第13話 いまだ風を掴めず
昼食を終え、
「お母さん」
振り向いた空は笑顔を見せる。
「最近一緒に走ってなかったし、ちょっと腹ごなしにどう?」
先ほど食堂でイラついた自分を目の当たりにしておきながら、いつもと全く変わらない態度の母。その余裕がまた妙に悔しい。
「いいよ」
愛想なく答えて二人と二頭は常足でゆっくりとトラックを駆ける。
「宿題進んでる?」
「ま、まだ八月になったばっかだし」
「そんなこと言ってると、あっという間に九月になっちゃうんだからね。その時泣かないでよ。去年だって――」
去年と今年は違う。彩佳はそう思って口を開こうとしてやめた。「去年とは違う」と思った。でも、何が? どこが違う? 自分でもよくわからない。不安と胃が焼けるような焦りを覚えた。成長はしている。確かに、小学校でランドセルを背負ったばかりの頃とは間違いなく身長も伸びている。だけど、いつになったら自分はこんな余裕のある大人になれるんだろう。それとも自分みたいな人間には無理なんだろうか。
「小学校の頃はよくこうやって一緒に走ってたねえ」
空が懐かしそうに言う。そんな昔のことじゃない。ついこの間のような気がする。でも最後に一緒に走ったのはいつだったか思い出せない。あの頃はいつも母とシエロには勝てなかった。
「一度も……」
「ん? なに?」
彩佳のつぶやきに母が優しく答える。その態度がやっぱり悔しい。なんだか上から見られてるみたいで。私だって。
「お母さん」
「うん」
「走ろう」
「ん? もう走ってるでしょ?」
「もっと速く」
彩佳の何かを決意した表情に気付いた空も、それを受けて少し真剣な表情になる。
「いいわよ」
真夏の日差しがさんさんと差し、陽炎の立つ昼間。シェアトの500メートルトラックに二頭の馬影が並ぶ。八歳のアイスランドホース、エイール。そして、かつて牝馬三冠と有馬を制した名馬、二十一歳のサラブレッド、コレドールシエロ。かつてを走ってきた者と、これからを駆けようとする者。
鞍上には、それぞれの伴侶がいた。エイールには彩佳。その瞳は若さと決意を秘めている。シエロには空。刻まれた記憶と誇りをその背に携えて。
この競走に勝敗はない。二人にとって、それはただ確かめるための走りだった。自分たちがどこまで来たのか。今、どこにいるのか。
「じゃ、走ろうか」
空の声は、風の中にさらりと溶けてセミの声にかき消された。
「うん。全力で行く」
彩佳の声は短く、けれどまっすぐだった。馬たちが耳を立てる。脚が入り、手綱が軽く絞られ、風が裂けるようにして二頭は走り始める。
先に飛び出したのはシエロだった。老いを感じさせぬ踏み出し、蹄はしっかりと地を捉え、滑らかに加速していく。その姿は、かつて幾度となく先頭を譲らなかった、まさに名牝の走りだった。徹底的な逃げ馬の彼女の耳にはかつて聞いた大歓声が甦っていた。
エイールもまた、小柄な身体を伸ばして食らいつく。彩佳は腰を落とし、集中して馬のリズムに身をゆだねる。若い一人と一頭の呼吸が合い、鼓動が重なる。
半周を過ぎたあたりで、彩佳の視界に母の背中が見えてきた。差は縮まっていた。エイールの脚はよく動き、力もある。あと少し、ほんの少し。
けれど、届かない。
最後の直線、残り100メートル。「ハイッ!」彩佳はエイールに声をかけ、エイールが応える。しかし、シエロもまた一段階、加速した。
かつて数多の観衆を沸かせ、女王と呼ばれた馬が、もう一度その名に応えたかのような走りだった。風を切る音が変わり、トラックに蹄の音が一層高く響いた。
結果は鼻先だった。
彩佳はエイールの速度を緩めながら、肩で息をし、目を伏せた。悔しさが込み上げる。全力を尽くした。それでも、届かなかった。
「まだ…… 届かないんだ」
その背中は遠かった。思っていたよりも、ずっと。
エイールが鼻を鳴らした。悔しがっているようでも、誇らしげでもあるような声だった。
一方で、空はシエロの首筋に手を添えていた。荒い息づかいを聞きながら、少し笑う。
「……まだ、走れるのね」
その言葉は、自分自身に向けたものだったかもしれない。
そして、続けてつぶやいた。
「そう。まだ、走らなきゃ。あの子はまだ子供なんだから」
熱い風が吹き抜け、陽炎が揺れる。盛夏のトラックに母娘は馬に
【次回】
第14話 影は音もなく
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