第4話 準備と日常(3)

 喫茶店で同級生と別れると、辺りはすでに暗くなっていった。月明りがあった。勢いそのまま、残り一つとなった作業も終えてしまおう、と思った。僕は大通りでタクシーを拾った。

空蝉通うつせみどおりをまっすぐ行ったところにある、久我家の屋敷まで」

「お客さん、久我家の使用人ですかい?」とタクシーの運転主はただした。

「その予定ってとこだな」と僕は嘘をつく。「これからあそこの使用人になるんだが、ぶっちゃけた話をすれば、僕は久我家のことを何も知らないんだ。金だけ見て応募しちゃったからさ。だが、今になって、何も知らないのは不安になってきた。何か久我家について知っていることがあったら教えてくれないか?」

「なんにも知らない人間が、久我家の使用人として雇われますかね?」

「無知と若さが評価されたと考えているよ」

 運転手は笑った。「そりゃいいや」

「で、実際どうなんだ。評判というと」僕は言う。

「うーん。悪いですね、とても」

「とても、ね」

「はい、久我家の主人が気短でね。奥様に手をあげる場面がしばしばと聞きます」

「なるほど。これからは、その矛先ほこさきが僕に向かうような仕事をすればいいわけだ」

「……お客さん、高等部でその喋り方をしていたら、いじめられてしまいますよ?」

「余計なお世話だ……」と僕はいらついた。「娘がいるそうだが、そっちはどうだ?」

「娘は奥様に似ていらっしゃるそうですね。とても美しく、聡明そうめいだとか。学園の成績もトップだと聞きます」

「学園でトップ? 両手で数えられるのか?」と僕は驚いた。

「人差し指で事足りる場合もあるかと」と運転手は言った。「昨年はだったそうで」

「……まじか」と僕はため息をついた。そして、背もたれに体の全てを託した。

 学園に在籍していたとき、学力が高い人間とは、僕の浅薄な知識ゆえ、会話や議論が成立しなかった。さて、僕は彼女と会話を成立させることができるのだろうか……?

 久我家の屋敷が見えたところで、タクシーを降りた。タクシー運転手にチップを払おうとすると、「ここは外国じゃないでっせ」と一蹴された。一回やってみたかっただけだ。

 暗がりの中で道を進む。風が吹き、耳をあおる。しゃれている塀にさしかかると、ゆっくり歩きつつ、横目で敷地を観察する。敷地はかなり広いようだ。庭には木々があり、奥は遠くて見通せない。もしかすると、屋敷の後ろにただずむ山々が全て敷地なのかもしれない。駐車場がある。車高の低い車が二台、奥にはリムジンなんかも見える。駐輪場は……ないか。噴水がある。噴水の中心には羽の生えた人型の像がある。いずれも庭に、人影は見えない。屋敷に視線を向ける。屋敷は、暗かった。明かりが一つもともっていない。不気味だ。確かに夜だが、まだ寝る時間帯ではないだろうに。人がいないのか?

 門の隣に門衛小屋もんぺいごやがあって、中に白髪の男性がいた。男性は眠そうな目をしていた。今にも眠ってしまいそうだったから、そっとしておくことにした。

 場所は確認できたことだし、今日はこれでいいとしよう。帰路についた。

 バス停が見え、大通りに出られるバスがあることを確認すると、ベンチに座ってバスを待った。座っているあいだ、眠気と懸命に戦った。そのとき、空腹が僕の味方してくれた。思えば、朝から何も食べていない。早く家に帰って、何かを胃に入れなければ。

 バスは思いのほか、すぐに到着した。乗客は、僕以外に誰一人いなかった。乗車する際、運転主は鋭い一瞥いちべつをくれた。もしかすると、運転中に愚痴を独りごちていたり、大好きな曲を歌っていたりしていたから、乗車してきた僕のことを、邪魔に思っているのかもしれない。なのだとしたら、口を聞くのは勘弁だけど、歌ってくれるなら構わないよ、と言いたかった。誰かの歌声が、聞きたい夜だった。

 最後列の座席に腰を下ろす。窓にうつった自分の顔と、にらめっこする。朝にそったはずの髭が、すでに黒くぽつぽつと生えてきていた。疲れてる顔、と自分の顔を評価した。

 バスを降りて、最寄り駅まで歩き、キオスクに寄った。でかいメロンパンと暖かいほうじ茶を買った。自動販売機と自動販売機の間に、人が一人だけ入れそうな空間があったから、そこに行き、座って、でかいメロンパンをかじった。甘くて、柔らかい。夢中になって食べた。人の足がたくさん、僕の前を歩いていった。暖かいほうじ茶を飲んで落ち着いて、プラスチック包装をポケットに突っ込み、歩き始めた。改札を抜け、駅のホームへ行くとそこに丁度、目的の電車が来ていた。車内は空いていた。座席に座り、いつ見てもはちゃめちゃな路線図を、少しでも記憶しようと、じっと見つめた。乗り換えを三度すると、ホームの最寄り駅に着いた。

 家に帰った。まずは手を洗った。次は金庫に、銀行から下ろした金と、拳銃、その銃弾を入れ、ロックした。現金を触ったから、もう一度だけ手を洗う。そのまま、洗面所に隣接するバスルームに移り、服を脱いで、服を桶に入れる。シャワーを浴びて、バスタオルでよく体を拭いたあと、桶に入れた服を洗濯していった。

 洗濯を終え、自室へ戻ってパジャマを着た。歯磨きとコップを手に持ち、キッチンで歯磨きをした。使い終わったコップをシンクに入れようとするが、洗い物がたくさん溜まっていて、置く場所がなかった。仕方なく、食器と食器の間にコップを差し、キッチンから去った。明日まとめて洗ってしまおうと、そう思った。

 ベッドに寝転がった。すぐにでも眠れてしまいそうだった。リモコンを見ずに、手探りで掴むと、明かりを消した。わらのにおいのする掛け布団を頭まで被り、眠った。

 そういうえば、プリンを買い忘れたな、と、ふと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る