンド部のテーマソングだ。もう何度も演奏したから、楽譜を見なくても吹ける。

(聞こえているかな?)

 面談するから美術準備室に来るようにと担任の“おばあちゃん”が今朝、狼貴に言っていた。そういえば、二学期の二者面談はお母さんのことがあってやってないって狼貴も言ってたな。今頃、美術準備室で二人は話しているんだろうか? さすがに遠すぎて、ここからは分からない。

(聞こえていてほしい)

 そうすれば、狼貴の心の中に僕が入り込める。これからの人生でトランペットを聞く度に僕を思い出すようになれば、なお良い。去年の定期演奏会の後だっけ? 「ルーベンスの天使みたいな顔で吹いてたぞ」って揶揄われたの。そんなことも思い出せ。でも、こんなことを思っている時点で僕らはもう。

(他人みたいだ)

 親友は、一学期から全く話してないクラスメイト以上の他人になった。これが僕らの友情の終わり……僕が親友に……をしたばっかりに。親友の亡くなったお母さんとの約束も守れない。このまま三年生になって、芸術系選択なら同じクラスだろうけど、もう今までみたいにはできなくて、そのまま卒業して別々の進路へ……そこまで考えたら泣きそうになった。こんなはずじゃなかった。もっと一緒にいたかったし、いるはずだった。《前よりも早く別れが来るなんて、》え? 何て思った?

 ほんの一瞬、思い浮かんだ言葉がもう思い出せない。何だろう……いや、《あの時とは違って目の前にいる。》ん? 考えた言葉に穴が空いていくように、すぐ思い浮かべられなくなる。でも……

(《兵役から帰って来た時》に比べたらまだできることがある)

 何と比べているのかは自分でも分からない。でも、まだ最悪とは言えないって確信している僕がいる。これって……狼貴に……をしていると自覚した日の朝、自衛隊の制服を着ている狼貴を想像した時みたいな……そうだ、理由は分からないけど強い感情が湧き出る、この感覚が似てるんだ。そう気付いたところで、曲を吹き終えた。

(思い込み……? でも、何か違う……)

 都合よく思い込もうと自分に言い聞かせるのとは違う。どうでもいいことをジンクスとして縋ろうというのとも違う。誰かに励まされているような、諭されているような……これ、何だろう? 心臓の辺りに違和感がある。

「あーこんな所にいた」

 明るい声が考え事を吹き飛ばす。パタパタと小走りで近づいて来たのは、副パート長だった。

「ねぇメッセージ送ったの見た?」

「いや……見てない」

 言われてスマホをポケットから取り出すとアイコンが表示されている。第一音楽室に来て、と副パート長から十分くらい前に送られていた。

「ごめん、マナーモードだった」

「だと思った。行こう、顧問が呼んでる」

 顧問か……長い白髪で、カラヤンの大ファンで、独り言みたいな喋り方で、指揮はめちゃくちゃに上手い。でも、僕を呼び出す理由は見当が付かない。

「何か言ってた?」

 卒業式の演奏メンバーと四月の新入生歓迎会の曲はもう決めたから心当たりが無い。それとも、誰か何かやらかしちゃったのかな? こうして急に呼び出されるのは大抵、悪いことが起こった時だ。楽譜と譜面台、メトロノームを手早く片付けてエコバッグに入れる。部室にケースを置いて来たから、トランペットは抱えて行くしかない。

「分かんないけど、機嫌が悪いわけじゃないよ」

 副パート長が慰めるように言ってくれて、先に歩き出す。部室棟を出て中庭を横切るのが、第一音楽室のある本校舎への最短ルートだ。当然そのルートで行くつもりだったんだけど。

「ダメ、通れないや」

 中庭に続く通路で副パート長は立ち止まった。工事でもしてたっけ? と彼女の背中越しに中庭を覗いて、察した。彫像の下で、女子生徒と男子生徒が向かい合って何か話している。男子生徒の顔は真剣そのもので、彼の放つ張り詰めた雰囲気が中庭に満ちていた。

(なるほどね。つまり、そういうことね)

 ちょっと前の狼貴と歌姫を思い出した。誰かに告白しようと決心する。せっかく告白するなら綺麗な場所がいい。成功したらすぐに初デートに行けて、失敗したら即帰宅できる放課後にしよう……みんな考えることは一緒だな、という呆れと感心が入り混じって白けていく。

「終わりそうもないから迂回しよう」

 副パート長がそれだけ言って、踵を返した。僕の横をすり抜ける時に見えた表情は何故か、煤けた感じがした。校舎の外周を歩くことになるから遠回りだけど、二人だけの世界を横切るほど無神経になれないのは僕も同じだ。彼女の後ろを着いて歩き出す。すごいエネルギーだな、赤の他人の進路も変えるんだから。だから、親友の瀕死の母親に、僕の馬鹿。

 自分の馬鹿さ加減への嫌気から、新しい溜息とふと思ったことがこぼれる。

「どうしてあんなことするのかな?」

 そんな感情がなければ、あの男子生徒はあんなに思い詰めた顔をしなくて済んだ。そんな感情がなければ、「私」はKを出し抜いたりしなかった。そんな感情がなければ、歌姫は狼貴に怒鳴られなくて済んだ。そんな感情がなければ、僕は狼貴のお母さんに酷いことを思ったりしなかった。何も良いことないな、そんな感情。

「あのさ、バレンタインに告白しようと思ってたのに、直前になってその人にはもう付き合っている人がいるって確定した私にそれ言う?」

 副パート長が急に立ち止まって振り向いた。そんなの知らないよ、と言いかけて固まってしまった。副パート長は怒っているのだ。それも、滅茶苦茶に。

(こんなに怒るの珍しいな……)

