第22話 克也
息を切らせて納屋に駆け込んだ
「彩佳ちゃん?」
「ひっ!」
暗い納屋のアップライトピアノの前に座っていたのは
「克也さん……」
「どうしたの? そんな息を切らして」
「え、えええ、なんでもない。そう、なんでもないんです。ちょっとジョギングを……」
章太の告白にあったことを口にするなんてできなかった。それは自分にとっての恥だと彩佳は感じていた。
「そう。あんまり無理しないでね」
「はい。ありがとうございます……」
克也はピアノをつま弾く。
「何か弾こうか。リクエストとかない?」
「えっと…… そうですね…… なんていうかこう、心が落ち着くような曲がいいです」
「うん、それなら……」
克也がピアノを弾き始める。甘く繊細な旋律が彩佳の胸に沁みる。荒かった呼吸も整い、そばにあった古ぼけたパイプ椅子に腰かけた。章太と違って、年上の克也が持つ包容力と演奏に心が安らいでいく。
「これは何ていう曲なんですか?」
どうせ曲名なんてすぐ忘れてしまうのに、つい彩佳は訊いてしまった。
「ショパンの
「いいですね! すごくいい……」
「そう。よかった」
目を閉じて曲に聴き入る彩佳に克也はささやきかける。
「……そのまま、聞いていてほしいんだけど」
「はい、“聴いて”ますよ?」
「うん、そうじゃなくてね」
「違うんですか?」
「うん、なんて言えばいいか……」
演奏しながらしばらくためらった後、克也は再び口を開いた。
「東京と盛岡だとちょっと遠いんだけど」
「ええ」
「僕と、その…… つきあってもらえないかなあって」
「え?」
彩佳には克也の言うことがすぐには理解できなかった。思考が止まった。
「無理にというわけじゃなくてね、もしよかったら、なんだけど…… だめかな?」
どうして、どうして男ってこんなことばっかり考えているんだ? 彩佳は茫然とした。
「どうして……」
「ううん、説明するのは難しいなあ。東京の子には全然ないものを持ってるんだよね。素直っていうか真っ直ぐっていうか……」
「違う」
違う、そんなことを訊いてるんじゃない。それに私は真っ直ぐでもないし、素直でもない。母親に嫉妬し義理の父に訳の分からない感情を覚えて―― そう思った刹那、彩佳の中で何かが弾けた。これが、これが“好き”という感情なのか? だとしたら私は義理とはいえ父親が好きだというのか? 24も上の父親が? 甘酸っぱい想いと、おぞましい嫌悪感で彩佳の胸はいっぱいになる。そして兄のように慕っていた克也にまで裏切られたような思いが、さらに彩佳の胸に注ぎ込まれる。溢れ出したコントロールできない感情が渦巻き、再び息が荒くなる。
「もう無理」
「えっ?」
彩佳が勢い良く立ち上がった。パイプ椅子の倒れた音が、何かが壊れたかのように大きく響いた。逃げなくては。本当に自分の心が壊れる前に。彩佳はまた全速力で駆けだした。背後から克也の声が聞こえたような気がしたが、そんなものはもう耳に入りはしなかった。
【次回】
第23話 空
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