第10話 逃げること、選ぶこと
午後の作業場には干し草の香りと、夏の蒸した熱気が流れている。
「さっきの
原沢が笑いながら
「えー、そんなに変でした? “おじさん”って言ったから?」
「そこ。すごい破壊力」
彩佳も苦笑しながら肩をすくめる。
「でも、ほんと彩佳って、無邪気で裏表なくていいね」
「褒めてます?」
「もちろん。……でもね、ちょっと気をつけなよ」
原沢の声が少し真面目になった。
「“誰といたいか”とか、“自分はどうありたいか”とか、ちゃんと自分の“頭”で考えて選ばないと、後々後悔することになるからさ」
「え、なに急に」
「ただの大人の独り言」
それっきり、原沢はまた掃除に戻った。
作業を終え、納屋裏の堆肥置き場に向かう途中で、空のバケツを持つ彩佳が不意に口を開いた。
「あの、さっきの“選ぶ”って話……どういう意味ですか?」
「……あーあ。やっぱ分かんないか」
原沢は小さな溜息を吐くと共に少し笑って、一輪車を堆肥の山の脇に停めた。
「ねえ、あたしがなんでここで働いてるか、知ってる?」
「え? 原沢さん、東農大出のエリートで、すっごく志が高い人って……」
「……は? それ、誰が言ってた?」
「えっ、みんなそう言ってるんじゃ…… ないんですか?」
原沢は少しだけ目を細めて笑った。
「ほんとのとこはね、ぜんっぜん違うんだ」
手に持った軍手の端を、無意識にいじりながら続ける。
「うち、東京の自動車修理工場の家でさ。親父が頑固で、“お前が家を継げ”とかマジで言うタイプだった」
「えっ」
「嫌で嫌で仕方なかったんだ。いや、車は大好きだったんだけど、その“決めつけ”がさ。だから農業高校に入った。親には“あんたの思い通りになんかならない”ってはっきり宣言して進学」
「……それで?」
「高校出たら、すぐ就職。東京にいるのも嫌だったから、地図でなるべく遠いところ選んで、それがここだった」
彩佳は言葉を失って、じっと原沢の横顔を見ていた。
「だからね、志が高いとか立派だなんて、まるっきり違う。私がこの仕事を選んだ理由なんて、逃げと反発の塊だっただけなんだし」
自嘲気味に笑って見せる。
「でも今は、楽しそうですよね」
「うん。今はね。やっとここが“自分の居場所”だって思えるようになったな。時間かかったけど」
スコップで堆肥を一輪車に積んでいた原沢はふと空を見上げ、一瞬の間を開けてから彩佳に目を向けた。
「だから思う。逃げてもいい。でも、どう生きたいかは、自分で選ばなきゃだめ」
「……」
「好きって気持ちも、居たいって思う場所も。ぼんやりしてるうちに、するっと手からすり抜けていくんだから」
柔らかな語り口の奥に、何かを飲み込んできた人だけが持つ重みがあった。彩佳の口から、自分でも気付かずにぽろりと言葉がこぼれ落ちた。
「好きって気持ち……」
彩佳にはその言葉がなぜか胸に痛い。どうしてか義父の顔が目に浮かび一瞬動揺した。
「どうした?」
「ううん、な、なんでもないです」
彩佳は深呼吸をして一息吐くと、黙って堆肥をバケツにつめる。汗が首筋を伝わっていく。隣で黙々と働く原沢がいつもより大きく感じた。
「……原沢さんって、かっこいいですね」
思わず漏れた彩佳の言葉に、原沢は少し目を見開いて、それからふっと笑った。
「かっこよくないよ。イキった挙句逃げただけ」
「でも、逃げた先でちゃんと自分を見つけて生きてる。私、そういうのかっこいいと思います」
それもこれも彩佳の義父、
「でも、気づかないのって罪だよ……」
何のことかわからない彩佳は手を止めて原沢の次の言葉を待った。原沢は何でもない風を装ってスコップで堆肥をすくう。女性にしてはたくましい腕だった。
「昔、あたし好きな
「え、何で気づかなかったんだろ? それに気づかないふりなんてちょっとズルいですよね」
彩佳は少し憤慨したような声を出す。
「ふふっ、どうかな。続きは、またいつか」
そう言って、原沢は軽く手を振ると、「よいしょ」と掛け声をかけてスコップをもう一度堆肥に突き立てた。
【次回】
第11話 すれ違う言葉
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