第2話 準備と日常 (1)

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 ボスから電話がかかってきたのは、ノアと会ってから二日後のことだった。ボスは機械の音声を使っていた。随分と高い音だった。ボスは一方的に、外国語で、依頼の内容を説明した。

 僕はガラケーを肩と耳に挟みつつ、インスタントのコーヒーをいれるために、お湯を沸かしていた。ひたすらに黙り、説明に耳を傾けた。ひとしきり依頼の説明が終わると、個人的な話のようなものが始まった。

『トコロデ、アナタハ、ゴジブンノコトヲ、アイシテイラッシャルデショウカ』

 そう質問があったのち、数秒の沈黙が訪れた。どうやら、一連の一方的な情報伝達の機会は終わりを告げたようだった。

「そうですね」と僕は少し考える。「今日、自分にプリンを買ってしまうくらいには」

『アイシテイルト、マヨイナク、ソウソクトウスルヒトヲ、アナタハ、ドウオモイマスカ』

「即答はすごいと思いますね。通常、愛するはためらいを伴う行為だ」

『ソウデスカ』と、一つ間を置いて、『ドウカソノオキモチヲ、ホオムノソトデモオモチニナッテクダサイ』と、さらに一つ間を置き、『サヨウナラ、グッドラック』と、電話が切れた。

 僕はコーヒーをいれたカップを手に持って、机へ向かい、ボスからの依頼を箇条書きにまとめるため、青い付箋を袖から三枚ばかりとった。そしてそれぞれにこう書いた。『これは第一段階』『久我家のご令嬢と親交を持つ』『今より開始』


 着替えを済ませて、ホームを出た。外は寒かった。ポケットに手を入れて、足早に歩いた。近場の銀行すら徒歩圏内にはなかった。よく利用していた近所の支店も、最近になって潰れてしまったようだ。仕方なく、レンタル可能なサイクルポートで自転車を借りた。この時間帯のバスは混んでいるから、乗車する気にはなれない。

 銀行へ行く途中、桐壺川きりつぼがわに架かる大きな橋を通った。自転車を道の脇に停め、川に近づいた。川はとうとうと流れていた。水は冷たく、触れた指先を赤くさせた。何度か水切りをするが、どれも三回跳ねたところで終わってしまった。僕は自転車を停めたところへ戻り、再度ペダルを漕ぎ始めた。寒さから、次第に指が限界を叫ぶ。延滞を重ねるとホームの電気が断たれるように、放っていた指は感覚を断ち始めた。ポケットには羊革の手袋が入っていたが、これは暖かさに欠けていた。丁度よく、薄汚い商店街を通っていたところに古着屋があった。店内に入ってすぐ脇のところに、手袋があった。ニットでできた暖かい手袋だった。赤色、青色、緑色、黄色の四色があり、黒色はなかった。黄色の手袋を買い、手にはめ、店員さんに頼んで、店内の暖房器具の前にしばらく居座らせてもらった。十分ほどすると、一枚の札を置いて店を出た。

 ようやく銀行に到着したときには、太陽が真上に上がっていた。自転車を指定のポートに停め、支払を済ませた。帰りはバスを使おう、と思った。長く運転していたから、体はむかむかと熱を帯びていた。

 とりあえず、銀行で二十万を下ろした。今回の事件を解決するまで、とりあえずは二十万で十分だろう。財布の代わりに、A4のクリアファイルを三枚用いて、しわを作らないよう収納する。鞄にしまい、次の目的地へ向かう。

 帚木ははきぎ通りをまっすぐ歩き、治安の悪い地区へ入った。スリに気をつけ、人からは一メートルを保つようにした。奥へ進んでいくにつれ、空気は悪くなっていった。生ものの臭いに混ざる微小の血の臭い。袋小路になった地点、灰色のカウボーイの看板を大きく掲げる店へ到着するまでに、鼠の死骸を四度、鳩の死骸を二度だけ見た。路地にたむろする浮浪者は、鋭い視線で僕を刺していた。僕は明らかに金を持っている格好をしていた。居心地が悪い。店内へ入った。

 一人の大男が新聞を開き、レジに足をかけていた。ちらりとこちらに目をやると、興味なさげにまた新聞へ、視線を戻した。ポケットに手を入れ、店の奥にいるその大男の目の前に行った。大男は立派な髭をはやして、タバコの臭いをもわもわとまとっていた。

「なんだ、ガキ」と、大男は傲岸不遜といった態度で言った。

「拳銃をくれ。あんたのとびきりおすすめのやつを」と僕は言った。

 男はようやく新聞を閉じて地面へ捨てた。そして鋭い視線を向けてくる。

「おめえ、人を撃つのか?」

「場合による」

「そりゃいったい、どういう場合だ?」

「大切な人の命が危険にさらされているとき」

「ほう。たいそうなこった」

「だがあいにく現実には、自分を含めたって大切な人なんぞいない。だから人は撃たないさ」

「ほざけ」と大男は素早く立ち上がり、何かを僕の喉の先に突きつける。ナイフだ。あと少し喉仏が出ていたら、僕は血に溺れていたかもしれない。「自分が大切じゃないだって? 俺がこの世で最も嫌うのは、おまえみたいなませたガキだよ」

