第26話 父と娘

「やめろ彩佳あやか! こっちに来い!」


 裕樹ひろきの声も上ずってかすれていた。


「早く! 早く直して撃ってよ早く!」


 クマは一瞬裕樹ひろきと彩佳の間で頭を巡らせ迷う。その刹那、裕樹ひろきの隣から低く落ち着いて静かな声が聞こえてきた。いぬいの声だった。


「落ち着け。ストレスクリアだ。銃床を地面に叩きつけろ」


 我に返った裕樹ひろきが言われた通りにすると、「ガチンッ!」と音を立てて排莢され、次弾が装填される。熊はより小さく御しやすいと見た彩佳に向かってゆっくりと近づいていく。うっすらと開いた口から黄ばんだ鋭い犬歯がのぞく。口からは涎を垂らし興奮しているのがわかる。


「くっ、来るなっ、こっちくんなこいつっ、この化け物っ!」


 さっきとは逆の言葉を吐きつつ彩佳は心細い木の枝を振り回してじりじりと後ずさる。

 そこに声高いいななきと蹄の音が聞こえると、一陣のつむじ風となって彩佳の前に立ちはだかり、棹立ちになる一頭の馬の姿があった。


「エイール!」


 驚いたクマも再び立ち上がりエイールを威嚇する野太い声をあげる。静まり返った森にクマと馬の雄叫びが響き渡る。


「やめてエイール下がって!」


 エイールが前脚の蹄鉄がはめられた蹄を振り下ろそうと棹立ちになると、ツキノワグマもこの新たな敵にひるむ様子すら見せず、頭を突き出し牙を鳴らして吠え威嚇する。


「よく狙え。確実に仕留めろ。この距離ならスラグ弾で充分だ。心配はいらない」


 乾はエイールとクマから目を離さず、裕樹ひろきのすぐ隣で膝撃ちの姿勢を取る。裕樹ひろきは息を荒くして、なかなか照準が定まらない。


「俺がフォローするから心配するな。お前の家族だ。お前が守らなくてどうする」


 乾の低い落ち着いた声に裕樹ひろきも冷静さを取り戻す。真剣な顔で立ち、改めて銃を構える。


「うぉーっ!」


 ツキノワグマが彩佳に向かって左腕を振り上げた瞬間、またけたたましい銃声が聞こえた。一発目でまず倒すべき脅威は裕樹ひろきであったと気付いたクマが立ったままそちらの方を向く。二発目が首根っこの分厚い皮膚と脂肪を貫通して喉の骨に食い込む。三発目は正確に肋骨の間をすり抜け心臓に達した。


 三発の轟音が鳴り響いた直後、いきなり力を失ってガクっと崩れ落ちるツキノワグマ。森に静けさが戻ってきた。


 乾が裕樹ひろきの銃を受け取ると彩佳は父の胸元に飛び込もうとした。が、それは裕樹ひろきに阻まれる。彩佳は裕樹ひろきに両方の二の腕をがっちりと掴まれた。


「こんな危ない真似はするな! どうなっていたか分からないんだぞ!」


 腕を痛いほど掴まれ激しくゆすぶられる彩佳。裕樹ひろきの形相は彩佳が今まで見たことがないほど恐ろしいものだった。


「だってお父さんが――」


 全てを言いきらないうちに彩佳は乱暴に抱き締められる。


「よかった…… 本当によかった……」


 その裕樹ひろきのつぶやきが彩佳の胸に響いてくる。この人は、この人は一体なんで自分の娘でもない私をここまで守ろうとするんだろう。


「どうして……」


「どうして?」


「どうして私のことなんか……」


 裕樹ひろきは抱擁を解いて彩佳の目を正面から見つめる。


「どうしてもこうしてもないだろう! 彩佳は僕の娘だ! 家族を守ろうとするのは当

前じゃないか!」


「娘…… 家族……?」


「そうだ」


「だって、だって私本当の……」


「本当のってなんだ? 嘘の家族ってあるのか? 僕が家族と言ったら家族だ。大切な僕の娘だ」


「大切……?」


「そうだ。大切な娘だ。彩佳が生まれた次の日、東京の病院で面会に行くと、保育器の中の彩佳はじっと僕のことを見つめていた。その目を見て本当にかわいいと思った。その時、僕は彩佳の家族になるって、父親になるって決めたんだ。それじゃだめだったか?」


「だめって……」


 彩佳の目が潤む。


「だめじゃ……」


 ああ、かなわないな、と彩佳は思った。この思いの強さは比べ物にならない。そう思うと彩佳はまた自分がとてもちっぽけなもののように思えてきた。だけど今度はなにかが違う。胸の奥のどこかから今までと違う温かいものがこみ上げてくる。鼻の奥がつんとする。いつの間にか彩佳は泣きじゃくって裕樹ひろきの首にしがみ付いていた。こうして彩佳の「初恋」ははかなくも散った。でも辛くはない。その代わりにもっと違う大切なものを手に入れることができたのだから。


【次回】

第27話 母と娘

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