第10話 駄菓子屋の夢(後編)

 美術準備室で見た、あの絵。


 家に帰ると、私はすぐに机の引き出しを開けた。

 大事にしまっていた、ミサキちゃんからもらった写真。

 スマホに収めたあの絵と、並べて見比べる。


(――同じだ)


 間違いない。

 あの絵は、ミサキちゃんのアルバムにあった、鳥の巣の絵だった。


 次の日の朝。

 私は、授業が始まる前の職員室に駆け込んでいた。


「先生、あの、美術準備室にある――鳥の巣みたいな絵、あれって……なんなんですか?」


 近藤先生は、新聞をたたみながら顔を上げた。


「おう、秋吉か。朝っぱらから元気やな」


「すみません……でも、どうしても、気になって」


 私が息を弾ませながら言うと、先生は椅子にもたれかかりながら、少し笑った。


「あれはな、西別府病院から預かっとるんだ」


「……西別府病院?」


「ああ。あれは、昔、うちの生徒が描いた絵でな。

 病院のほうに寄贈したやつや。

 今度あそこ、建て替えするらしくてな。で、絵も移動させるんで、ちょっと修理できんかって、頼まれたんや」


「修理……」


「まあ、寄贈したのはうちやけど、描いた生徒も、もうとっくに卒業しとるしな。

 プロみたいに直せるわけでもないから、一応“できる範囲でよければ”って、引き受けとる。

 ……大切にしとる絵らしいからな」


 先生は、そう言って椅子をぎしりと鳴らした。


「秋吉。なんで急に、あれが気になったんや?」


「……いえ。ちょっと、見覚えがあったので」


 私は小さく頭を下げた。


「そうか。ま、また何か気になることあったら、言うてこい」


「はい。ありがとうございます」


 職員室を出ると、私は胸の中に小さな灯りがともるのを感じた。


(――西別府病院)


 ミサキちゃんが――

 あの絵と、まだどこかでつながっている気がする。


 少し調べてみると、十二年ほど前に

「別府アートプロジェクト」というイベントがあったことを知った。


 福祉とアートをつなぐ試みで、

 うちの高校のボランティア部も関わっていたという。


 そして、あの絵は、

 その活動の中で西別府病院に寄贈されたものだった。


 ――もう、何もないと思ってた。


 でも。


 まだ、

 小さな手がかりは、ちゃんと残っていた。



 次の土曜日。

 私は、ひとりでバスに乗った。


 西別府病院へ行くのは、初めてだった。

 車窓から流れる景色が、だんだんと緑から青い海、そして白い町に変わっていく。

 別府の山裾にひしめく住宅街を抜け、小高い丘を登っていくと、

 遠くに白い建物が見えてきた。


(……ここなんだ)


 絵の手がかりだけでここまで来てしまった。

 一瞬のためらいを押し込めて、私はバスを降りた。

 

 病院の正面玄関には、「別館建て替え工事予定」の張り紙が出ていた。


 受付のカウンターで、スマホの写真をみせながら、

 私は少し緊張しながら声をかけた。


「あの……すみません。

 こちらに、昔寄贈されたこの絵のことで、少しお話を聞きたくて」


 受付の人は驚いた顔をして、それから穏やかに微笑んだ。


「少々お待ちください」


 奥へと消えていったスタッフさんの後ろ姿を見送りながら、

 私は胸のあたりをぎゅっと押さえた。


(こんなふうに……来ちゃってよかったのかな)