 やる気の無い後輩にも、不祥事を起こして退部した先輩にも、彼女はここまで怒らなかった。せいぜい、嫌味を言うくらいが関の山だった。滅多に怒らない人ほど怒ると怖い、という巷でよく言われる処世訓は正しかった。ごめん……と意味不明な呪文をもごもご言っていると、彼女は突き刺すように言った。

「出会ったからでしょう」

 え……ああ、確かにそうだ。出会わなければ何もない。でも、出会ってもそうならない人のほうが多い。例えば、この副パート長と僕だ。もし、僕が……したのが彼女だったら……狼貴に相談して「つまんない女を……になったな」とか言われて憤慨して喧嘩して……彼女を想定するはずが狼貴のことを考えている時点でもうおかしい。

 そんなことを思って何と言ったものか迷っていると副パート長が続けた。

「そんな人と出会ったら、そうなるしかないじゃない。自分でもどうにもできない、運命とか宿命とか言われるものの力なんじゃないの?」

 知らないけど、と言われて何となく納得する。でも、そうだとしても。

「後悔してない?」

「してない」

 即答した後に歩き出した副パート長は、それよりちょっとだけ小さい声で言った。

「その人が嬉しそうだったり楽しそうだったりするだけで幸せだったから。人の幸せを喜べる幸せがあるって初めて実感できたから、後悔してないの。人を大切に思えるって本当に幸せって思えたし」

 優しいな、と思う。そういう気持ちになれるなら、それだけの価値があるのかも知れない。確かに狼貴が幸せなら僕も嬉しい。でも、それ以上のものが欲しくて堪らない。狼貴の全部が欲しい。特別な存在として、狼貴にも他の人にも認められたい。満たされない飢餓で凶暴になって……おばさん、本当にごめんなさい。

 そんなことを考えて黙っていると副パート長は一人で続けた。

「それにね、まだ希望は捨ててないの。その二人、最近上手くいってないみたいだから……別れろなんて願わないけど、お幸せにとも願わない」

「やっぱり罪深いな」

 さっき言ってた、人の幸せを心から喜ぶことができなくなってる。どうしても、相手を手に入れる自分の幸せを願わずにはいられないんだ。

「『こころ』みたいなこと言わないでよ。これでも必死に人の不幸を願わないようにしているんだなら」

「え? 『こころ』? 授業の?」

 副パート長にムッとした声で言われても何のことか分からなかった。

「あれ? 先週の月曜にやったじゃん? ああ、トイレ行ってたっけ……『こころ』にそんなフレーズがあるんだって」

 先週の月曜か……トイレ行ってたのもあるけど、戻った後も授業どころじゃなかったな。本校舎の階段を上りながら副パート長は教えてくれた。

「Kの自殺からしばらく経った後の、歳とった『私』が若い大学生にそういうことを言うシーンがあるって先生が紹介してた。罪悪だって……否定できないよね」

 文豪ってすごいや。僕らの今の状況を言い当てている。親友を出し抜くほどではないけど、僕らも悪いことを考えるようになっている。

「若い夫婦のデート見て冷やかした大学生に『満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです』って『私』が言うんだって……そんな声を出したかったな」

「すごいね、夏目漱石」

 参りました、としか言えない。そんな人に聞いてみたいな。親友に……して、親友の母親からも……と認められないことに苛立って、瀕死の彼女に酷いことを思いました。そして親友はそれを察しています……どうすればいいですか?

 罪悪だな、本当に。

「ところでさ、何でその人に付き合ってる人がいるって分かったの?」

 考えたくなくて話題を変えようと副パート長に聞いてみる。副パート長は苦いものを口にしたような顔をした。

「友達が探ってくれたの。そんなこと聞かないでよ」

 ほら、顧問が待ってる、と副パート長は第一音楽室の防音扉をノックした。



 連れて来ました、と副パート長が伝えると、ピアノの前に座っていた顧問はうんうんと頷いた。

「戻って……パート練習させて、卒業式の演奏メンバーは予定通りに合わせ練習へ……お願いしますね」

 いつも通り独り言みたいな話し方だ。副パート長はしっかりした声で返事をして第一音楽室を出て行った。部屋を出る直前に唇だけ動かして「頑張れ」と言ってくれたのは、ちょっと嬉しかった。

「何かありましたか?」

 一年生が何かやらかしたか、それとも僕が何か忘れた用件があるのか……今までの経験から悪い予感がして、トランペットを抱え直して姿勢を正す。顧問は僕に向き直ると静かに、でもはっきりと言った。

「ピアノで一曲弾いてくれますか?」

「え……?」

 どうしてそんなにことを? と聞く前に顧問は立ち上がり、椅子を示した。トランペットはホワイトボード前の棚に置いてくれていいから、と言いながら生徒用の椅子に腰掛ける。理由は分からないけれど、聞ける雰囲気ではなかった。言われた場所にトランペットとエコバッグを置いて、ピアノの椅子に座り、高さを調節する。置かれている楽譜は、弾き慣れた練習曲だった。譜めくりがいらないように広げられている。これを弾け、ということか。顧問が何を考えているのか分からないまま鍵盤に指を置き、深呼吸して弾き始めた。

 旋律とテンポに気を配りつつ、鍵盤を叩く。子どもの頃からやっていることだ。狼貴が褒めてくれたこともある。いつだっけ? CMで使われていたクラシックを弾いてみせた時だ。短気な狼貴は退屈なピアノの練習に耐えられないから……だから、考えるなって。

