水仙の泉がきみを呼ぶ

@mwmomo

第1話 水仙の泉の少女

 森の中、木漏れ日が差し込む小道を抜けると、小さな木造の小屋が現れる。周囲には色とりどりの果実の木々が並び、鮮やかな赤や黄色が緑の葉の間に点在している。この小屋には一人の少年が住んでいた。

 少年の名はエイアン。両親を早くに亡くし、以来この森で果実を育てながら一人で生活していた。

 鳥のさえずりに目を覚ましたエイアンは、窓の外に目をやった。昨夜の雨が果実の表面でキラキラと光り、その美しさに心が和む。

 エイアンは一人の生活を寂しいと感じることはなく、この森での生活に満足していた。

 毎日が少しずつ違って見える森は、彼にとっては決して飽きることのない、不思議で新しい世界だった。

 朝食を済ませると、彼は庭に広がる木々の手入れを始める。彼は果実を一本一本丁寧に観察し、「今年もよく育っているな」と微笑んだ。

 彼にとって、森はただの住まいではなく、親しい友でもあった。果実を育てることは彼の生きがいであり、この森の生活を彼は何よりも大切にしていた。


 ある日、エイアンは泉のほとりに生っている実を収穫しようと、お弁当を持って出かけた。

 朝の柔らかな陽射しの中、小さな籠を手に森の奥へと足を踏み入れた。泉までは歩いてしばらくかかるが、緑や赤、黄などの彩り豊かな道中の景色を楽しむのも、この時期ならではの贅沢だった。

 葉が風にそよぎ、木々の隙間からこぼれる光が、まるで道案内をするかのように降り注ぐ。足元には、昨夜の露を含んだ草がしっとりと湿っていた。遠くで鳥のさえずりが響き、それに応えるように小さな動物たちが木々の間を駆け抜ける。

「今年もあの柘榴はしっかり実っているかな」

 そう呟きながら、エイアンは歩を進めた。毎年この時期になると、泉のほとりで真っ赤な柘榴が実をつける。それは果実の森の中でも特に甘く、瑞々しい。

 森の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ澄んでいくのを感じる。やがて、微かに水の流れる音が聞こえ始めた。もうすぐ泉だ。エイアンは少し足を早めると、やがて視界が開け、太陽の光を受けてきらめく泉が目の前に広がった。


 泉のほとりには、柘榴の木々と少し時期の早い水仙の花々が咲いていた。ルビーのような赤色とトパーズのような黄色が泉の周りで輝いている。

 エイアンは水辺に一番近い石へ荷物を下ろした。籠いっぱいの柘榴を収穫しようと、さっそく道具を準備にとりかかる。ひとつの風が、エイアンと泉を大きくなでて水面が波紋を描いた。

 強い風に目を閉じたエイアンは、次に目を開いた瞬間、一人の少女が、泉の真ん中に立っていた。

 水仙のようにみずみずしい金色の輝きを持つ瞳に、水辺のような透き通る白い肌、優しいラベンダー色のゆるやかな髪は白い花が飾っていて、淡い薄花色の衣をはおっている。

 足元には水が広がっているはずなのに、彼女の周りだけはまるで空間そのものが違うかのように、ふわりと柔らかく光をまとっていた。

 幻でも見ているのかと見紛うほどの、この世のものではない、何か不思議な、尊いものを見ているようだった。

 エイアンは相手が不思議そうな顔をしていることに気がつく。つい、じっと見つめてしまった。

「こ、こんにちは」

 いつものエイアンより少し照れた笑顔で少女に挨拶をする。

「こんにちは。良いところね」

 コレイは静かに足を踏み出した。泉の水面をまるで風が通るように歩き、やがて水辺の草地へと降り立った。その足が草の上に触れると、小さな水滴の水晶玉がきらきらと光っては弾けていく。

 水仙の花々が静かに揺れた。白と黄色の花弁が、風にそよぐたび、甘やかな香りを運んでくる。エイアンは目の前の少女が、この泉の精霊のように思えた。

「ぼくはエイアン。この森で暮らしているんだ」

「はじめまして。わたしはコレイ。お話しできて嬉しいわ」

 鈴が鳴るような軽やかな声には、エイアンへの親しみが込められている。その優しさが伝わり、エイアンはいつもの人懐っこい笑顔を取り戻した。

 二人の間に、泉の水面がきらきらと揺れる。その周囲を囲むように咲き誇る水仙たちが、まるで二人の出会いを祝福するかのように優しく揺れていた。

「コレイ、君はどうしてこの泉に?」

 エイアンが尋ねると、コレイは微笑みながら、エイアンのそばに座った。エイアンは目の前の少女――コレイをじっと見つめた。水仙のようにみずみずしい金色の輝きを持つ瞳は底知れなく深く吸い込まれそうで、何かを訴えかけるかのような謎の引力があった。

