第15話 星々の下(もと)で
本館の食堂を出た
うちに帰りたくなかった。まだ熱気の残る夜風に当たって気持ちを落ち着けようと、彩佳は分館裏に回る。今年の夏も暑い。木柵にもたれて空を見上げると、思ったより星がよく見えた。こんなところで星を見ようと思ったのは、いつ以来だったろう。
「こんばんは」
不意に右側から声がして、彩佳はびくりと肩をすくめた。振り返ると、
「……こんばんは」
ぎこちなく返すと、克也は静かに彩佳の隣に立った。
「夕飯、遅かったんだ?」
「……ちょっと。食堂で食べてきました」
それ以上は聞かれなかった。ふたりの間にしばし沈黙が落ちる。風が草の先を揺らし、夏の虫の声がかすかに響いていた。
「星、きれいだね」
克也がぽつりとつぶやいた。
「ええ…… 最近あんま見てなかったけど」
彩佳も空を見上げた。天の川がうっすらと弧を描いている。その光の帯に、ほんの少しだけ胸が静まっていく気がした。
「こっちに来ると、空を見る時間が増えるんだ」
克也はそう言って、夜空に目を細めた。
「東京じゃ、こんなに星なんて見えないから」
「そうなんだ」
彩佳はそっけなく相づちを打った。
「こっちは、星が見えすぎて…… ちょっと怖くなるときがあります」
「怖い?」
「なんか、見られてる気がするっていうか。星がね、ずっと黙って観察してくる感じがして……」
彩佳は少し笑った。
「なにそれ。詩人みたい」
「そう? ……変、ですか?」
「ううん。ちょっとだけ、でもわかる気がする」
星空を眺めながら言うその声は、どこか素直だった。克也は横目で彩佳を見た。瞳の奥に、深い影がある。でもそれは暗いのではなく、澄んでいて、どこか遠くへつながっているようだった。
「彩佳ちゃん」
「はい?」
「この夏、楽しい?」
彩佳は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「楽しい…… かどうかは、よくわからないです。でも、思い出にはなりそう、かな?」
それは嘘ではない。だけど、自分の中に湧き上がっている感情はまだ整理がつかないままだった。
「思い出か……」
克也は、微かに笑った。
「うん。僕も、かな……?」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
「なんだか落ち着いてきました。もう帰りますね」
と言った彩佳は木柵を離れた。
「何かあったんだ」
「うーん、ちょっとだけ」
打ち明けてくれない彩佳がもどかしい。克也は何も言わず、ただ「またね」と小さく手を振った。
彩佳が背を向けるその瞬間、克也は夜空を見上げた。目を細めて、星を見つめる。そこには言葉にならない想いがあった。何も気づいてないんだな。でも、それでいいと克也は思った。今はまだ、それで。
克也の胸には、ただ静かに、彩佳という名の星が瞬いていた。
【次回】
第16話 ひとり眠る夜
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