第17話 なぐさみ

 別に早起きしようだなんてちっとも思っていないのに、目覚めてスマホの時計を見ると五時ちょうどだった。昨日の午後からのもやもやした気持ちを思い出すと嫌な気分になって、二度寝したい。しかし、エイールの顔を見たいと思うと体が先に動いた。手早く厚手の長袖シャツとオーバーオールに着替え髪を結いあげ、リビングに行くともう両親はいなかった。急いで厩舎に向かう。

 外に出ると昨日の蒸し暑さが嘘のように抜け、気持ちの良い風が彩佳あやかの頬をなで、ポニーテールの髪を緩やかにたなびかせる。

 気分を良くした彩佳は小走りに厩舎に向かった。厩舎ではもう数人のスタッフが作業を開始していて、活気を感じる。その生き生きとした雰囲気に当てられた彩佳も少し気分を上げてエイールの馬房に駆け込んだ。「おはよ!」と声をかけると、エイールは鼻を鳴らして彩佳の頭になすりつける。嬉しいときのサインだ。彩佳も嬉しくなって、首や額を撫でてやると目を細めふごふごと鼻を鳴らして喜ぶ。


「昨日はお疲れ。頑張ったね」


 昨日は言えなかったねぎらいの言葉が自然と出てきた。エイールはその言葉が理解できたのか、軽く首を上下に振る。


 彩佳がエイールの馬房の敷き藁を換えたり、水桶や飼葉桶を掃除して補充し直す。ブラッシングしているといぬいがあいかわらず低く抑揚のない声で話しかけてきた。


「ここのところ連日ご苦労な事だ」


「乾さんだって珍しいですね、毎日こんな朝早く」


 乾は「まあな……」と呟くと、ピッチフォーク片手に原沢が淹れたコーヒーをすする。


 「朝のお勤め」が終わると各自朝食をとる。彩佳はうちで裕樹ひろきそらりょうと一緒に食べたが、昨日の嫌な雰囲気を引きずって空気が重い。何も知らず、克也に宿題を手伝ってもらうんだ、と嬉しそうな凉の笑い声が救いだった。


 本当は引き馬(馬を放牧地に連れて行くこと)も手伝いたかったが、今日のスケジュールでは学校に間に合わなくなるので、渋々エイールにまたがり、補講へと向かう。いつもの分かれ道で章太が待っていた。


「うっす」


「うす……」


 彩佳は章太に胸の内を悟られまいと身構えたが、それが良くなかったようだ。


「昨日、なんかあったべか」


「う……」


 章太はのんびりしているように見えて、なかなか鋭い眼をしていた。


「まあちょっとね、色々……」


「ほうが、ちょっとなんがあったんだな。そいは、たいしだこどだな」


 章太はこれ以上深くは追及しないので彩佳は胸をなでおろす。それぞれの馬にまたがった二人は、しばらく無言で常足のまま歩き続ける。熊鈴の耳障りな音だけが、ガラガラと林道でつぶやくように響いていた。


「訊かないんだ……」


 彩佳がそう力なく小声で言うと章太も小さな声で返した。


「おめのしたいようにすれば、いいんだべさ」


「そっか」


「んだ」


「なんだか少し感心した」


「んだか?」


「んだ」


 ふたりで軽く笑い合う。すると肩の力が抜けてすっと自然に言葉が口を突いて出る。


「やっぱりさ、まだ大人には勝てないんだなあって」


「ははっ、おらなんかもう親父さ、 全然勝てねぇんだ。腕相撲しても、田んぼさ出てもよ。他にも、色々なあ、ほんっと色々なあ」


「そっか、章太もか。私もさ、昨日お母さんとシエロに鼻差で負けちゃってさ。あと一息だったのに」


「あー、あの すげえ馬のごどが? そいなら、よう頑張ったほうだべなあ」


「そうかな?」


「んだんだ、まあへこむごどねぇって。次勝てばいっちゃべ」


「ありがと、なんか嬉しい」


 彩佳がほほ笑むと章太もふっと笑みを返す。


「おめの馬っこの速ぇごど、見せでもらうべなっ!」


 と言うが早いか、章太はタケルを速歩にする。


「あっ待てこの野郎、フライングだぞ!」


 彩佳も元気よくエイールを駆けさせる。


「きょうのおらあ、いつもとちげえど!」


 嬉しそうにタケルを走らせる章太に彩佳も食い下がる。


「負けるかあ!」


 いつの間にか彩佳も笑顔になっていた。


【次回】

第18話 小さな決意

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る