ラブコメを書きたい
チャプタ
第一話:ラブコメが書きたい、けど書けない
「……だから、違うんだって!」
日曜日の午前十時。俺、日野航(ひの わたる)は、自室のPCモニターに映る真っ白なテキストエディタに向かい、誰にともなく叫んでいた。季節は初夏。窓から差し込む日差しは柔らかいが、俺の心模様は鉛色の曇天だ。
『「もう、航くんったら!」弥生(やよい)はそう言って、頬を膨らませた。夕暮れの教室で見るその仕草が妙に色っぽくて、俺は思わず唾を飲み込む。』
……ダメだ。なんだこれ。陳腐すぎる。テンプレにもほどがある。
書いたばかりの一文を、Backspaceキー長押しで跡形もなく消し去る。再び広がる虚しい白。この一時間、一体何度この作業を繰り返しただろうか。進捗は、実質ゼロ行だ。
俺は高校二年生。部活にもバイトにも縁がなく、かといって勉学に打ち込むわけでもない、ごく平凡な男子高校生……と、言えれば楽なのだが。一つだけ、人にはあまり言えない野望を抱いている。
小説家になりたい。
それも、ただの小説家じゃない。読んだ人が思わず顔を赤らめ、胸を高鳴らせ、時には切なさで涙するような……そう、『ラブコメ』作家に。
きっかけは中学の頃に読んだ一冊のライトノベルだった。主人公とヒロインの不器用で甘酸っぱいやり取り、もどかしいすれ違い、そして迎える最高のハッピーエンド。読み終えた時、柄にもなく感動し、しばらく胸のドキドキが収まらなかった。まるで自分が物語の中にいたような、そんな錯覚さえ覚えたのだ。
それ以来、俺はラブコメという沼にどっぷり浸かった。漫画、アニメ、もちろんライトノベルも。古今東西の名作からネット小説の話題作まで、片っ端から読み漁った。
そして、いつしか思うようになった。「俺も、こんな物語を書いてみたい」と。
誰かをキュンとさせたい。読んだ人が幸せな気持ちになれるような、最高のラブコメをこの手で生み出してみたい。
……と、まあ、志だけは無駄に高いのだが、現実は甘くない。
最大にして、致命的な問題が一つ。
俺には、恋愛経験というものが、生まれてこの方、まるっきりないのだ。
女子とまともに話した記憶なんて、クラス委員としての連絡事項の伝達くらい。手を繋いだこともなければ、デートなんてもちろん未経験。告白されたことも、したこともない。悲しいかな、これが十七年間生きてきた俺のリアルだ。
こんな俺に、ラブコメが書けるのだろうか?
頭の中では、理想のヒロインたちが駆け巡る。ツンデレだけど根は優しい幼馴染。クールビューティーだけど俺にだけ甘えるクラスメイト。天然ドジっ子だけどいつも一生懸命な後輩。ミステリアスで大人っぽい先輩……。
設定だけなら無限に湧いてくる。だが、いざ彼女たちに「リアルな」言葉を喋らせようとすると、途端に筆が止まる。
「可愛い」って、具体的にどういうことなんだ?
女の子が頬を膨らませる時、本当に「もう、〇〇くんったら!」なんて言うのか?
不意に距離が近づいた時、男の反応は「唾を飲み込む」一択なのか?
そもそも、男女が二人きりになったら、どんな会話をするのが自然なんだ?
分からない。何もかもが分からない。
俺の書くセリフは、どこかで読んだ借り物の言葉ばかり。行動は、ステレオタイプなテンプレの焼き直し。そこには生身の人間の感情の機微も、リアルな空気感も存在しない。ただただ薄っぺらく、空々しいだけだ。
「はぁ……」
深いため息が漏れる。椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。真っ白な天井が、まるで俺の才能の無さを映しているようで、さらに気分が沈む。
「なんで俺、ラブコメなんて書きたいんだろうな……」
ぽつりと呟いた言葉は、部屋の空気に吸い込まれて消えた。
読んだ時の感動? 誰かを幸せにしたい?
それも嘘じゃない。でも、もっと根深い理由がある気がする。
もしかしたら俺は、自分にないもの――恋愛というキラキラして見える世界への、手の届かない憧れを、せめて創作の世界で味わいたいだけなのかもしれない。自己満足のために。
だとしたら、あまりにも不純じゃないか?
そんな気持ちで、本当に人の心を打つ物語が書けるのか?