 コレイは、少し遠くを見つめながら、そっと泉を指さし、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「この泉は、ただの水じゃないの。わたしの国と、この場所を繋ぐ、特別な場所なのよ」

「特別な場所?」

「そう。でも、わたしがここにいられるのは、昼の十二時の鐘が鳴るまでの間だけ。鐘が鳴ると、わたしはまたあちらに戻らなきゃいけないわ」

「戻るって……どこへ?」

 一瞬、何かを迷うように視線を落とし、水仙の花を優しくなでた。花びらが少女に話しかけているかのように、小さく揺れる。

「……遠い国なの。本当のわたしは、そこで…」

 口をつぐみ、言いにくそうに花びらをじっと見つめる姿から、エイアンは彼女の言葉の重みを変わってあげた。

「囚われてるんだね」

「……ええ。でも、詳しいことは言えなくて」

 コレイは言葉を濁した。けれど、エイアンにはその声が寂しそうに聞こえた。

 風がそっと吹き抜け、水仙の花が小さく揺れた。エイアンはコレイの置かれている状況、哀しみを真に理解できるものではなかった。のびのびと果実と共に自由に生きてきた自分が何を言っても、軽々しい響きにしか聞こえないだろう。エイアンは励ましよりも、何かに囚われ、自由ではない目の前の少女のために、何かできることはないかと考えた。

「君は好きなときにここには来られないの?」

 コレイは静かに笑った。

「わたしは自分の意志でここに来たわけじゃないの。囚われている場所の力が弱まるときだけ、こうして泉に姿を現すことができる。でも、それもほんのわずかな時間だけ」

 彼女は一体、どんな場所で囚われているのだろう? どうして自由になれないのか? エイアンには、知りたいことは山ほどあった。しかし、コレイの固い表情を見ると、それを無理に聞くことはできなかった。

 エイアンは強く拳を握りしめると、まっすぐ彼女を見つめた。

「自由に生きてダメな人なんていないよ。そんなのいちゃだめだよ。ぼくが君のところに会いに行くよ!」

 コレイの目が大きく見開かれる。

「え?」

「ぼくが君を探して、君が囚われてる場所まで行く。そして君を自由にする」

 コレイは一瞬驚いたようにエイアンを見つめ、それからくすりと微笑んだ。

「ふふ、そんなの簡単に言って……。わたしがどこにいるかも分からないのに?」

「それでも、ぼくは行く。やってあげるとかそんな偉そうなことではなく、ぼくがそうしたいんだ。きみを自由に生きれるようにしたい」

 エイアンの瞳には、迷いのない強い決意が宿っていた。

 その真剣な表情を見つめながら、コレイはふっと小さく息をついた。そして、そっと手を泉の水面へとかざす。すると、水の中から小さな石が浮かび上がってきた。それは、大地の裂け目のように、石の割れている隙間からトパーズのような宝石が見える、不思議な石だった。

「これを持っていて」

「これは……?」

「この石が十二時に水辺にあるとき、どの泉からでもわたしを呼ぶことができるわ」

 エイアンは慎重にその石を受け取った。手のひらに乗せると、ほんのりと温かかった。

「これがあれば、君に会えるんだね」

「ええ。でも……」

 コレイは何かを言いかけたが、遠くから微かに鐘の音が響いた。

 ——ゴーン……ゴーン……

「もう時間がきちゃったみたいね」

 エイアンが驚いて顔を上げると、コレイの姿が少しずつ薄くなっていく。

「待って! まだ話したいことが——!」

「エイアン、約束してね。あなたが本当にわたしを見つけ出せたら……そのときは」

 微笑むコレイの声が、風に乗って遠ざかる。

「……また、会えるわ」

 そして、コレイの姿は完全に消えた。まるで、はじめからそこには誰もいなかったかのように。

 エイアンはしばらく、その場に立ち尽くしていた。柘榴や水仙はいつもの光景と変わらない。胸の中に、幻を見たかのような感覚が広がっていた。しかし、手のひらには、確かに彼女からもらった石が残っていた。

 エイアンはぎゅっとその石を握りしめる。

「……よし」

 泉の水面に映る自分を見つめ、深く息を吸う。森林のように深い緑色の目には、絶対コレイを自由にしてみせる、という強い意志が宿っていた。

「行くよ、コレイ。君を助けるために……!」

 こうして、少年の冒険は幕を開けた。



 

 

 

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