「テンポが遅いですよ」

 しまった、と思った瞬間、運指を失敗した。響く不協和音……やっちゃった……と思わず目を瞑り、肩を落とす。慣れた曲のはずなのに……と自分に嫌気がさす。

「心に迷いがあると……良い演奏はできませんから……仕方ないですね」

 はっとして顔を上げる。顧問の顔は、いつもと変わらなかった。何を言っているんだろう? まさか……

「何があったかは知りませんが……最近、練習に身が入ってないようなので……何かあったんだろうと思いますよ」

 そうか。狼貴は何も言ってないんだ……いっそのこと、言いつけてくれたらいいのに。そうすれば、顧問に怒られて少しは気が楽になるかもしれないのに。

「未熟なら練習すればいいだけですが……心の迷いは解決しないと、また失敗しますね」

 代わってください、と顧問に言われるままに座る場所を交換する。ピアノの椅子の高さを調節し直した顧問は、同じ曲を弾き始めた。うん、やっぱり僕の弾き方ではテンポが遅かった。注意したつもりだったけど、できてなかった。

(解決しないとって言われても……)

 無理だ、と唇を噛む。狼貴は言うなと言っていて、僕に謝らせてもくれない。おばさんはもういないから、こちらにも謝ることができない。もうどうしたらいいか、分からない。首が自然に傾いて床が見えたところで演奏が終わり、顧問が僕に向き直った。

「何があったか話せますか?」

 はい、とも、いいえ、とも言えない。言って楽になりたい気持ちはある。この顧問は生徒にも丁寧な話し方で、厳しいけれど優しい。独り言を言うような話し方だけど、指示はいつも的確だった。でも、言うのは怖い。狼貴には謝りたいけれど、あんな酷いことを思った僕を他人に曝け出すのは、怖い。

 どうしたらいいのか迷って何も言えないでいると、顧問はそう言って練習曲の楽譜を片付け立ち上がった。

「私もたまにはピアノの練習しないとね……少し難しめなのがいいかな」

 書棚にずらりと並んだファイルから一冊を抜き出し、別の楽譜を広げて顧問はピアノを弾き始めた。これってもしかして……

「ピアノを弾く間は……集中するから……君の話を聞き逃すかもしれませんね……」

 内容次第では僕の話は聞かなかったことにする、ということなんだ。準備運動のように鍵盤を叩いてから顧問の演奏は始まった。さすが、音楽の先生。テンポも運指も正確で澱みが無い。思わず聞き惚れそうになる。聞き逃してくれるなら、今する限り僕の話は独り言だ。それなら……

「大切な人がいます。特別な感情があるって気づいたのは最近ですが……本当に大切で、僕自身が気づくより前からずっと、その人は特別な存在だったんです」

 うんうん、と顧問が頷いたように見えた。それでも演奏は続いている。考えないようにしてきた言葉を避けて話しても、その存在感というか重量感というか……とにかくそういう感じで胸がずしんと重くなった。

「でも誰も、僕をその人の特別な人だとは思ってなくて、ただの友達扱いで……その間にも、その人に告白したり、言い寄ったりする人がいっぱいいて……自分でも自分の気持ちに気づかないのに、それがすごくストレスだったみたいで……」

 ペダルの操作も的確で音に厚みがあるのに、澄んだ音色を維持できている。それなりの技術が必要な曲のはずなのに、迷いが一切見られない正確な運指だ。本当に集中してて、僕の話を聞き逃すかも知れない。それでもいい。それならいい。

「大切な人の大切な……お母さんが死にかけていた時、僕に『私がいなくなっても息子の良いお友達でいてあげて』って僕に頼んだんですが……その時に……とんでもないことを……とても酷いことを思ってしまって……その願いを叶えたい、必ず叶えると思ったのも本心なんです。それだけのはずだったのに……全然別なことも同時に考えていて……」

 上目遣いに顧問の顔色を伺ってしまう。そんな自分が物凄く気持ち悪い。他の人が同じことをしていたら、多分その場で嫌いになるだろう。それでも、そうしてしまう自分を止められない。

 伺った顧問の表情には、何の変化も無かった。ピアノの演奏だけが正確なテンポで続いている。

「また『友達』……黙って死ねよ、クソババア……そんな言葉が浮かんで……大切な人の友達だと思われるのは……当たり前のはずで、それでいいはずだったのに、どうしてもその時は納得できなくて……それ以上の存在だって、お母さんくらいには認めてほしくて……優しくて良いお母さんだったのにそんなことを思ってしまって……そんなことを考えた自分が怖くて、でも、そのお母さんはすぐに亡くなって謝れなくて……」

 テンポも変化が無い。本当に聞いていないのかも知れない。それなら、それでいい。その方がいいかも知れない。

「迷ったけど、大切な人に謝ろうと思って……話さなきゃいけないことがあるって言ったら……分かっているから言うなって、僕が何も言わなければ友達でいられるからって……謝らせてもくれなくて、もうどうしたらいいか……」

 言葉が続かない。本当にどうしたらいいか分からない。だから、もう何も言えない。項垂れる僕を包み込むような音色だけがある。顧問は何も言わない。ずっとこうだったらいいのにな、と思う。何も言わなくていい、何も聞かれない、何も責められない……そんな今の状態がずっと続いてほしい。

(でも……)

 演奏が終わった。こんな時でなければ心から拍手できたはずだ。何なら演奏のコツも聞いておきたいくらいだ。顧問が深呼吸をして、肩を解す。難しい曲だから、それなりに集中していたのかも知れない。やっぱり僕の話なんか、本当に聞き逃したのかも知れない。どちらも何も話さなかった。防音加工がしっかりした音楽室は、壁掛け時計の秒針の音だけが響いていた。

 ぱら、と楽譜を畳む音がした。楽譜を書棚に戻した後、顧問はまた別の楽譜を広げてピアノの前に座った。音符を確認するように目を走らせている。まさか、もう一曲演奏するんだろうか?