ぐるぐると、同じ思考が堂々巡りする。こういう時、俺は決まって現実逃避に走る。
ブラウザを立ち上げ、「小説家になろう」のブックマークを開く。お気に入りのラブコメの新着をチェック。……更新はない。仕方なく、日間ランキングのラブコメジャンルを眺める。
『クールな生徒会長(実はポンコツ)が、地味な俺にだけデレてくる件』
『転生したら悪役令嬢の取り巻きAだったけど、なぜか隣国の王子様に溺愛されています』
『隣の席のギャルが、放課後だけ俺の彼女(仮)になる話』
……すごいな。タイトルだけで引き込まれる。内容も、きっと面白いんだろう。レビュー欄は読者の熱狂的なコメントで埋め尽くされている。
「ヒロイン可愛すぎ!」「毎話ニヤニヤが止まらん!」「更新はよ!」
羨ましい。作者はどうやってこんな魅力的なキャラやストーリーを生み出すんだろう。彼らも俺みたいに悩むのだろうか。それとも、才能という名の泉からアイデアが無限に湧き出てくるのだろうか。
(……いや、きっと、才能なんだろうな)
そう結論付けるのが一番楽だ。自分には才能がない。だから書けない。仕方ない。
でも、本当にそれでいいのか?
諦めたら、そこで試合終了だぞ――誰だったか、そんなことを言っていた気がする。安西先生? いや、それはバスケの話か。
「……くそっ」
諦めたくない。諦められるわけがない。
だって、書きたいんだ。どうしても。
俺は再びテキストエディタに向き直った。
白い画面。点滅するカーソル。
まるで「さあ、何を書く?」と問いかけられているようだ。
「……よし。まずは、プロットから見直そう」
気合を入れ直し、別ファイルに保存していたプロットを開く。
タイトル(仮):『年上お姉さんとの甘々デイズ』
……うん、タイトルからしてダサい。まあ、これは後回しだ。
主人公:平凡な高校生、俺(航)。
ヒロイン:近所に住む、ミステリアスな年上のお姉さん、弥生さん(仮)。年齢は……大学生くらい? 20歳前後か。
出会い:雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す。
展開:主人公はヒロインに淡い恋心を抱くが、年齢差や掴みどころのない性格に戸惑う。一方、ヒロインも主人公の純粋さに惹かれ始めるが、年下相手であることに葛藤。様々なラブコメ的イベント(お祭り、看病、勉強会など)を経て距離は縮まるが、ライバル(主人公の同級生女子? ヒロインの元カレ?)の登場やすれ違いがあり……。
結末:紆余曲折を経て、二人は結ばれる。ハッピーエンド。
……改めて見ると、酷いな。あまりにも王道をなぞりすぎている。オリジナリティの欠片もない。それに、一番の問題は、このプロットのどの部分も、具体的にどう書けばいいのか全く想像できないことだ。
例えば、「雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す」シーン。
どんな会話をする?
「あの、よかったら入りませんか?」
「え? あ、ありがとうございます!」
……これだけ? これだけで恋が始まるか? もっと何か、特別な瞬間が必要じゃないか? 例えば、傘を持つヒロインの指が綺麗だったとか、雨に濡れた髪が色っぽかったとか……?
