第9話 モテる兄
章太と別れてから
「
顔をほころばせてエイールを馬房につなぎ、ピアノをBGMに
納屋の中にある古びたアップライトピアノで朗らかな旋律を奏でていた克也が、彩佳に気づいて手を止める。
「お帰り」
「ただいまー。今の曲、なんていうんですか?」
「ショパンの即興曲第一番。今の季節に合うと思って」
「やっぱり上手ですね。
「え、なんで?」
少し照れる克也に、彩佳は「あ」と口元を押さえた。
「藍さんのはちょっと重たいというか……」
「ああ、暗い曲多いからね。こういうのとか」
そう言って
藍は明るく豪胆な性格に反して、選曲は繊細で重たい。そのギャップを思い出し、彩佳は笑いそうになるのをこらえた。
「克也さんのは滑らかで明るい感じ。なんか、いいなって」
「それは、褒められたってことでいいのかな」
「はい!」
満面の笑みに、克也は照れた表情を浮かべるが、彩佳は気づかない。
「ピアノ、練習してる?」
「……実は、まったく。でも乗馬は上達しました!」
元気よく答えてから、はっとしてバツの悪そうな顔をする。
「正直だなあ」
克也が笑うと、彩佳もつられて笑った。
克也の演奏を聴きながら彩佳がにやにやと克也をのぞきこむ。
「あ、そうだ。ねえ、克也さんって彼女いたことあります?」
「……は?」
ピアノの音が止まり、克也の手が鍵盤の上で静止する。少し間を置いて、彼は顔を逸らしながら小さな声で返した。
「……どうして?」
「え? いや、なんとなく」
克也はうつむいたまま、言葉を探すように指先を鍵盤の上でさまよわせた。
「……いたこと、ないよ。そんなの……別に」
淡々とした口調の裏で、心のどこかがざらつくのを感じていた。 男として見られていない。それがこんなにもきついとは思っていなかった。
「へえ、意外」
無邪気に笑う彩佳に、追い打ちをかけられたような気分になる。
「絶対モテそうなのに」
「別にモテても嬉しくないよ」
短く返して、克也はピアノに向き直って演奏を再開する。
「じゃあ藍さんに聞いちゃおうかな」
「それはマジでやめて……」
顔を赤らめる克也に、彩佳はさらに言った。
「でも克也さんって近所のお兄ちゃんって感じですよね」
「お兄ちゃん……?」
克也の表情が一瞬で固まる。
「頼れるけど、安心しちゃうっていうか」
苦笑いするしかない克也。男として見られていないことが情けなく感じる。
「……よく言われるかも」
「でも、それっていいことですよ。あ、そうだ!」
彩佳が急に思いついたように手を打つ。
「克也さんに彼女できないのって、藍さんのせいじゃないですか?」
「……はい?」
「だって、あんな美人でフランチシェクコンクール2位のピアニストでお菓子作りも得意で明るくて気が強くてお酒に強くて…… で、ちょっと怖くて」
「やめて。何もここまで来て母親のプロフィール紹介とか」
ピアノを弾く手を止めてうろたえる克也の肩を叩きながら、彩佳は爆笑した。
「そういうとこ、本当にお兄ちゃんっていうか、親戚のおじさんって感じ?」
しまった、と口を押さえる。
「今、“おじさん”って言ったよね……」
「い、言ってないですっ!」
「言ったよね? 兄からおじさんになったよね?」
「そんなつもりじゃっ!」
克也の絶望に近いうめきが納屋に響く。
「お、楽しそうじゃん」
入ってきたのは、ショートボブに白いつなぎ姿の原沢美奈だった。
「今、克也さんがおじさんっぽいって……」
「やっぱおじさんなんだ」
にやにや笑いの彩佳、そして
「克也くん、大変ね。頑張れ」
「え? 何を頑張るんですか」
「やめてください原沢さん……」
きょとんとする彩佳の視線を受けながら、克也はさらに縮こまる。そのままピアノに向き直った克也が、静かに寂しげな曲を弾きはじめる。
「その曲は何て言うんですか? 珍しく寂し気な曲。でもきれい」
「うん、ドビュッシーの“月の光”。今の僕の心象風景かな」
「……ふうん?」
「彩佳、お楽しみのところ悪いけどちょっとこっち手伝ってくれる?」
「あ、はーい。じゃあね、お……兄ちゃん!」
元気よく手を振って去っていく彩佳。その背中を、克也はまたまぶしげに見送った。
【次回】
第10話 逃げること、選ぶこと
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