「まあ落ち着け、愛してる。な?」と僕は焦った。どうしよう。「う、売り値に五万プラスでどうだ?」と咄嗟に口から出た。

 男は瞬きを冷静に三度もすると、呆れたようにナイフを地面に捨てた。

「ませたガキはこの世で一番嫌いだがな、ませたガキから金を多くとるのは一番好きだ」

「いい趣味だよ、まったく」僕はアイロンをかけるように、丁寧に手で首をなぞった。

「ついてこい」と男は奥へ進んだ。それについていった。

 店の奥には階段があった。上っていって、屋上に出た。どうやらここは、射撃場のようだ。

「とりあえず、こいつを使ってみろ」

 投げられた拳銃はセーフティーがすでに外されていた。僕はこの大男が嫌いだった。

 的に向かい、狙いを定めるふりをする。トリガーに指がかかる。脇からじくじくと湧く汗を感じる。トリガーを二度、引いた。一つは的の中心に命中、もう一つは的の端っこに当たっていた。

「ほう、うめえな」と男は感心していった。「見た感じ、まぐれじゃねえようだ。二発目の精度はカスだがな」

「一発撃ったその瞬間から、決まっていつも腕が震えだすんだ」と僕は震えを押さえ、言った。

 男は強引に僕の腕をとった。そして僕の腕をまくると、硬さを確かめるように各部を指でもみほぐしていった。痛い。

「上腕の筋肉はかなりあるが、右手首周辺の筋肉が十分じゃねえみてえだな。筋肉の作りがややアンバランスだ。昔、何か怪我でもしたか?」

「銃で撃たれた。玉がそこにかすった」

 男はじっと顔を覗き込んできた。僕は目を逸らした。

「……ああ、そうか。災難だったな」

 階段を下りた。階段裏に置かれていた木の机に座っているよう、言われた。僕は言われた通りに座って待った。その間、僕は銃を撃った感覚を思い起こし、復習していた。

 やがて男が戻ってきた。手には二つのコップを持ち、脇にはオレンジジュースの紙パックを挟んでいた。オレンジジュースをそれぞれのコップに注ぎ、コップの一つを僕に差しだした。

 男はため息をついた。ライターを用いて、紙タバコに火を点け、煙で遊ぶ。男は僕の視線に気がつくと、

「おまえも吸うか?」と誘った。

「いらない。ガキだし」と僕は断った。

 男は笑った。男はタバコを足元に捨てた。足で擦って、火を消した。

「俺も昔、銃で撃たれたことがある」と男はシャツをめくり、脇腹を見せた。「大昔だがな。運よく、形はもとに戻った。だが、あれは俺の人生を大きく変えちまった。よくも、わるくもな」

 僕は黙って、男の話を聴いた。男は立ち上がり、またどこかへ行った。そしてすぐに戻ってきて、足を組み、僕の正面に座った。

「おめえ、孤独なんだな」

「ああ」

「ガキがませなきゃ生きていけない世界が、一番気色悪いよなあ」と男は言って、机の上に一つの拳銃を置いた。「俺がおまえくらいのとき、当時はただのガラクタだったこいつを、自分の手で改造して使えるようにした。そいつおまえにやる。俺のとびきりのおすすめだ」

「だが、僕に使えるのか?」

「自信を持てよ。自信が肝要だ。少なくとも、初弾を当てる技術はあると、そう思い込め。確かに、反動は、おまえがさっき撃ったやつよりは小さいが、あるにはある。本気で使っていくつもりなら、手首の筋肉を鍛える必要がある。ただ、それはどんなものを使うにせよ、避けられんだろうな」と男はいった。「ホルスターは、あの壁にかけられてるやつから好きなのを選べ。弾はこの店で買うようにしろ。俺の名前と拳銃を見せれば、面白いくらい震えてくれるぜ?」と住所の書かれた紙きれを渡してくれた。僕はそれを受けとった。

「それで、あんたの名前は?」と僕は訊いた。

「俺は、ヴェース。おまえは?」

「光」

「ほう」と男はいった。「いい名前だ」


 ヴェースの店を出て、帚木ははきぎ通りまで戻った。ヴェースから貰ったメモによると、銃弾を買うべき店は帚木通りを右折したところにあるようだった。ヴェースはその見た目に反し、綺麗な字を記し、繊細な地図を描くようだった。僕はメモを見て、頬を少しだけ緩ませた。

 銃弾を難なく入手し、今日やるべきだった作業を終えた。が、あと二つしたほうがよいことが残っていた。しなければならないというわけではないが、したほうがよいことが残っていた。

 僕は仕事用のガラケーではなく、自前のスマートフォンを鞄から取りだし、学園に在籍していたころの同級生に、ひたすら電話をかけていった。一人と連絡がとれ、今から会えるかと尋ねてみると、問題ないと返事をもらった。僕は学園へ向かった。太陽は、あと二時間ほどで沈んでしまうだろうか。空は赤肉のメロンのような色をしていた。

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