「うーん……」
唸りながら、ネットで「ラブコメ 感動 出会いシーン」と検索してみる。出てくるのは有名作品の名場面集や分析記事ばかり。参考にはなっても、そのまま真似はできない。
「第一、俺、年上の女性とまともに話したことないし……」
どんな話し方をするんだろう。何に興味があるんだろう。年下の男の子を、どう思っているんだろう。全く想像がつかない。俺の周りにいるのは同級生か、妹くらいだ。彼女たちを参考にしても、弥生さん(仮)のキャラには結びつかない。
「はあ……やっぱり、取材が必要なのか……?」
ラブコメ作家のエッセイには「人間観察が大事」とか「実際にデートスポットに行ってみる」とか書いてある。でも、俺が一人でデートスポットに行ったところで何が分かる? カップルをジロジロ見てたら不審者扱いされるのがオチだ。
それに、「年上の女性に取材」ってどうすればいい? いきなり街中で「すみません、年下の男にドキッとする瞬間は?」なんて聞けるはずがない。確実に通報される。
「詰んだ……完全に詰んでる……」
机に突っ伏す。ひんやりとした天板が火照った額に心地いい。もう諦めてファンタジーでも書こうか。剣と魔法の世界なら恋愛経験は関係ない……いや、ファンタジーにもラブ要素は必須か。異世界転生チーレム? それこそ、ヒロインたちの心理描写が必要になる。
結局、どのジャンルを書くにしても、人間を描くことから逃れられないのだ。そして、その「人間」を描くための引き出しが、俺には圧倒的に足りていない。
「航ー! お昼ご飯できたわよー!」
階下から母さんの声が響く。時計を見れば、もう十二時半過ぎ。午前中は一行も進まなかった。いや、むしろマイナスだ。自己嫌悪で精神力を削られただけだった。
「……はい、いま行く」
重い腰を上げ、部屋を出る。階段を下りながら、午後はどうしようか考える。このまま部屋に籠っても進展は望めない。気分転換に、外に出るべきか。
リビングに入ると、テーブルにはすでに昼食が並んでいた。今日のメニューはオムライス。ケチャップで歪んだスマイルマーク付きだ。妹の中学生・美咲(みさき)が、スマホをいじりながらすでに席についている。
「お兄ちゃん、また部屋で唸ってたでしょ。うるさいんだけど」
「う、うるさいな。別に唸ってない」
「ふーん。どうせまた、しょーもない小説でも書いてたんでしょ?」
「しょーもないとはなんだ!」
「だって、この前こっそり読んだけど意味わかんないもん。女の子がいきなり怒ったり照れたり、情緒不安定すぎ」
ぐっ……! 的確すぎる指摘に言葉を失う。こっそり読むなよ、とは思うが、反論できない自分が情けない。
「まあまあ、二人とも。喧嘩しないの」
母さんが、俺の分のオムライスを置きながら言う。
「航も、たまには外に出たら? 今日、天気もいいんだし」
「……うん、まあ、そうしようかなとは思ってるけど」
「あら、そうなの? デート?」
母さんがニヤニヤしながら聞いてくる。こういう時、うちの母はやけに勘がいい……というか、単に息子の恋愛事情に興味津々なだけだ。
「違うよ! そんな相手いないって、いつも言ってるだろ!」
思わず声が大きくなる。
「はいはい、分かってますよーだ。でも、いつまでもそんなんじゃ彼女できないわよ? 美咲にだって、もうすぐ彼氏ができるかもしれないのに」
「はあ!? できるわけないじゃん、こんなガサツなやつに!」
「ちょっと、お兄ちゃん!?」
再び始まる兄妹喧嘩。母さんはそれを楽しそうに見ている。
……これが、俺の日常。ラブコメの主人公が送るような、華やかでドキドキするイベントなんてどこにもない。あるのは、進まない執筆と、家族からのからかいだけ。
(……やっぱり、俺とラブコメの世界は、あまりにもかけ離れている)
ため息をつきながら、オムライスを口に運ぶ。ケチャップの甘酸っぱさが、妙に心に染みた。
***
昼食後、自室に戻る気にもなれず、かといって家にいても落ち着かず、結局あてもなく外に出ることにした。
行き先は……まあ、いつもの場所だ。駅前の大型書店。そして、その近くにある市立図書館。
何か目的があるわけじゃない。ただ、本に囲まれていると少し落ち着く。それに、もしかしたら何か発見があるかもしれない、という淡い期待もあった。ラブコメのネタになるような出来事とか……まあ、そんな都合のいいことが起こるはずもないのだが。
家を出て駅に向かう途中、スマホが震えた。メッセージの通知。相手は佐々木健太(ささき けんた)。クラスメイトで、数少ない俺の友人だ。
『おい航! 例のブツ、フラゲしたぜ! 今から駅前の書店いるけど、お前も来る?』
