初恋の終演

@azuma1217

初恋の終演

 気がつくとジャズバーに残っている客は一人だった。一番ジャズバーの出入り口に近い場所で眼鏡をかけ、二三本の白髪の混じったスーツの男だ。艶かしいオレンジ色のライトに包まれてステージに立っているリサには、どうもその男が自分の初恋の男に思えてならなかった。「あら、今お客さんだけですか?」リサはなんでもないふうに商売をした。「どうもそうみたいですね。」微笑して男は答えた。「じゃあほんと、ワンマンショーですね。お客さんと私だけ。」リサはにっこりと返して、汗ばんできた手にマイクスタンドを握っていた。

 「あれ、店長は?」さっきまでいたのに、と男はきょろきょろする。「今日は早上がりなんです。私にバトンタッチ。」声が震えていないかしら、とリサは不安だった。へえそうなんだ、男はまったくなんでもない様に答え、緊張は見当たらなかった。「なにかリクエストは。」ありますか、とリサが言い終える前に男は言った。

「初恋の終演」

 ゆっくりとスタンドマイクを握り、リサはオーディオのつまみを回す。震える声を抑えて、せめて男の小さな思い出になるよう歌った。思い出がきらきらと光る。あの子だけが拾ってくれた、小さなクラスの中で私の落とした消しゴム。ライトを浴びて、3分50秒は終わってしまった。「いい声ですねえ。」と男は呟いた。リサの脳裏でなめらかに思い出が再生される。小さなクラスの中、みんなに笑われた低くて掠れた自分の声を、あの子だけは笑わなかったこと。ただ曖昧に、リサは男に微笑んだ。男の名前は聞かなかった。そしてぴったりの料金をカウンターに置き、男は店を去っていった。


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