第25話 人狩り

 もうただの不安を伴う予感ではなかった。間違いなく現実の恐怖として、彩佳あやかの胸にその存在が、岩山のようにし掛かる。

 小枝の折れる音、荒い息づかい、かすかなうなり声。暗闇で視覚の殆ど全てを奪われている彩佳に、聴覚が最大級の警報を鳴らす。激しい動悸が止まらない。全身から冷たい汗が吹き出る。


(そ、そうだ、か、風上に)


 いつだったか、獣に追われた時には相手の風下に行くと自分の臭いを気取られずに逃げやすいと聞いたことを思い出し、ガクガクと震える脚でうなり声のする方向の風下へ移動しようと足を踏み出す。


「あっ」


 だが足元の木の根か石か、何か固いものにつまづく。その拍子に汗まみれの手から、ライトを点けたままのスマホが滑り落ちる。それはどこかへと転がっていってしまいライトの灯りも見えなくなった。最悪だ。彩佳の心の中の声も震えていた。思わず声まで出てしまったし、今更もう風向きどころの話ではない。完全に自分の居場所はその存在に知られてしまった。

 彩佳の心臓がさらに鼓動を早める。ここで、こんなところで、私は熊に襲われて終わるのか。彩佳は思わず気が遠くなりそうなめまいを覚えた。


 そこに一筋の閃光が飛び込んできた。森の暗闇を切り裂いたその輝きが一瞬彩佳を照らし、そしてうなり声の主に向けられた。真っ黒い毛におおわれ、胸元に白い三日月が反射するそれは、彩佳より二回りほど大きな仁王立ちするツキノワグマだった。濡れているのか血を含んでいるのか、体毛がぬらぬらと光る。クマと彩佳の距離は十メートルもない。恐怖で息が止まる。閃光は彩佳のすぐ後ろに、電光石火の勢いで立ちはだかった。


「下がれっ! 早くっ!」


 閃光の主は義父だった。ヘッドライトを点けた裕樹ひろきは長い何かを肩に抱える。彩佳も何度か見たことがある。それは銃だった。


「早くっ!」


 父の声に従い、こけつまろびつしながらその背後へと移動する彩佳。同時に「ウォーッ、ウォーッ!」と身の毛もよだつ叫びをあげ、二本の足で立ち上がっている父と同じくらいの背丈のツキノワグマ。ライトの灯りを反射する目をギラギラと血走らせて身を乗り出し、裕樹ひろきに右腕を振り下ろそうとする。だが裕樹ひろきが引き金を引く方が早かった。がぁんっ! と鼓膜が破れそうな爆音がした。クマは右腕を振り回して一層大きな、まるで地響きのような吠え声をあげる。裕樹ひろきの放った弾丸はどうやらその右腕をかすめただけだったようだ。裕樹ひろきは息を荒げながら、ポンプアクション式の散弾銃の次発装填をしようと、焦る左手でフォアエンドを引く。


「ガチッ」


 小さな音を立ててシェルが目詰まりを起こした。ジャムだ。


「くそっ!」


 震える声でうめいた裕樹ひろきは何度もフォアエンドを引いて排莢しようとするがびくともしない。ツキノワグマはゆっくりと前脚を下ろし、四本の脚でゆっくりと裕樹に向かっていく。確たる意思を持って。


「こっちだあ!」


 上ずってかすれた叫び声がクマの右手方向から聞こえる。クマがそちらを向くとそこには彩佳がいた。


「こっちに来いこいつめっ!」


 彩佳は声と体を震わせながら、どこかで拾ったひょろひょろと頼りない木の枝を振り回して、熊を挑発する。


【次回】

第26話 父と娘 

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