 そんな不安と、

 それでも「知りたい」という気持ちが、心の中で静かにせめぎあっていた。


 やがて、事務局の女性が出てきた。

 落ち着いた紺色の制服を着た、優しそうな人だった。


「お待たせしました。

 絵のことで……ですね。

 よろしければ、こちらへどうぞ」


 案内されたのは、ガラス張りの中庭に面した、小さな談話スペースだった。


 テーブルを挟んで向かい合うと、女性はにこやかに尋ねた。


「実は、あの絵、私たちもとても大切にしていて。

 今度、建て替えにあたっても、どうしても持っていきたいと思っているんです。

 高田高校の方が興味を持ってくださって、嬉しいです」


「はい。私、高田高校の美術部員で、あの絵について、詳しく知りたくて……」


「あぁ、美術部員さんでしたか」


 何か騙しているみたいで、少し胸が痛んだけれど――嘘は言ってない、と自分に言い聞かせた。


「あの……あの絵って、どこに飾ってあったんですか?」


「あれは、十年以上前に寄贈いただいてから、入院患者さんのいらっしゃる別館のロビーにずっと飾っていました」


「今度、建て替える別館ですね」


「はい。良ければ、当時の資料、何か残っていたと思うので、ちょっと探してきますね」


「ありがとうございます」


 女性は、書棚に向かい、丁寧に資料を探しはじめた。


 私はテーブルの上に手を組みながら、じっと待つ。

 けれど、頭の中では、ぐるぐると言葉を探していた。


(……ミサキちゃんのこと、どうやって聞こう)


 急に心細くなって、胸がぎゅっと縮まる。

 でも――もう、ここまで来た。

 正直に、伝えるしかない。


 やがて、女性が小さな声で「……ありました」とつぶやき、コピーを手に戻ってきた。


「当時の院内新聞に載ってました。よろしければ、どうぞ」


 渡されたコピーを両手で受け取る。


 十二年前。

 白いロビーの壁にかけられた大きな絵。

 その前で撮られた、入院患者さんたちと美術部員・ボランティア部員の集合写真。


 その中に――いた。


 私は、思わず息を呑んだ。


 少し短めのボブカット。

 思っていたよりも、ほっそりとした体。

 ピンク色の入院着を着た、あのミサキちゃん。


 震える指で、そっと写真に触れる。


「あの、私……」


 小さな声で口を開く。


「高田高校の美術部員なんですけど、この絵と、縁があって……」


「はぁ」


「ここに写っている女の子。ミサキちゃんのお家で、前にこの絵の写真を見せてもらったんです。

 素敵な絵だな、って思って……」


「そうだったんですね」


「でも、そのあと、ミサキちゃんが……知らないうちに引っ越してしまって。

 ちゃんとお礼も言えなくて。

 この子が、今どこにいるか……ご存知ないでしょうか」


 精一杯、丁寧に伝えたつもりだった。

 けれど、女性は、少し困ったような顔をして、首を横に振った。


「……うーん、そうですね。

 でも、病院では、患者さんのことはお話しできないことになっているんです。

 ごめんなさいね」


「……はい。

 いえ、こちらこそ、無理なことをお願いしてしまって」


「あ、いえ……。

 絵のことなら、何かわかる範囲でお答えできるので、何でも聞いてくださいね」


 私は、深く頭を下げた。


 これ以上は、聞いちゃいけない。


 胸にそっと手を当てながら、私は談話スペースを後にした。


 あの絵が飾られてる別館に行って、どんな場所か本当は見てみたかった。

 でも、入院患者さんがいる棟に、勝手に立ち入れるはずもない。


(ここに……ミサキちゃんがいたんだ)


 いつまで、ここにいたんだろう。

 どこへ、行ったんだろう。


 途方に暮れて、中庭の日陰に腰を下ろした。


 売店で買ったラムネを、ひと粒、口に運ぶ。

 甘い、優しい味がした。


 来週からは、もう夏休みだ。

 日差しもだいぶ厳しい。

 こんなところでぼんやりしているわけにもいかない。


 そう思ったとき――


「……あの。ごめんなさい、声をかけちゃって」


 ふいに、背後から女性に声をかけられた。

 驚いて振り返ると、四十代くらいの、やさしそうな人だった。


「あ、いえ……」


「もし違ってたらごめんなさい。……ミサキちゃんのお友達の、ユリちゃん?」


 私は、目を丸くして固まった。


(……どうして、私の名前を?)


