第6話:過去の影と近づく距離
真壁碧純は、学校の図書室で『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』の紙版を手に取った。
電子書籍で読んだ後、図書委員の仕事中に偶然見つけたのだ。
クラスメイトの間で話題の作品が、学校の図書室にも置かれていることに驚きつつ、ページをめくった。
物語の細部に目を凝らすと、幼い頃の自分が重なる描写がいくつもあった。
水遊びで濡れた服から見える小さな胸、兄に抱きついて笑うシーン――それは、基氏と過ごした夏の記憶そのものだった。
「お兄ちゃん……これ、私だよね?」
確信に変わりつつある思いに、碧純の胸はざわついた。
夕方、アパートに戻ると、基氏はキッチンで食材を整理していた。
「お兄ちゃん、買い物してきたの?」
「あぁ、碧純のメモ見て買ってきた。実家から猪肉も届いてたから、冷凍庫に入れといたぞ」
「やった! 猪鍋食べたい!」
「なら今夜はそれでいいな。俺、味付けは任せるぞ」
「うん、任せてよ。パパに教わったレシピで作るから」
料理を始めながら、碧純はさりげなく切り出した。
「お兄ちゃんさ、本に私のこと書いてるよね?」
基氏の手が一瞬止まり、包丁がまな板に軽く当たった。
「……何だよ、またその話か」
「だってさ、水遊びのシーンとか、私とそっくりなんだもん。小学校の時、田んぼのプールで遊んだこと覚えてるでしょ?」
「それは……偶然だよ。よくある描写だろ」
「ほんとかなぁ~。お兄ちゃん、私のことそんな目で見てたの?」
「見てねえよ! ただの創作だっつうの!」
慌てて否定する基氏に、碧純はニヤリと笑った。
「ふーん。でも、私のことモデルにしてるなら、ちゃんと許可取ってよね」
「だから違うって! お前、しつこいな!」
言い合いながらも、鍋の準備は進んだ。
猪肉と野菜が煮える香りが部屋に広がり、二人はテーブルに向かい合って座った。
「いただきます」
「いただきます」
スープを啜りながら、碧純はさらに追及した。
「お兄ちゃん、昔、私のことどう思ってたの?」
「どうって……可愛い妹だろ。守ってやりたいって思ってた」
「それだけ?」
「……それだけだよ」
基氏の声が少し低くなった。
実際は、それだけではなかった。
碧純が小学校5年生の夏、叔父が作った簡易プールで遊んでいた時、タンクトップから見えた小さな膨らみに目を奪われた。
その瞬間、妹を女として意識してしまい、欲望が湧き上がったのだ。
「このままじゃ碧純を汚す」と恐れ、大学進学を機に実家を離れた。
その過去を、碧純に話すわけにはいかなかった。
「ふーん。お兄ちゃん、私のこと大好きだったよね。私もお兄ちゃん大好きだったよ」
無邪気に笑う碧純に、基氏は目を逸らした。
「当たり前だろ。兄妹なんだから」
「でもさ、お兄ちゃんが大学行ってから全然帰ってこなかったじゃん。寂しかったんだから」
「……忙しかったんだよ。勉強とか、色々」
嘘だった。
孤独に耐えきれず、二次元に逃げ込み、ライトノベルで欲望を発散していた。
そのきっかけが碧純への禁断の思いだったとは、言えなかった。
食後、基氏は原稿に向かい、碧純は片付けを終えてソファに座った。
「お兄ちゃんさ、私がここに来て、どう思ってる?」
「どうって……助かってるよ。飯美味いし」
「それだけ?」
「それだけだよ。変な勘繰りすんな」
「ふーん。でも、私、お兄ちゃんの部屋見るたび思うんだよね。あの美少女グッズ、私の代わりなんじゃないかって」
「代わりじゃねえよ! あれは別物だ!」
「ほんとかなぁ~。お兄ちゃん、私のことそんなに好きなら、正直に言えばいいじゃん」
からかうように笑う碧純に、基氏は顔を赤らめた。
「お前、からかって楽しんでるだろ」
「バレた? でもさ、お兄ちゃんの反応見てると、なんか可愛いよ」
「可愛いって言うな! 俺は兄だぞ!」
「はいはい、お兄ちゃんね」
笑いながら、碧純はスマートフォンを手に取った。
「お兄ちゃん、私、クラスで『茨城基氏のファン』って子に会ったよ。『妹のためなら』が好きだって」
「そうか。感想はどうだった?」
「『お兄ちゃんが素敵』だって。私、ちょっと嫉妬しちゃった」
「嫉妬? 何だよそれ」
「お兄ちゃん、私だけの兄でいいよね?」
無垢な瞳で言う碧純に、基氏は言葉に詰まった。
「……お前は特別だよ。妹なんだから」
「うん、それでいいよ」
その言葉に、基氏の胸が締め付けられた。
特別だからこそ、欲望を抑えなければならなかった。
その夜、碧純は『お兄ちゃんのためならパンツもあげるよ』を読み始めた。
ギャグ調の軽い文体に笑いつつも、兄妹の距離感にどこか自分たちを重ねてしまった。
「お兄ちゃん、これも私っぽいよね?」
ベッドで呟いた言葉は、基氏には届かなかった。
一方、基氏は原稿を書きながら過去を思い出していた。
碧純が生まれた時、6歳の基氏は叔母夫婦に連れられて病院へ行った。
小さな赤ちゃんを抱き、「ずっと一緒のお兄ちゃんだぞ」と約束した。
その約束を守るため、欲望を封印したはずだった。
だが、碧純が近くにいる今、その封印が揺らいでいた。
翌朝、碧純は学校でクラスメイトと話していた。
「ねえ、真壁さん、『茨城基氏』の新作読んだ?」
「う、うん、読んでるよ」
「やっぱり妹物最高だよね。お兄ちゃん欲しいなぁ」
「そ、そうだね……」
笑顔で返す碧純だが、心の中では複雑だった。
「お兄ちゃん、私のことどう思ってるんだろう」
帰宅後、基氏がキーボードを叩く音が聞こえた。
「お兄ちゃん、新作ってどんな話?」
「まだ秘密だよ。完成したら読ませてやる」
「私、出てくる?」
「……出てこねえよ」
「ほんとかなぁ~」
からかう碧純に、基氏は苦笑した。
だが、新作の妹キャラは、確かに碧純の影を帯びていた。
二人の距離は近づきつつあるが、基氏の心の要石はまだ持ちこたえていた。
ただ、その揺れは日に日に大きくなっていた。
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