第19話 守りたいもの

 手が空いていた裕樹ひろきは、ログハウスに作った小さな練習場で、章太に稽古をつけてやった。小一時間ほど打ち込みや投げ込みをする。裕樹ひろきが仕事に戻ったあとは一人で空打ち込みをしたり受け身の練習をしたり、と余念がなかい。彩佳あやかも時々覗いてみたが、真剣な顔で打ち込む姿は確かにいつもと違っていた。

 稽古が終わってタケルにまたがった章太は、やはりどこか生真面目な表情で彩佳を見下ろしていた。


「今日は、ほんとありがどな」


「なんのなんのさ、お役に立てたんならうれしいよ」


「あのよ……」


 章太は何か言いたげな顔をする。


「ん? なんだ?」


 とぼけた顔で訊き返す彩佳に章太は、視線を合わせられずそっぽを向いた。


「なんでもね」


「なんだよ、男らしくないなあもう。はっきり言えよー」


「お、おう、また今度な」


「はいはい、じゃあその時にまたね。お疲れ様。明日筋肉痛で休むなよ」


「休むか、ばあか」


「なんだと」


「んだばな」


 章太は唐突にタケルを振り向かせると、「やっ!」と掛け声をかけ、タケルの腹を両脚で軽く締める。


「お、おう……」


 戸惑った彩佳があいまいな返事をしている間に、章太を乗せたタケルは速歩で去っていった。


「章ちゃん来てたの?」


 背後から聞きなれた声がした。


りょう


 今年六歳になる凉だった。


「お父さんと柔道のお稽古してたみたいだね」


 無邪気な笑みを見せる。彩佳の頭に章太の「強くないと誰も守れない」との言葉が浮かぶ。何かあった時私は凉を守れるだろうか。それだけの強さを持っているだろうか。ないと思った。母に勝負を挑んだ時の表情を思い出す。あれが強い人の目だ。そんな母に彩佳の中でまたもやもやとした思いが湧き上がる。私はあんな強くはなれない。自分の弱さを見せつけられるようで息がつまる。だが、これを嫉妬とは呼びたくはなかった。気を取り直して凉の頭をなでる。


「なんか急に稽古がしたいとか言い出してさあ。久々なんでびっくりしちゃったよ」


「ふーん、うちにも来ればよかったのにね」


「だね」


「今日ね、克也かつやさんに宿題のわかんないとこ教えてもらったの」


「へえ、良かったねえ」


「えへへえ」


 克也にすっかりなついていた凉はだらしない笑顔で笑った。


「そういえば、克也さん、今ちょうど庭の方にいたよ。なんか草むしりしてるって言ってた」


「あっち? そっか…… ちょっと見てこようかな」


 凉に手を振って彩佳は中庭のほうへ向かう。回廊を抜けた先の草むらで克也が膝をついて草を抜いていた。手ぬぐいを首にかけて、黙々と作業している。夏の午後の日差しに、白い半袖がまぶしく見えた。


「……なにやってんですか?」


 彩佳が声をかけると、克也は顔を上げて目を細めた。


「おつかれさま。草取り。手伝おうと思ったけど、けっこう大変だねこれ」


「え、宿題手伝ったばっかりなのに、今度は草むしり? なんか…… 偉いですね。お客様なんだからもっとのんびりしてもいいのに」


「こういうの、嫌いじゃないんだ。やってると、頭の中が整理できるから」


「ふうん…… 変なの」


 彩佳は芝の上に腰を下ろす。しばらく黙って、克也の手元を見つめていた。


「章太がさ、さっきまでお父さんと柔道やってた」


「みたいだね。なんか、雰囲気変わったよね。ちょっと大人っぽくなったかも」


「……そう、かも」


 言葉が自然と途切れる。熱い風が少し吹いて、木陰の下をすり抜けていった。


 中庭から見える遠くで義父の裕樹ひろきいぬいが何か作業をしている。何をしているのか気になった。


「何やってんだろ。克也さんまたねっ」


「あ、うん……」


 何かを言いたそうな顔をしていた克也を置いて柵に駆け寄る。


「何してるの?」


「ああ、彩佳か。念のために電気柵をな」


 額に汗する裕樹ひろきが答えた。


「熊に飼料を食べに来られたら厄介だ。迷い込んでくる可能性もあるからな」


 この暑さの中でも涼しい顔をした痩身の乾が続けた。


「そんなにヤバいの?」


 彩佳の不安がまた胃の腑の奥から湧き上がる。


「いやまあ、念の為、だ。大丈夫、彩佳が心配するような事じゃない」


 裕樹ひろきは笑ってそう言ったが、取り繕っている様子は明らかだった。


「うちは金がない。熊にやる餌なんてないってことだ」


 乾も苦笑いするが、金がないならどうしてこんな電気柵なんて買えるんだろう。


「ふうん……」


 彩佳ははっきりしない言葉を漏らしながらも拳をキュッと握りしめる。日常が何か変化しつつある。それをそこはかとなく感じて、どこか落ち着かなかった。


【次回】

第20話 章太

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