「例のブツ」とは、今日発売の人気ラブコメラノベの新刊だろう。健太も俺と同じラブコメ好きだが、俺とは違い、現実でもそれなりに青春を謳歌しているタイプだ。明るく社交的で、女子とも普通に話せる。正直、少し羨ましい。
『ああ、ちょうど今からそっち向かってた』
そう返し、少し歩くペースを速める。一人よりは、健太と一緒の方が気が紛れるかもしれない。
駅前の書店に着くと、入り口付近で健太が待っていた。相変わらず、少しチャラい感じの私服を着こなしている。
「よお、航! 遅かったな」
「別に遅くないだろ。それより、もう買ったのか?」
「おう! 特典SSも無事ゲットだぜ!」
健太は嬉しそうにビニール袋に入った新刊を掲げてみせた。表紙には、金髪ツインテールのいかにもなツンデレヒロイン。
「……やっぱ、王道は強いな」
「だろ? この作家さん、マジで分かってるんだよな。ヒロインの可愛さの描き方が神がかってる」
健太は熱っぽく語り始めたが、俺の耳にはあまり入ってこない。羨ましさ、劣等感、焦燥感がごちゃ混ぜになった複雑な気持ちが胸の中で渦巻く。
「で、お前の方はどうなんだよ? 例の『ラブコメ執筆計画』は進んでるのか?」
健太は、俺の夢を知る数少ない人物の一人だ。からかい半分、応援半分といったところか。
「……まあ、ぼちぼちだ」
嘘をついた。一行も進んでいないなんて、言えるはずもない。
「ふーん? また行き詰まってんじゃねえの?」
健太は俺の表情から何かを察したようだ。
「お前さあ、いっつも頭でっかちに考えすぎなんだよ。もっとこう、ノリと勢いで書けばいいんだって」
「それができたら苦労しない」
「じゃあさ、いっそ現実で彼女作れば? そしたらネタなんていくらでも転がり込んでくるぜ?」
「だーかーらー! それができないから困ってんだろ!」
また大きな声を出してしまった。周りの客がちらりとこちらを見る。
「……わりぃ」
「いや、まあ、お前の気持ちも分からんでもないけどさ」
健太は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「でもマジで、少しは現実の女子にも目を向けた方がいいって。例えばほら、あそことか」
健太が顎で示した先には、文庫コーナーで熱心に本を選ぶ女子高生二人組がいた。他校の制服だ。
「どっちか声かけてみろよ。練習だって」
「……無理に決まってるだろ!」
「だよなあ。まあ、お前にそれを期待する方が間違ってるか」
健太はあっさり諦めたように言った。
「でもさ、お前、本当にもったいないと思うぜ? 意外と、お前のこと気になってる女子とか、いるかもしんねえじゃん」
「……いるわけないだろ、そんな都合のいい話」
俺は自嘲気味に呟いた。ラブコメじゃあるまいし。
その後、俺たちはしばらく店内をぶらついた。健太は他の新刊ラノベや漫画を物色し、俺はその隣で、ぼんやりと棚を眺めるだけ。健太が時折、「なあ、この前の合コンでさー」とか「最近、クラスの〇〇さんがさー」とか、俺には眩しすぎる現実の恋愛エピソード(多少盛られている可能性大)を話してくるが、適当な相槌を打つことしかできなかった。
(こいつはこうやって現実で経験を積んで、それをラブコメを読む解像度にも繋げてるんだろうな……。それに比べて俺は……)
インプットばかりで、アウトプットができない。知識だけ増えて、それを自分の言葉で表現できない。まるで、使い方の分からない道具ばかり溜め込んでいるようだ。
「じゃ、俺そろそろ帰って新刊読むわ」
一通り見終えた健太が言った。
「お前どうする? このまま図書館でも行くのか?」
「……ああ、そのつもりだ」
「そっか。まあ、頑張れよ。もし書けたら、一番に読ませろよな」
「……気が向いたらな」
「へへ、楽しみにしてるぜ」
健太はそう言って、軽い足取りで去っていった。一人取り残された俺は、深い溜息をつく。友人との会話でさえ、こうも疲れるとは。
(……ダメだ。このままじゃ、本当に何も書けないまま終わる)
何かを変えなければ。
そう強く思い、俺は足早に書店を後にし、すぐ近くの市立図書館へと向かった。
***
市立図書館は、比較的新しく、ガラス張りの壁が開放的だ。広々とした館内は静かで、本の匂いに満ちている。俺のお気に入りの場所の一つだ。
いつものように、窓際の閲覧席に陣取る。周囲には、俺と同じように勉強や読書に励む人たち。その静謐な空気が、ささくれだった心を少し落ち着かせてくれる。
ノートPCを開き、再びテキストエディタと向き合う。
白い画面。点滅するカーソル。
さっきと何も変わらない光景。
(……よし。今日は、とにかく何か一つ、具体的なシーンを書こう)
