第37話 消えないトラウマ

 イレーヌ王女の護衛騎士であるオリヴィエと、パンテーラ王国の第二王子であるフェデリコがパーティーの余興として決闘を行う。

 しかも、イレーヌ王女のエスコート権をかけて。


 その知らせはあっという間に、しかも面白おかしく脚色され、宮殿中に広まった。

 前日に決定した催しにも関わらず、パーティーに参列予定のほぼ全ての者、そして宮中で働く多くの者が会場に押しかけている。


「大変なことになりましたね、イレーヌ殿下」


 イレーヌの隣に立つのはセシリアである。イレーヌ用に座って見られる場所も用意されていたが、少しでも近い立見席で見ることを望んだからだ。


 会場に指定されたのは、城内にある庭の一つだ。中央には川に囲まれた小島があり、小島へ渡るには橋を通るしかない。

 決闘中、逃げれば川に落ちてしまう、という過酷な環境である。


 パーティーのために招いていた楽団がラッパを鳴らし、オリヴィエとフェデリコが橋を渡って島へ移動する。

 オリヴィエは護衛騎士の制服を、フェデリコはパンテーラ王国の軍服を纏っていた。


「オリヴィエ―!」

「負けるなよ! 勝て!」

「ティーグル王国の強さを見せつけろ!」


 観客席から大きな歓声を飛ばすのは騎士団だ。団長であるイヴァンを中心に、全団員が試合を見にきている。

 彼らからすれば、同僚であるオリヴィエが他国の王子に負ける、なんて事態は絶対に避けたいのだろう。


 さすがに、観客のほとんどがオリヴィエを応援しているわね。

 もちろん、本心からじゃない人もいるんでしょうけれど……。


 オリヴィエは歓声に対しては何の反応もせず、真剣な表情でフェデリコと見つめ合っている。

 一方のフェデリコは、いつもと同じ微笑みを浮かべたまま。


 見つめ合った二人が剣を抜く。陽光を浴びて、刀身が煌めいた。


「……えっ!?」


 思わず、イレーヌは大声を出してしまった。

 どう見てもあれは真剣である。模造刀ではない。


 どういうことなの……!?


「ね、ねえセシリア、あれって真剣じゃないの!? どうして!? あんな危ない決闘、今すぐ止めるべきだわ!」

「落ち着いてください、イレーヌ殿下」


 セシリアにそっと背中をさすられたが、落ち着けるはずがない。

 模造刀だから大丈夫、と言い聞かせても、昨晩は一睡もできなかったのだから。


「パンテーラ王国の決闘では真剣を用いると聞いたことがあります。もちろん、相手に重症を負わせることはありませんし、それは審判も分かっているでしょう」

「でも、あの二人は隔離された場所にいるのよ!? 少しでも止めるのが遅れてしまったら……っ!」


 背後からくすくす、という笑い声が聞こえて振り向くと、そこには高官連中が立っていた。

 アゼリーが政治に興味がないのをいいことに、好き勝手にしている連中である。


「失礼。いや、それほど取り乱されるとは、殿下もまだ子供だと思いまして」

「殿下はよほど、あのお気に入りが大事なんですなぁ」


 ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべる高官連中にも、普段のイレーヌなら優雅な笑みを返しただろう。

 腹が立っていたとしても、王女として護衛騎士を心配するのは当たり前ですわ、と澄ました顔でなんとか答えられたはずだ。


 だがあいにく、イレーヌの精神状態は冷静ではない。

 そしてイレーヌの本性は、聡明で思慮深い王女でも、聖女のように優しく思いやりのある王女でもない。


「うるさいわよ、貴方たち!」


 イレーヌに怒鳴られ、高官たちは目を丸くした。

 ここ最近イレーヌは礼儀正しく振る舞っており、相手から多少舐められた態度をとられたとしても、誰かに怒鳴るなんてことはなかった。


 そんなことをすれば好感度が下がってしまうからだ。


「わたくしを誰だと思っての発言なのかしら!?」


 イレーヌはこの国の王女であり、次期最高権力者である。

 彼らが舐めた態度をとっていいような人間ではないのだ。


「で、殿下……申し訳ありませんっ!」


 顔を真っ青にした高官たちが頭を下げる。

 だが顔を青くしたのは、高官たちだけではなかった。


 まずいわ! わたくし、つい本性が出てしまって……!


 このままではまた、感情的でワガママな王女だと言われてしまう。せっかく積み上げてきたイメージが……とイレーヌの額から汗が噴き出してきた瞬間、さすがです! と叫んだ者がいた。


 セシリアだ。


「今のご一喝……! 王族としての威厳を感じました……!」

「……へっ?」

「穏やかな殿下ですが、やはり人の上に立つべき御方。神聖な決闘の前に、不適切な発言がありましたもんね……!」


 セシリアの発言をきっかけに、さすが殿下……という声が広がっていく。

 どうやら日頃おとなしくしていたおかげで、先程の叱責は好意的に受け取ってもらえたらしい。


 よく分からないけれど、ラッキーだったわ……!


 イレーヌが安心したところで、試合開始を告げるラッパの音が鳴り響いた。真っ先に動いたのはフェデリコで、地面を蹴って跳躍し、軽やかにオリヴィエへ襲いかかる。

 オリヴィエが片手でその攻撃を防ぐ。鋭い金属音が響いて、イレーヌは思わず唇を噛んだ。


 フェデリコが剣を振るえば、オリヴィエがすぐに受け止める。しかしオリヴィエの攻撃も、フェデリコにはかわされてしまう。


 オリヴィエが突きを放った。しかしその突きは、フェデリコが一秒前まで存在していた空中を突き刺すのみ。

 だがもしフェデリコに当たっていれば、ただの怪我では済まなかっただろう。


 騎士同士の決闘って、こういうものなの……!?


 今までイレーヌが見てきた模造刀での試合は、今日の決闘に比べれば児戯のようなものだ。それほどまでに格が違う。


「……お願い」


 勝って、オリヴィエ。


 心の中で強く祈る。目を塞いでしまいたいけれど、怖くて瞬きもできない。


 フェデリコが一度身を引いたかと思うと、フェイントを混ぜつつ、細かい攻撃を繰り出した。

 オリヴィエの対応も完璧だが、フェデリコから距離をとろうと後ろへ飛ぶ寸前、フェデリコの剣先がオリヴィエの頬に触れた。


 たった一瞬だ。離れた場所からでは、切り傷がついたのかどうかすら分からない。

 それでも。


 心臓が止まって、全身から血の気が引いていく。

 震え出した身体を抱き締めてみても、なにも変わらない。


 どうしよう、どうしよう、オリヴィエが……!


 イレーヌの頭を支配するのは、血まみれのオリヴィエ。あの時とは状況が違うと分かっていても、どうしようもない。

 大粒の涙があふれて、イレーヌの頬を濡らした。

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