「その大切な人が言うなということは……本当に、君がそのお母さんに思ったことについてでしょうか……?」

「それ以外、心当たりが無いんです」

 聞き逃すかも……なんて言いつつ、ちゃんと聞いていたんだ。やられたとは思わないけれど、どうしてなのか心細さが迫った。楽譜から目を離さないままの顧問に先を促されたような気もして、聞かれてもいないのに舌が動くのを止められない。

「大切な人とは本当に仲が良くて……ほとんど毎日一緒に過ごしてきて、本当に僕のことを分かってくれるし……夢も応援してくれるし……ずっと友達でいたいと思っていて……意見の違いっていうか……ぶつかることはあっても、別に嫌いとか悪意ってわけじゃないし……」

 言い訳をしているみたいだけれど、本当に心当たりが無い。言ってないことが他にあるとすれば……僕の狼貴への気持ちは今までと違うってことだけど、まさか狼貴もそこには気づいていないだろうし。

「魔法使いやテレパシーでもない限り……一瞬思ったことがそのまま伝わるとは思えませんが……」

 それは自分でも思う。それでも、本当に他には心当たりが無い。

「もしかしたら……僕が気づかないうちに態度に出たのかもしれないです……」

 僕を狼貴の友達としか見ない人に以前から苛立っていた。自分の気持ちに気づく前からそうだったなら、おばさんに対しても同じだったのではないだろうか? おばさんは確かに優しかった。でも、時々すごく愚痴っぽくなることがあって……狼貴の将来が心配だとか、独り立ちするのは見れないだろうとか……そんな話でも平気だったと言えば嘘になる。きっとそうだ。そういう気持ちが知らないうちに態度に出ていたんだ。だって……

(言ったら駄目だ。そんなこと言ったら絶対に許さない)

 君と友達とは違う関係になりたいって伝えることは、そんなふうに言われることではないはずだ。もちろん、歌姫みたいになる可能性はあるとしても――さすがに怒鳴られはしないだろうけど――言うことそのものを拒む理由があるとは思えない。

 思い当たる節が他に無さすぎて、僕がもごもごし始めた時を見計らったかのように顧問の声が聞こえた。

「妻には……十五も年の離れた兄がいるんですが……私はその義兄が大嫌いなんです」

 え? と呆気に取られた僕に構うことなく、独り言のように顧問は続けた。

「妻は十歳の時に父を亡くしていますが……義兄はその時から妻の父親代わりになって、育ててきたのです。都会に出ていく友人からの誘いも、親戚が持ち込む縁談も、全部断って、地元の役場で働き続けて妹と母を養ったことが何よりの自慢な……そんな人です」

 狼貴と義兄さんの関係にちょっと似ているような……ちょっとずつ違うけど。その人は立派な人だな、とは思う。でも、どうしてそんな話を? 顧問の意図が分からないので、そのまま黙って聞くしかない。

「私は……昔は地方の交響楽団の指揮者をしていまして……慰問に訪れた公立病院で、看護師だった妻と知り合ったんですが……義兄は最初から私と妻の結婚に猛反対でした。音楽なんて所詮は道楽だ、遊んでいる甘ったれにやるために妹を育てたんじゃないと……挨拶に行った玄関先で罵倒されて……家に上がることもさせてもらえませんでした」

 細かい関係は違っても、大まかな考え方は狼貴の義兄さんにそっくりだ。狼貴がどんなに良い絵を描いても、“おばあちゃん”に上達したと言われても、義兄さんが褒めたことは一度も無いと聞いている。交響楽団の指揮者なんてすごいと思うけど、理解の無い人には遊んでいるだけに見えるんだ。

 ぱらん、と楽譜が捲られる。僕の方を見ないまま、顧問は話を続けた。

「妻が自分たちの問題だからと言い切って……結婚することができましたが……その三年後には自治体の財政悪化と不景気でスポンサーが降りたことが重なって……楽団が解散してしまったんです……その時も、妻子を養えないなら離婚しろと連日のように電話してきて……単発のレッスン講師や伴奏のアルバイトをしても、こんな時に遊んでいるのかと責められて……ノイローゼになりそうでした」

 ごめんなさい、先生。僕までしんどい気持ちになってきました。でも、そういうのは珍しくない話だってレッスンに来てくれる外部コーチや音大進学した先輩たちからも聞いています。まさか、ただ思い出話をするために、僕を帰さないわけじゃないですよね?

 しんどい気持ちを逃すように椅子に座ったまま、もぞもぞと下半身を動かす。硬い椅子は僕を労わる気が少しも無いらしい。

「幸い、音楽の教員免許を持っていたので……この学校のブラスバンド部の顧問に招かれて、職を得て、地方を跨いで引っ越して義兄と距離を取れましたが……今でも、その時のことは忘れられず嫌いなまま……身体だけは丈夫な人なので、あと二十年くらい生きてしまいそうで……残念です」

 あと二十年くらい生きてしまいそうで残念……それは、つまり。思わず目を見開いて顧問を見つめる。まさか。

ゆっくりと顧問が、僕に向き直った。また秒針の音が微かに聞こえた。

「誰かにそう思ってしまうのは誰にでもあることなんですよ。例え、大切な人の肉親相手であってもね」

 顧問のこれは独り言、ではない。硬い背もたれが、顧問の目を真っ直ぐ見ろとばかりに背中を押す。

「そのお母さんの全てが嫌いというわけでないだけ、最期の願いを叶えようとしているだけ、君は私より優しいですよ。ただ、若いから自分の気持ちに鈍感で気づかない分、過激な言葉を思い浮かべるんです」