プロットの冒頭、「雨の日、バス停で傘を忘れた主人公に、ヒロインが傘を差し出す」シーン。これを今日中に形にする。それが目標だ。
まずは状況設定。
季節は梅雨時。放課後。主人公の航は、部活帰りか何かで帰りが遅くなった。空はどんより曇り、今にも降り出しそうだ。バス停に着いた途端、大粒の雨。折り畳み傘は……ない。天気予報を見忘れた、というありがちな理由で。
バス停の屋根は、横殴りの雨を防ぐには心許ない。航は鞄を庇い雨宿り。バスはなかなか来ない。雨は強まるばかり。心細さが募る。
(……ここまではいい。問題はここからだ)
ヒロイン、弥生さん(仮)の登場。
どう現れる? 最初からバス停にいた? いや、後から来る方がドラマチックか。
綺麗な水色の傘を差し、バス停にやってくる。濡れたアスファルトに、彼女の足音が近づく。航が気配に気づき顔を上げる。
そこで弥生さん(仮)が航に気づく。制服が濡れ、困った顔をしている航。
弥生さん(仮)は、少し逡巡……いや、ここは自然に声をかける方がいいか? 年上の余裕、みたいな感じで。
「あの……大丈夫ですか? すごい雨ですね」
少し高めで、柔らかい響きの声。航は不意に声をかけられ驚く。
目の前には、綺麗な傘を差した見慣れない女性。年は二十歳くらいか。落ち着いた雰囲気で、優しい目をしている。
「え……あ、はい。大丈夫です。ちょっと油断してて……」
航はしどろもどろに答える。
「よかったら、傘、入りますか? バス、まだ来そうにないですし」
弥生さん(仮)はにっこり微笑み、自分の傘を少し航の方へ傾ける。
「えっ、い、いいんですか!? すみません、ありがとうございます!」
航は恐縮しつつ、傘の中へ。
二人の距離がぐっと近づく。ふわりと、シャンプーのような甘く清潔な香りがした。航は緊張で体が硬くなる。
(……よしよし、なんか、それっぽくなってきたぞ?)
自分で書いていて、少しドキドキしてきた。これはいい兆候かもしれない。
傘の中での会話。何を話す? 天気? 学校?
いや、もっと二人の関係が進むような会話が必要だ。
「あの、俺、この近くの高校に通ってる、日野航って言います。助かりました」
まずは自己紹介。
「ふふ、ご丁寧にどうも。私は桜井弥生。この辺に住んでるの」
ヒロインの名前は桜井弥生に決定。春のイメージ。いいね。
「桜井……弥生さん、ですか。綺麗な名前ですね」
「あら、ありがとう。航くん、だっけ? 面白い名前ね」
「はあ……よく言われます」
……ダメだ。ぎこちない。もっと自然な流れは?
例えば、航の鞄から何かが見えていて、それを弥生さんが指摘するとか?
航の鞄から、ラノベが少し覗いている。それを見た弥生さんが、
「あら、航くんも本が好きなの?」
と話しかける。
「え? あ、はい。まあ、小説とか……」
「へえ、どんなの読むの?」
「えっと……ラブコメとか、です」
少し恥ずかしそうに答える航。
「ラブコメ! いいわね、私も結構好きよ」
「え、本当ですか!?」
意外な共通点に、航の目が輝く。
「ええ。最近だと、〇〇先生の新作とか面白かったわ」
「あ、俺も読みました! あのヒロイン最高ですよね!」
「分かる! ちょっとツンとしてるけど、デレた時の破壊力が……」
……うん、これだ! これなら自然に会話が弾むし、二人の距離も縮まる。共通の趣味を通じて親近感を覚える。ラブコメの王道展開!
興奮しながらキーボードを叩く指が速くなる。
雨音をBGMに、傘の中で弾む会話。時折、風で傘が揺れて二人の肩が触れ合う。その度に航はドキッとして、弥生さんは少し意地悪そうに微笑む。バスが来るまでの短い、けれど二人にとっては忘れられない特別な時間。
そして、バスがやってくる。
「あ、バス来ましたね」
「本当だ。じゃあ、私はここで」
「あ、あの! 傘、ありがとうございました! これ、お礼というか……連絡先とか、教えてもらえませんか?」
航は思い切って切り出す。
弥生さんは少し驚いた顔をするが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「ふふ、いいわよ。じゃあ……」
……よし! いいぞ! ここで連絡先を交換して、二人の関係が始まる!
完璧じゃないか! これなら読者もキュンとするはず!
高揚感とともに、一気に書き上げたシーンを読み返す。
………。
………。
………あれ?
なんだろう、この……既視感(デジャヴュ)。
自分で書いたはずなのに、どこかで読んだような感覚。
雨のバス停、傘、共通の趣味、連絡先交換……。あまりにも都合が良すぎる。あまりにも、テンプレすぎる。
さっきまでの高揚感が急速にしぼんでいく。
結局、俺が書けるのは、こういう「どこかで見た」展開だけなのか?
