第3話:学校と兄の秘密
新しい朝が訪れ、真新しい制服に身を包んだ真壁碧純は、アパートの玄関で靴を履きながら兄に声をかけた。
「お兄ちゃん、朝ご飯テーブルに置いてあるからね。ちゃんと食べないと蹴るからね」
部屋から出てこない基氏に念を押すと、眠そうな声が返ってきた。
「うぃ~、気をつけて」
「今日から学校だからね。行ってきます」
玄関を出る碧純の後ろ姿を、基氏はドアの隙間からこっそり見送った。
ワンピース型のシンプルな制服にポニーテールが揺れる姿は、まるでアニメのヒロインのようだった。
「可愛すぎるだろ……こんなの目の前にして欲望抑えられるかよ」と、心の中で呟きながら目を閉じた。
朝ご飯を見ると、実家から持ってきた野菜の煮物や山菜の漬物がベーコンエッグと一緒に大皿に盛られていた。
ご飯と味噌汁を温め直し、一口飲むと懐かしい味が広がった。
「大子の味噌か……やっぱり生まれ育った味が一番だな。ってか、碧純、料理上手くなったな」
その時、スマートフォンの画面に佳奈子からのメッセージが表示された。
『ヤッた?』
「ゲホゲホゲホ、何だよ!」
慌ててLINEを開くと、すぐ訂正が来た。
『ごめん間違った。やったね、重版おめでとう』
基氏は仕送りを断る際、佳奈子にライトノベル作家になったことを伝えていた。
ペンネームは隠したが、叔母夫婦に迷惑をかけないよう、賞金と印税の入金記録を写真で送っていた。
佳奈子の返信は真面目だった。
『あなたの養育費は姉夫婦の保険で賄ってる。結婚するときに残りは全部渡すよ。お金の心配は子供がすることじゃない』
ネットに慣れた佳奈子は、印税の振り込み日から逆算し、基氏のペンネーム「茨城基氏」とその妹物作品にたどり着いていた。
「ふふふっ、あなたがシスコンなのは知ってたわよ。真壁家の跡取りになるため、碧純と結ばれなさい」と、画面の向こうで笑っていることを基氏は知らない。
一方、碧純は学校へ向かう道を歩いていた。
アパートから15分、バスもあるが、山奥育ちの彼女には目と鼻の先だ。
鹿や猪、野犬に怯えることのない舗装された大通りを、新緑の並木を見ながら進んだ。
私立筑波女子学園の入学式は、共働き家庭を考慮して親の参加が不要で、オンライン中継される最新式だった。
後日DVDも配られるサービスは、私立ならではの配慮だろう。
教室での自己紹介では、みんなが新しい環境に緊張している様子が伝わった。
私立ゆえに各地からの進学者が多く、中学からのグループで固まる雰囲気はなかった。
上品な女子校で、茨城弁の「だっぺ」や「んだっぺ」が飛び交うこともなく、マウント争いも見られなかった。
自己紹介は「名前」「出身中学」「趣味」「好きな食べ物」「最後に一言」と、失敗のない形式で進んだ。
碧純は「趣味は食べることと料理」「好きな食べ物は大子のりんご」「田舎から出てきたけどよろしくね」と、少し幼い笑顔で言った。
昼休み、クラスメイトの会話が耳に入った。
「私の趣味はライトノベルを読むことですって言った子がいてさ」
「私も好き! 異世界転生物とかスライムに転生するやつ面白いよね」
「私は兄妹物に憧れる。兄がいないから」
「『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』のお兄ちゃん素敵だよね」
「わかる~! 茨城基氏先生の読んでるよ」
「『お兄ちゃんのためならパンツもあげるよ』はないよね~。ギャグが面白いから読んでるけど」
碧純は顔を真っ赤にして咳き込んだ。
「ゲホゲホゲホゲホ!」
「真壁さん、大丈夫?」
隣のクラスメイトが背中をさすってくれた。
「うぅ、大丈夫。ちょっとお茶が入っちゃって」
ピンクの水筒を見せてごまかしたが、心臓がバクバクしていた。
「お兄ちゃんの本が女子高生に人気って何!?」
昨日知ったばかりの兄のライトノベルがこんなに話題とは信じられなかった。
教室を出て中庭のベンチで、スマートフォンに「茨城基氏」と入力すると、ウィキペディアまで出てきた。
「えぇ、お兄ちゃんが載ってる!」
『累計発行部数50万突破』と書かれ、混乱する碧純。
教室に戻り、ライトノベル好きのグループに近づいた。
「あの、ごめんね。聞いてもいい?」
「真壁さんよね、何?」
「茨城基氏の作品って売れてるの?」
「興味あるの?」
「うん、ちょっと読んでみようかなって」
「すごいよ! 今一番売れてる新人作家の一人。面白いから絶対買った方がいい!」
興奮気味に語るクラスメイトに、碧純は安心と戸惑いを感じた。
「お兄ちゃん、理系だったはずなのに……何が起きたの?」
午後の授業で学級委員や係が決まり、本好きな碧純は図書委員に立候補した。
受験で読書から離れていた分、再び楽しみたい気持ちもあった。
学級委員長は背が高く、透き通る肌の美人で、「筑波のエルフ」と呼ばれた有名人だった。
「弓道の名手でクオーターらしいよ。近寄りがたいけど美人だよね」と、隣の席の子が教えてくれた。
学校を終え、アパートに急いで帰ると、基氏が上半身裸でパンツを下げた間抜けな姿でもぞもぞしていた。
「お兄ちゃん! 何してるの、裸になって!」
「早かったな、お帰り」
「それより服着なさいよ!」
鞄を投げると、基氏はすっと避けた。
「肩こりと腰痛の薬塗ってるから裸になるだろ。薬箱はリビングにあるから必要な時は使えよ。絆創膏、湿布、虫刺され薬、風邪薬、痛み止めはあるけど、生理痛用は自分で買ってくれ。学校途中に薬局あったろ?」
「あ、うん、ごめん。動揺した」
薬を塗り終えた基氏はシャツを着てストレッチを始めた。
その苦痛の表情は、農作業で疲れた忠信に似ていて、碧純はつい口に出した。
「踏んであげようか?」
「妹に踏まれて喜ぶ性癖はない」
「バカ! 足踏みマッサージの話だよ。パパに教わってよくやってたんだから」
「父さん、どこで覚えたんだ?」
「農協のボランティアでタイに行った時、本格タイ式マッサージを習ったらしいよ」
「変な海外土産届いた理由か……変な店行ってないよな?」
「バカ兄貴、妄想やめて横になりなさい」
逆らうと何が飛んでくるかわからない剣幕に、基氏は絨毯にうつ伏せになった。
碧純は右足でゴリゴリと踏み始めた。
「痛くない?」
「意外と気持ちいいな」
「でしょ、パパも喜んでたよ」
「碧純、成長したな。昔は肩たたきだったのに、今はタイ式マッサージか」
「お兄ちゃんが全然帰ってこなかったから、成長見逃したんだよ」
どこか切なげに言う碧純に、基氏は返す言葉がなかった。
「どう? 気持ちいい?」
「うん、マジでいい。肩甲骨も頼めるか?」
「ここかな? えいっ」
「おぉ、痛気持ちいい!」
「ははっ、気持ちいいでしょ。でもあえぎ声は禁止、キモいから」
熱くこみ上げてくる不思議な感覚を感じながら、碧純はマッサージを続けた。
その夜、碧純は兄の秘密に一歩近づいた気がした。
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