第21話 芦原・裕樹
教師に夏休みはない。会議のレジュメを仕上げた芦原教諭は溜息を吐いて文書を保存する。
背もたれに寄りかかると、天井を眺めながら物思いに耽った。
「熊か……」
小さな声で呟くとデスクの引き出しから一冊の本を取り出す。その背にはこう書いてあった。
《
爪痕が見つかった時はよくあることだと思った。家庭ごみを路上に放置したりせず、里山を整備し熊の住まう山間部とはっきり線引きすれば、自然と熊の接近は減るだろう。だが三月に盛岡市市街、しかも駅から数百メートルの距離に熊が現れる事件が起きて、その期待は裏切られた。このままでは市街地にも常に熊がのさばる異常事態になる可能性すらある。
だが恐ろしいのはそれだけではない。芦原は本の頁を繰る。本当におぞましいのは、熊の食害だ。
熊の報道を見聞きするたび芦原の胸に冷たい風が吹く。ふた目と見られない姿となって帰ってきた父の姿が脳裏から離れない。あの時の母の様子を思い浮かべた。どうか、この熊が人狩りなどに走らないように…… とただ祈る。彼にはただ祈ることしかできなかった。
シェアトの作業棟では、若いスタッフが牧草カッターで牧草を細断する作業に従事していた。彼らを指導していた
「行方不明者が発見された」
「そうですか……」
わざわざそんなこと言いに来たからには、何か特別な理由があるに違いない。
「白骨と見紛うほど食害されていたそうだ」
予想以上の惨劇にぎょっとした
「熊だ」
「猟友会は血眼でしょうね……」
「そうだな。それと昼、熊が目撃された。ここから500メートルしかない。食害をした個体かどうかまでは確認できていないが」
「乾さんの言う通り電気柵を設置したのは正解でしたね」
「見回りを増やそう。二人一組にしてだ。電気柵を突破して厩舎が襲われる可能性もある」
「そうですね…… 考えたくもないことですが」
「現実は考えたくもないことの連続だ。もう一周電気柵を設置してもいい。銃の手入れもしておけ」
「わかってますよ」
「早速スタッフ総出で電気柵の設置に入ろう。今夜は寝られないかもしれんな」
「そうですね」
ふたりの胸の内には黒々とした暗雲が垂れ込めていた。
【次回】
第22話 克也
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