 本当にそうだろうか……? 僕はそんな優しい人間だろうか? その言葉をどうしても素直に信じられない。その緊張が背中の真ん中から肩甲骨と首筋を押さえつけている。

「優しくない人は、亡くなった人に謝れないことを悔いたりしませんから。でもね……」

 僅かに目を細めて、顧問は言った。

「代わりに大切な人に謝りたいというのは君のエゴですよ」

 眉間を輪ゴムで弾かれたような衝撃がしてビクッとなる。エゴ……エゴイズム、自己中心主義……国語の授業でやったような……軽く混乱している僕から視線を外して、顧問は窓の外を見やった。空は茜色から紺色に変わっている。

「妻と私と義兄の話をすれば……私が義兄を嫌っていることは妻も分かっています……苦しむ私を一番間近で見てきましたから。だから、帰省する時は一人で行きますし……義兄の話を出すこともありません。でも……私はさっき君に言ったように思っているとは、妻に言えませんし、許してくれとも思いません」

 どうしてだと思います? と、顧問はそっと真っ白な前髪をかき上げた。どう答えたらいいか分からなくて、何となく紺色の空を見上げる。もしかしたら、それは……

「奥さんが好きだから、ですか……?」

 顧問はうんうん……と頷いた。少しずつ濃くなっていく空の紺色と、部屋を照らす電灯の明るさの落差が舞台を連想させた。舞台の上の人は次の展開について何も知らないけれど。

「私にとっては……無味乾燥で、音楽への理解も無い唐変木で……大嫌いな人ですが……妻にとっては育ての兄でもあり……親亡き今は唯一の家族ですから……私が義兄を嫌っていると察していても、改めて残酷な言葉を聞かされたら傷つき苦しむでしょうね」

 でも、それは騙しているのとどう違うんだろう? 自分の大切な人に早く死んでほしいと心の底で思っている人と一緒に暮らすのは……暮らさせるのは……

「本当にいいんでしょうか……?」

 僕はそう思えません、という聞き方になっている。うんうん……と頷きながら、顧問はまた楽譜を捲った。

「いいんです。それで妻が平穏でいられるなら……人を憎んでしまう罪を抱えるくらい何でもありません。それに……君はその人に謝って、どうなりたいですか?」

「それは……」

 僕は君の瀕死の母さんに酷いことを思ってしまった、と狼貴に告げて謝罪の言葉を口にする。狼貴は確実に激怒する。あらゆる罵倒がその口から僕に向かって放たれるだろう。激昂しやすい狼貴だから二、三発殴られるくらいは覚悟しなければならない。そして……嫌われる? 許してもらえる? どちらになるんだろう?

「もし……許してもらうことを思っているなら、やめておきなさい」

 どうして、と僕が言う前に顧問は、僕に向き直ってきっぱりと言った。

「許してもらいたいのは君のエゴだからです」

 秒針の音……いや、大人の人にこんなに真っ直ぐ見つめられたことが無い。怖い、と思った。今までのどの失敗を叱られる時よりも、顧問が怖かった。

「いいですか? 全部が君の問題なんです。大切な人に感情を向けることも、大切な人の特別な存在になれないことも、それに苛立つことも、その人のお母さんに残酷な思いがあったことも、それを隠しきれないことも……全部、君の問題です」

 その通りだ。小さく頷く。余計なことを言うと怒られそう、と思って黙っていたわけではない。何も言えないだけだった。

「そんな君の問題を大切な人にぶつけて、どうしてほしいんですか? 君は悪くないと言って安心させてほしいですか? それとも、気にしてないと言って済んだことにしてほしいですか?」

 そんなつもりじゃ……なんてありきたりのセリフしか言えそうにない。漫画やドラマだと、じゃあどういうつもり、と聞かれる展開だ。どういうつもりなんだろう、僕は……

「思ってしまったことも、黙って隠していることも……罪悪感がすごくて……そんな自分が、その人の側にいちゃいけないと思ったんです……許してほしいとか、そこまで考えられなくて……」

 どういうつもりも何も無い。とにかく謝りたかった。謝って、それから狼貴に君が……だと……あ……

 僕が気づいてしまったことを察したのか、顧問は話を続けた。

「謝りたいと人が考えるのは大抵そういうことです。自分の気持ちより、大切な人を残酷な言葉から守るために……沈黙や嘘が必要な時もあるんです……許すというのは、大変な労力がいるんですよ……大切な人と思うなら、それを乞うのはやめなさい。その人は察しているのに、君と友達でいることを選んだ、それが全てなんですよ」

 友達、という言葉がちくりと刺さる。それでは嫌なのだ。狼貴の……でなければ。でも、今それは問題じゃないんだろう。

「謝るべきことがあるとすれば……そうやって自分の問題に大切な人を巻き込もうとしたことでしょうね……それを謝った後で、君がその人をどう思うか、伝えるかどうかを含めて……ゆっくり考えなさい」

「……はい」

 それにね……と顧問はふっと笑みを浮かべた。

「本当に、その人が察しているかも含めて……冷静になったほうがいいかと思いますよ……今の君はまるでカルメンに熱を上げるホセのようだから……」

「はい?」

「あれ? 知らないですか? 有名なオペラなんですが……カラヤンが指揮した音源も残っていますよ?」

 カルメン? 何だっけ、それ? と聞き慣れない言葉に戸惑う僕に、顧問は少し呆れたような顔をして言った。

「それでは……今の例えも分からないわけですか……」

 うんうん……残念……と、いつもの独り言のような口調に戻った顧問は、一人頷いていた。何だか自分が酷い物知らずのように思えて急に恥ずかしくなった。後でネット検索しておかないと。

