第4話:欲望と日常の狭間で

 真壁碧純がマッサージを終えた後、シャワーを浴びに出ると、基氏は一人うつ伏せのまま動けなかった。


「静まりたまえ、荒ぶるチンコ神よ……」と呟き、妹に見られなくて良かったと安堵のため息をついた。


 碧純の足の甘酸っぱい匂い――一日中履いたソックスの蒸れた香りと、女子高生特有のフェロモンが混ざり合ったそれは、基氏の心を乱した。


 血縁上は従妹でも、実の妹同然に育った碧純への愛と欲望は、二次元美少女にぶつけて発散してきたはずだった。


 なのに、3年ぶりに会った妹は女らしさを増し、無防備な姿で目の前に現れた。


「綺麗だ。泣けてくるほど綺麗だ。今すぐ力ずくで手に入れたい」と、衝動が湧いたが、すぐに打ち消した。


「そんなことしたら、ガラス細工みたいに壊れる。関係も、碧純も」


 あと3年――碧純が18歳になるまで我慢すれば、思いを正面からぶつけられる。


 その時なら、断られても笑って済ませられるはずだと、自分を抑え込んだ。


 風呂から出てきた碧純は、短パンとスポーツブラ姿で頭をバスタオルで拭きながら基氏の横に座った。


「風邪引くからちゃんと服着ろよ」


「うん、頭拭き終わったらね」


「ドライヤー持ってこなかったのか?」


「あるよ、まだ荷物に埋もれてる」


「俺のは壊れたばかりだ。どれ、拭いてやるから」


 バスタオルを手に取り、碧純の漆黒の髪を優しく拭き始めた。


 肩まである手入れの行き届いた髪を、毛玉にならないよう丁寧に扱う。


「懐かしいね。お兄ちゃん、昔よくやってくれたよね」


「あぁ、父さん母さんが組合の集まりで遅い時にやってたな」


「うん、乾かしてくれた」


「碧純が風邪引きやすかったからな。今もか?」


「ううん、今はそんなでもないよ」


「でも油断するなよ。環境変わるんだから」


「うん、わかってるって。お兄ちゃん、変わってないね」


「何が?」


「なんでもない。甘えん坊妹キャラはここまで。ほら、なんか栗の花みたいな匂いするよ。お風呂入りなよ」


「何だろな、この匂い。お湯冷める前に入ってくるか」


 碧純が指摘した匂いの正体――それは基氏の自家発電の結果だったが、彼女が知るのはずっと先のことだ。


 翌日、夕飯の準備をする碧純がリビングで声を上げた。


「お兄ちゃん、ご飯できたよ。奥久慈シャモの親子丼だよ」


 基氏がテーブルに着くと、黄金に輝く親子丼が目に飛び込んできた。


「おっ、美味そう。いただきます」


「召し上がれ」


 一口食べると、鶏肉の強い風味が口いっぱいに広がった。


「おっ、お~!」


「どうしたの? 不味い?」


「いや、美味いぞ。母さんの味そっくりだな」


「そりゃ肉も野菜も実家のだし、醤油も実家で使ってるのにしたから。ってか、お兄ちゃん、私来るまで醤油すらない生活って何してたの? マヨネーズは買い置きいっぱいあったけど」


「大概の物はマヨネーズかければ美味いよ。って、ほとんど外食かコンビニ弁当だったから」


「私来て良かったよ。お兄ちゃん、享年30歳コースだよ」


「うん、そうなりそうだとは思ってたからサラダは食べてた」


「お兄ちゃんの食事管理は私がするんだからね」


「裸にエプロンで?」


「んなことするわけないでしょ! バカ兄貴、キモい。絶対あの世界の人達って火傷の心配してないよ。お兄ちゃん、書くときは気をつけてよ!」


「うっ、もう遅い」


「何、書いたの?」


「体操着ブルマでエプロン」


「うわっ、絶対やらないって!」


「いや、ほら、臨海学校で女子達が半袖運動着にエプロンしてたろ」


「下は?」


「膝丈短パンか長いジャージ」


「ほら、ブルマなんて幻想の世界なんだからね」


「ブルマを現役で見たかった……」


「馬鹿言ってないでさっさと食べなよ」


「うん、美味いぞ」


 裸エプロンは論外だが、ブルマエプロンを想像してしまった碧純。


 物心ついてからブルマを穿いた記憶はなく、幼い頃に防寒でスカートの下に穿いた程度だった。


「運動会でみんなに見せてたなんて、今考えるとありえない」と、少し怒りさえ感じた。


 だが、兄が喜ぶなら……と一瞬思った自分に驚いた。


 その夜、好奇心から「ブルマ」を検索すると、コスプレ用の商品がヒットした。


「げっ、売ってるんだ……大人ってどう使うの?」


 翌日、学校から帰った碧純は、基氏に切り出した。


「お兄ちゃんの本って売れてるんだね」


 冷蔵庫から牛乳を飲んでいた基氏が振り返った。


「ん? どうした急に」


「今日、自己紹介でライトノベル好きって子がいて話したんだけど、お兄ちゃんの本読んでたよ」


「感想はどうだった?」


「キモいって言ってたよ」


「キモい……」


 牛乳がこぼれそうに手が震えた基氏に、碧純は慌てて補足した。


「二作あるでしょ? 片方がキモいけどギャグが面白くて、片方が『こんなお兄ちゃん欲しい』だって」


「なるほど、そう言うことか」


「なんでライトノベル書き始めたの? お兄ちゃん、理系だったよね? 宇宙の果てを見つけたいとか言ってなかった?」


「人生の果てを見てしまったから」


「人生の果て?」


「暗黒の世界だよ。暗黒面に落ちそうになった」


「なんだか分かんないけど、暗黒物質と関係あるの?」


「あ~、宇宙の暗黒物質の証明か。それも夢だったな……」


 基氏が見た暗黒とは、孤独だった。


 妹愛を押し殺し、慣れない土地での生活に希望が消え、鬱に近づいた時、二次元美少女に救われた。


 だが、それを上手く説明できなかった。


「でもさ、結構稼いでるんだ?」


「印税のほか、グッズ収入やゲームのシナリオ参加で、生活できるくらいは稼いでるよ。いつまで続くかわからないけど。父さん達も家賃払ってくれてるし」


「売れなくなったら家の畑あるし、食べるには困らないよ」


 特に深い意味なく言った碧純に、基氏は短く答えた。


「そうだな」


『家の畑』は碧純が相続するもので、基氏は養子縁組していない。


 真壁姓は茨城では珍しくなく、偶然の一致だ。


「お兄ちゃん、妹物以外書けないの? 妹物だと『私の兄が書いてる』って言いづらいんだけど。異世界冒険とかさ」


「挑戦してるけど……」


「けど?」


「企画が通らないし、コンテストでも受賞できない」


「何書いてるの?」


「異世界冒険や歴史物、推理小説も試したけど、担当からは『妹出さないんですか?』って言われるし、ネットに上げるとファンから『妹いないと先生の作品じゃない』って書かれる」


「うわ、妹からするとキモい。兄が妹専門作家って……」


「今はみんな俺に妹を求めてるから仕方ないんだよ」


「姉にしたら?」


「それは違う。妹じゃなきゃダメなんだ」


「もう分かんないよ。とにかく、私をモデルにしたら絶対許さないからね」


「……もう遅いよ、碧純」


 その夜、碧純は電子書籍で『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』を買い、読み始めた。


 基氏の欲望と愛が投影された物語に、彼女はまだ気づいていなかった。

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