 ゾクッとするくらいの衝撃だった。


「……はい。どうして、知ってるんですか?」


「ああ、よかった。なんとなく、面影がある気がして」


 女性は、にっこり笑ったあと、スマホを取り出して、画面を探りはじめた。


「ちょっと待ってね。……これ、あなたじゃない?」


 差し出されたスマホには――

 駄菓子屋の前で、ミサキちゃんと並んで笑っている、小さな私が映っていた。


(……これ、私だ)


 お気に入りの少しだけきちんとした服を着た、幼いころの私。


「この写真、ミサキちゃんが、私にくれたの。退院するときに」


「そう……だったんですね」


「それに――」


 女性が、私の手元を指さした。


「それ、持ってたでしょう? そのラムネ」


 ラムネの細長い容器。

 たしかに、写真の中の幼い私も、同じものを握っていた。


「……昔から、好きだったんだね」


 女性の声は、どこか懐かしそうだった。


「あ……はい」


 胸の奥が、きゅうっとしてくる。


「もしかして、あなたも、どこか悪いの?」


「いえ、私は……」


「私はもう、ここに通うのが当たり前になっちゃって。

 入退院の繰り返しだけど、まぁ、しょうがないのよね」


「それは……大変ですね」


 言葉がうまく続かなかった。


「ミサキちゃんにも、よく言われたのよ。

 また会ったね、って」


 女性は、思い出すように目を細めた。


「あの子、すごく元気なときと、とても静かなときがあってね。

 “今日はエネルギー切れだから、ラムネで充電するの”って、よく言ってたな」


「ラムネで、充電……」


 私は、手の中のラムネを見つめた。


「そうそう。

 ユリちゃんと駄菓子屋に行った話も、よくしてたわ」


 女性は、私を見てやさしく微笑んだ。


「ほら、この写真。ミサキちゃん、ちょっとおしゃれしてるでしょう?

 エメラルドグリーンのワンピースに、白いブラウス。

 いつもは入院着ばっかりだったから、ちゃんと可愛い服で写真撮ったの、

 “これで覚えててください”って、私にくれたの。

 ユリちゃんも、小さくて、すごく可愛い」


 女性は、懐かしむように、そして愛おしそうに、写真を眺めた。


「あ……ごめんなさい。

 なんだか勝手に、ユリちゃん、なんて……」


「いえ。大丈夫です」


 私は、首を振った。


 なんだろう。

 初対面なのに、懐かしい気持ちになる。


「名前、言ってなかったわね。

 私、ナカムラミヨっていいます」


「ミヨさん……。初めまして」


 ミサキちゃんの話ができる人に、こんなふうに出会えるなんて。

 気持ちがふわっとあたたかくなる。


「あの、ミヨさん。……ミサキちゃん、今、どうしているか、ご存知ですか?」


 思わず、前のめりになって尋ねた。


「え……」


「あっ、ごめんなさい。知ってるものと思って……」


 ミヨさんは、少しだけ間を置いてから、優しい目で私を見つめた。


「ユリちゃん、落ち着いて聞いてね」


「……はい」


「ミサキちゃん、亡くなったのよ。

 十年くらい前、この病院で」



 世界の音が、一瞬、すべて消えた。


 あんなに元気だったミサキちゃんが――?


 病院に来て、入院着のミサキちゃんを見たときから、

 ほんの少しだけ、不安はあった。


 でも、でも――


(会えるかもしれない)


 そう信じてた。


 なのに。


 もう、あの笑顔に、会えない。


 膝がふらりと力を失いそうになる。


 ミヨさんは慌てて、私を涼しい場所へ連れて行き、

 そっとペットボトルの水を手渡してくれた。


「ごめんね。驚かせちゃったね」


 私はただ、俯いて、必死で呼吸を整えた。


 心のどこかで――

 覚悟していたはずなのに。


 現実の重みは、想像よりもずっと、冷たかった。

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