「毎日悩んで疲れたでしょうから……今日はもう帰りなさい。明日も朝練は休んで、放課後の練習から参加しなさい」

 でも、と言いかける前に遮られた。

「今の君には練習よりも休養と、大切な人と本当の意味で繋がることが必要でしょう。そのための時間だと思いなさい。それも含めての音楽ですよ」

 静かに、でもきっぱりと言い切られて、練習に戻してもらえないことが分かった。食い下がったところで顧問の意志は絶対に変わらないだろう。さすがに一年間ブラスバンド部にいると引き際が分かるようになる。

「分かりました……失礼します」

 一礼して荷物を持ち上げた僕に、顧問はもう一度うんうん……と頷いた。

「君もブラスバンド部員で音大志望なら……『カルメン』くらいは知っておきなさい。とても良いオペラですから……その大切な人、音楽は好きですか?」

「ええ、とても」

 顧問はまたうんうんと頷き、それは良かった……二人で分かち合えたら良いですね……と微笑んだ。そうだな……狼貴は知っているかな? 『カルメン』。一度だけ二人でオペラを観たことあるけど、あれは『トスカ』だったな。そんなことを考えてちょっとだけ頬が緩んだ瞬間、顧問が釘を刺すように言った。

「でも、その前にちゃんと謝罪して自分の問題くらい自分で抱える強さを持ちなさい。分かち合うことと巻き込むことは似て非なるものですから」

「はい……」

 そうだった。まずは、狼貴と話さないと……今までは呼吸と同じくらい簡単だったことが、今は決死の覚悟が必要なんだ。でも、やらなきゃいけない。僕のためじゃなくて、狼貴のために。当たり前のことなのに、気づけなかった。

「ありがとうございました。失礼します」

 扉の前で一礼して顔を上げた時、顧問は優しく微笑みながら頷いてくれた。それを見てから、音楽室を出た。防音扉から外へ出た瞬間、学校中の音が押し寄せてきてちょっと目眩がした。階段を一段ずつ踏み締めて降りていく。四階から三階へ降りた時に足が竦んだように動かなくなった。

(しまった、この階段を使うんじゃなかった……)

 でも、もう遅い。上がる時は副パート長と話しいてたし、角度の問題で視界に入れなくて済んでいた美術室が見えるのだ。この学校が「開放感のあるデザイン」を掲げてガラスを多用しているのも悪い。ガラスの向こうに見える後姿――黒い髪と痩せぎすでちょっと撫で肩の身体――そして、彼が向かっているスケッチブックから目を逸せなくなってしまう。

(やっぱり……いいな……)

 そんなこと思っている場合じゃないのに、どうしても見つめずにはいられない。初めて会った時から彼を見ているとそう思わずにいられないのだ。自分の世界がある、というか、自分のやりたいことが分かっている、というか……上手く言えないけど彼のそういうところに惹きつけられて離れられない、離れたくない。今描いているのもただのデッサンなのに完成させるまで見守りたいと心臓の辺りがきゅっとなる。《あの頃より上手だからきっと今度は》美大にも合格するだろう。ん?

(何だろう、これ……)

 さっきと似た感じで自分の考えていることに穴が空いていく。何を思ったんだろう? 狼貴のことを考えていると変な感じがして……自分の中にズレた部分があるような……あ、“おばあちゃん”……

 ガラスの壁際で別の生徒と何か話していた“おばあちゃん”が僕に気づいた。クスッと笑ってそっと狼貴の背中を指差して唇の動きだけで語りかける。

(寄っていく?)

 咄嗟に首を振ってしまってから、さっきまでの顧問との会話を思い出して顔が赤くなる。謝るつもりだったのに……でも、邪魔したら悪いか。せっかく夢中で描いているのに。言い訳がましいのは分かっている。それでも、狼貴は絵を描いている時が一番彼らしいから、ずっとそうしていてほしい――《兵士や政治家になんかならないで。》え? 何だろう、また……心臓の辺りが何か変な感じがするのも、これも……さっきから頻繁に起きる現象に狼狽える僕を“おばあちゃん”が心配するように見ている。上手く説明できる気がしないし、狼貴の邪魔をしたくない。何か言われる前に引き上げようと、取って付けたようなお辞儀だけして、僕は階段を降りた。



店が開いているうちに帰れるのは定期考査の前とか入試の前くらい。毎日部活で夜八時より前に帰れることのほうが少ない。実家は家具屋だから店が開いている時はいつもそっちから入るけど、高校生になってからはそんなこともめっきり減った。

だから、帰って来た僕への母さんの第一声が「あんた何したの?! 部活は?」だったのも仕方ない。顧問に疲れているみたいだから帰って休めって言われた、と核心には触れずに正直に言っても「どうせ身が入ってなかったんでしょ」と母さんは呆れていた。久しぶりに家族三人揃っての夕飯の席で父さんからも「怒られるようなことでもしたのか?」と言われ、自分の信頼の無さをご飯と一緒に噛み締めることになった。

「週末だけどね、母さん実家帰ることになったから」

 あぁ、そう……子どもじゃないから別に寂しくもない。合宿とか大会の遠征とか招待演奏とか僕のほうが家を空けること多いし。親戚の人が入院したからお見舞いと世話に行くとか何とか一人で賑やかに話している母さんに適当な相槌を打つ。

「実はな、父さんも週末はちょっと泊まりがけで仕事があってな」

 あぁ、そう……気をつけて。僕は土日も部活だから。仕入れ先に挨拶に行くとか何とか、でも悪いけど僕は後継がないから父さんの好きにやってくれれば良いよ……ん?