ここには、俺自身の言葉も感情も入っていない。ただ、ラブコメのお約束をなぞっただけだ。
「……はぁ」
また深いため息。椅子に深くもたれかかり、窓の外を見る。いつの間にか空は明るさを取り戻し、西の空がオレンジ色に染まり始めている。もうすぐ閉館時間だ。
(結局、今日もダメだったか……)
自己嫌悪と無力感が、再び胸に広がる。
書けない。どうやっても、リアルなラブコメが書けない。
俺には才能がないのか。
いや、それ以前に、経験が、圧倒的に足りないんだ。
(経験、か……)
どうすれば積める?
健太みたいに、現実で積極的に行動する?
……無理だ。俺にそんな勇気はない。
じゃあ、どうする?
このまま、書けない自分を嘆き続けるのか?
それとも、もう諦めるのか?
諦める……?
いや、絶対に嫌だ。
(書きたいんだ……どうしても)
心の底から、その思いが湧き上がる。
たとえ今は書けなくても。才能がなくても。それでも、俺はラブコメを書きたい。
読んだ人が、少しでも幸せな気持ちになれるような物語を。
(……書けないなら、書けるようになればいい)
そうだ。単純なことじゃないか。
才能がないなら、努力で補う。
経験がないなら、これから積む。
どうやって?
……分からない。具体的な方法は、まだ分からない。
でも、諦めずに足掻き続けるしかないんだ。
まずはインプットだ。もっと色々なものを見て、聞いて、感じよう。
小説や漫画だけじゃない。映画も、音楽も、街行く人々の会話も。日常の中にだって、きっとヒントは隠されているはずだ。アンテナを高く張って、些細なことでも見逃さないようにしよう。
そして、人間観察だ。
不審者にならない程度に、周りの人の表情や仕草、会話を観察してみる。人はどんな時に笑い、怒り、そして……恋に落ちるのか。
(すぐに結果は出ないかもしれない。でも、続ければ、きっと何か変わる)
自分に言い聞かせるように呟いた。
そうだ。俺が書く小説の主人公だって、きっと同じように悩んで、それでも前に進むはずだ。作者である俺が、ここで立ち止まっていてどうする。
「……よし」
顔を上げ、PCの電源を落とす。結局、今日も成果はゼロだったが、さっきまでとは少し違う気持ちになっていた。絶望ではなく、ほんの少しの決意のようなものが、胸の内に灯っていた。
閉館を告げるアナウンスが、静かな館内に響く。
荷物をまとめ、席を立つ。
帰り支度を済ませ、図書館の出口へ向かう。
夕暮れ時の館内は、昼間とは違う落ち着いた雰囲気に包まれている。
ふと、視界の端に、窓際の席で静かに本を読む女性の姿が映った。
年は……二十代前半くらいか。落ち着いた色のカーディガンを羽織り、少し長めの髪を緩くまとめている。夕陽に照らされた横顔が、綺麗に見えた。手には少し厚めのハードカバー。文学作品だろうか。
(……綺麗な人だな)
一瞬、そう思った。
けれど、今の俺の頭の中は、自分の悩みとこれからの決意でいっぱいだった。その女性の姿は、すぐに意識の外へと消えていった。ラブコメの主人公なら、ここで何か運命的なことが起こるのかもしれないが、現実はそんなに甘くない。
俺はそのまま何も気に留めず、図書館の自動ドアを抜けた。
外に出ると、雨上がりのひんやりとした空気が心地いい。空には、まだ淡いオレンジ色が残っている。
帰り道、俺は今日の出来事を反芻していた。
健太との会話。書けなかった小説。そして、図書館での決意。
(ラブコメみたいな都合のいい展開なんて、現実にあるわけない)
分かっている。百も承知だ。
俺の日常は、これからもきっと退屈で平凡なまま過ぎていくのだろう。
(でも……)
もし、ほんの少しでも、そんな奇跡が起こる可能性がゼロではないとしたら?
もし、この退屈な日常の中に、物語の欠片が隠されているとしたら?
(……いや)
今は、そんな期待をするべきじゃない。
まずは、書くんだ。
自分の力で。自分の言葉で。
たとえ拙くても、時間がかかっても。
俺だけの、最高のラブコメを。
夕暮れの道を歩きながら、俺はまだ見ぬ物語へ思いを馳せていた。
その第一歩が、どれだけ険しいものになるのか、まだ想像もできずに。
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