「土日、僕一人ってこと?」

「そうだな」

「当たり前じゃない」

 高校生一人で留守番ってそれってちょっとどうなの?!

「あのねぇ、大学行ったらどうせ一人暮らしなんだから今から土日くらい何とかできなくてどうするの? 部活あるなら連れて行けないでしょう」

 進学に関わるし親戚の人はあんたの知らない人だし、と当然のように母さんが言う。そんな、と父さんに視線を向けても満足げに食事を続けているだけ。

「男の子なんだから心配いらないだろ。火の元と戸締りだけ用心して、食事は自分で何とかできるな?」

 子どもじゃないんだから、と父さんも当然のように言った。確かに子どもじゃないから寂しいわけでもないし、不安だから連れてってとは恥ずかしくて言えないし、部活も休めないけど。でも。

「少しは狼貴くんを見習ったら? あの子、一人でお母さんの看病してたじゃない? それに比べりゃ留守番くらいどうってことないでしょ」

「しっかりした子じゃないか。同級生の狼貴ができるんだからお前もできるだろう」

 やめて、母さん父さん、その名前を出さないで。今日の部活を早退した原因は彼なの。

 そんなの口が裂けても言えないから、とりあえず口の中を食べ物で一杯にして塞いでおく。そんな僕の努力を、母さんと父さんは不安だけど了解した息子と解釈したらしい。肩の荷が降りた、とばかりに清々した顔になった。

「月曜の昼には帰って来るから心配いらないから。お土産買って来るし」

「たまにはこういうのもいいだろう」

 いい、なんて一言も言ってない。それでも、こう言われたらもう反対できないじゃないか。狼貴だったら自分が納得しないなら喧嘩してでも、僕の馬鹿。

不安と不満とその他色々、母さんと父さんと自分へそれぞれ配分されて頭の中が忙しい。でも結局、僕は彼みたいにはできなくて、うんそうだね頑張るよ、なんて言って適当に受け入れてしまうのだ。

(誰にも気づかれてないんだ)

「ねぇ不安なら狼貴くん呼んだら?」

「お、いいなぁ。狼貴くんなら心配無いだろ」

 だから、その名前を出さないで。母さんも父さんも僕も。

 言えない言葉が喉につかえる。麦茶で流し込んで適当な相槌と、どうしようかな……とそれっぽい言葉を返してしまう。きっとこんなだから、僕が彼を……ということは誰にも伝わらないんだろうな。おばさん、ごめんなさい。やっぱり僕の問題です。

「狼貴くん、今はお姉さんの家から通ってるの? 時々スーパーでお姉さんに会うけど、お姉さんがあの家に住んでるの?」

「いや……基本一人だけど、たまにお姉さんたち泊まりに来てるって」

 事実は難なく言える。でも、母さんが顔を顰めた。

「基本一人って……じゃあ、お姉さんたち妹ちゃんしか引き取ってないの?」

「らしいよ。義兄さんが反抗的だから家に来てほしくないって……本人も義兄さん嫌いだって言うし」

選りに選って彼の話題が続くのか……今日はどうしても彼から逃げられないみたいだ。母さんははぁあと息を吐いて、父さんは黙り込んでいる。

「じゃあ、ずっと放ったらかし? 学校はどうしてるの?」

「ちゃんと通ってるよ」

 遅刻しないように起こしに行った日もあるけど。居眠りも多いし、優等生とは言えないけど、ちゃんと通ってはいるのだ……進路はどうなるか分かんないけど。

「でもねぇ……そんなんじゃあ……いくら男の子でも」

「母さん、よしなさい」

 他所のお宅のことなんだから、と父さんに不機嫌そうに言われて母さんも黙り込んだ。僕も何とも言えない。狼貴の状況は、良くない。でも、何もできない。子どもってこういうとき嫌になる。大人ならって、思ったけど大人でもどうにもできなそうだと母さんと父さんが示している。どうにかならないのかな? どうにかしなきゃ今度こそ。あれ?

「まぁ、とにかく週末は狼貴くんに泊まりに来てもらえばいいじゃない。二人のほうが心強いでしょう」

(そうだよ、《ウィーンでも》二人で暮らせた《か》ら寂しく《なることは》なかった……)

 あれ? また何か……変だ。

 母さんが態とらしいくらい明るく言って、その話は終わりになったけど僕は考え込んでしまって、その後の会話にはあまり参加できなかった。

(二人で過ごせるなら心強い、寂しくない……時間もあるし……親もいないなら)

 やるしかない、と思った。



 国語をしっかり勉強しないと文章が書けないから受験で苦労すると“おばあちゃん”にも国語の先生にも言われ続けた二学年だったけど、受験より先に困ることになった。帰りの電車でも夕飯後もお風呂の中でも、ずっと考え続けて自分の部屋に篭った今も何も書けないままだ。課題じゃない、狼貴へのメッセージだ。やるしかない、と思っているのにスマホの画面を見て書いては消し、消しては書いてばかりで何も進んでいない。

(あんなに簡単だったのに……)

 課題見せて、とか、明日の持ち物何だっけ、とか、何でも気軽に聞けたはずなのに、今は何て言えばいいか分からない。

「君に謝りたいことがあるんだ。明日、学校で話せる?」

 あの時と似ているから嫌だ。

「君の母さんに酷いこと思ってしまってごめん」

 それは言うなって顧問にも言われた。

「自分でも気づかなかったけどずっと前から君のことが」

 今日何回目かの僕の馬鹿。

 で、結局どうしよう? ちょっとだけ考えることを放棄して、ベッドに寝転ぶ。もっと上手いこと書けないのかな……誰だっけ? 小論文の課題でA評価もらったの。その文章力を半分でいいから分けてほしい。

(明日、学校で言えばいいかな……)

 どうせ下手な文章を書こうとするより直接言えばいいんじゃないかな? 明日、学校で会った時に……と考えて、きっと明日の僕は先延ばしにするだろうな、と分かり切ったことを思う。今日中に伝えないと、多分ずっと言えない。でも、もう文章を考える気になれない。多分、考えるふりをして何もしてないんだろう。

(だったら)

スマホのデジタル時計は21:37。どうするか……あと三分だけ待って、いや、それ絶対にやらないやつだ。三分待った後はもう五分ってなって、その後また五分、また五分で、最後にもう遅いからって止める理由にする、あれだ。

(本当に、僕の馬鹿)

 自分への嫌気を振り切るようにしてベッドから起き上がって立つ。そうでもしないと、できない気がした。なるべくスマホの画面に焦点を合わせないように、でも相手を間違えないように、電話をかける。呼び出し音……繰り返す音に合わせて心臓が伸び縮みするような感じがする。

(出てほしいけど……出てほしくない……)

 出てくれなかったら? 多分もう一生言えない。

出てくれたら? 言えるか分からないけど言うしかなくなる。

(こうするしかないんだ)

 君がついて来いって言ってくれないと僕は動けない。だから、お願い、何か言って。息を止めるようにして耳を澄ませる。ふつっと呼び出し音が途切れた気配の後に聞こえるのは。

「尊?」

 一番聞きたかった声が呼んでくれた。それだけで気が抜けて泣きそうになった。

「あ……狼貴……? 寝てた?  眠いなら切るけど……」

 言わなきゃ、と思っているはずなのに全然違うことを言ってしまう。寝起きみたいな声なのは本当だけど、ここは聞いてほしいことがあるって言わなきゃなのに。いや、それじゃ前と同じになる。

「いいよ、まだ起きてるし……何か用か?」

 不機嫌そうな声。でも、よかった。聞いてくれそうだ。今のうちだ、今言わなきゃ。言わなきゃいけないのは。

「あのさ……ごめんね……先週の月曜日、変なこと言って……僕の問題なのに狼貴を巻き込もうとして……狼貴の気持ち全然考えてなかったから……怒ってるよね?」

 謝れた。顧問が話してくれたのと似たようなことしか言ってないけど、これ以上は思いつけない。しかも、怒ってるよね? なんて下から目線の言い方が何か嫌だ。本当に僕ってもう……

「別に。怒ってない」

 怒ってるね、やっぱり。顧問の言った通りなんだろう。

「そっか……そうだよね」

でも、怒鳴りつけたり演説が始まったりしないだけ君はまだ落ち着いているってことだよね? そう思っていいよね? もし、そうなら週末は一緒に過ごしたいんだけど……

「尊、あのさ……」

「え?」

 週末のことを話そうとした時、狼貴が何かを言いかけた。

「実はさ……」

 何だろう? と耳を澄ましたのは無駄になった。聞こえたのは子どもの声と狼貴の怒鳴り声、遠ざかっていく足音……あ、何となく察した。

「狼貴? あんまり怒らないであげなよ……子どもなんだからさ……」

 妹なんて可愛くていいな、と思えるのは二次元限定なんだよね。七つも違うと話も合わないし、やること成すことどこかしらズレてて間が悪い、と僕も今までの交流から学んでいる。子ども過ぎて怒ったって意味が無いことも。

「君がチビの兄だったら良かったのにな……炭治郎ほどじゃなくてもチビは喜んだだろうな」

「え?」

「いやこっちの話」

 うーん、何となく分かるかな。多分、こんなお兄ちゃんいらないとか炭治郎みたいなお兄ちゃんがほしいって言われたな。妹ちゃんの気持ちは分かるけど、狼貴だって大変なんだ。そんなの無理なんだよ……むしろ、狼貴のほうが頼れるお兄ちゃんがほしいんじゃないかな? プライドが高くて認めないだろうけど。

 ほんの少し話せただけで、何だか全部元通りみたいな感じになっている……何か違う気がするけど、嬉しくてどうしようもないんだ。

(今はまだ言っちゃいけない)

「狼貴? 明日、学校来るよね? 別のことなんだけどさ……ゆっくり話そう。じゃあお風呂行きなよ、おやすみ」

 狼貴が戸惑う気配があったけど電話を切った。これ以上、繋がっていると次々と言ってしまいそうだったから。肺の空気全部を一気に吐き出す。肩から力が抜けて立っているのがやっとだった。

 自分の問題に君を巻き込もうとしていたこと、それを謝りたいと思ったこと、週末には親もいないから二人きりで過ごしたいこと、友達じゃなくて……になりたいこと……全部言ってしまいそうだった。

(それは……できれば)

 顔を見て、直接言いたい。そうでなきゃいけないと思う。特に最後は……最初のと一緒に言うのはいけない気がする。多分、もっと後でもいい。とにかく、今は。

(電話には出てくれて、話もしてくれた)

 それだけで充分だ。うん……今は。本音は……考えるのは自分でもちょっと恥ずかしい。そう思っていたのに、無意識は正直なもので僕はその晩、狼貴と抱き合う夢を見た。

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