風のSkeið(スケイド)「空の六等星。二つの空と僕――Cielo, estrellas de sexta magnitud y pastel.」スピンオフ
第8話 水飛沫(みずしぶき)と戯(たわむ)れ
第8話 水飛沫(みずしぶき)と戯(たわむ)れ
厩舎の掃除をして馬たちを放牧場へ放つと、
「彩佳、これ」
見るとそれは
「えっ」
彩佳は熊鈴を持ち歩いた記憶があまりない。それだけ熊の危険があるということなのか。緊張が走る。
「いや、念のため。まあお守りみたいなもんだ。持っていけ」
「なんだ、おめもが」
彩佳の腰に下がってがらがらと耳障りな金属音を立てる熊鈴を見つけると、章太も自分の腰の熊鈴を見せる。
「うん。一応持ってけって」
「俺もだぁ。まあ、たいしたごどねえけど、持ってげあ、てな」
熊鈴の話題はそこで終わり、馬に乗った二人はふざけ合いながら学校を目指す。今日はたまたま章太が先に校庭に入る。それに気付いたのか、職員室の窓をがらりと開けて「ハンサム芦原」が、半分禿げあがった頭を光らせて渋い顔を見せる。
「なんだぁ、今日は
「はい」
苦虫を噛み潰したような顔の芦原先生は、それでも二人の熊鈴に気付いた。
「おお、さっそぐつけてるな。感心感心」
「父に無理矢理渡されました」
「俺も」
「まあ、一応用心するにこしたごどはねぇがらなぁ。ひとまずつけとげぇ」
「はあい」
ふたりが口を揃えて答えると、芦原先生はそれ以上何も言わずに、職員室の中へ首をひっこめた。
夏の午後、じりじりと照りつける日差しの下、彩佳と章太は馬に乗って学校からの帰り道を辿っていた。午前中いっぱいかかった補講を終え、二人はようやく解放された気分になった。
彩佳はエイールの手綱を軽やかに操っていた。アイスランドホースのエイールはその小柄な体躯に似合わず、しなやかで力強い動きを見せる。対する章太のタケルは、さすが「南部馬の血を引く」などと言われただけはあるどっしりとした歩調で、ゆったりと後ろをついてきていた。
「しっかし今日はあっついなー!」
彩佳が背伸びするようにして伸びをし、空を仰ぐ。木々の隙間から、白い雲がぽっかり浮かぶ青空がのぞいていた。
「おい、そったにすっど落っこちっぞ」
章太は苦笑しながら注意する。
「平気平気。エイールだったらちょっとくらい揺れても私落ちないし。それに——」
そう言って彩佳は、エイールを速歩に乗せた。
「おい!」
突然の速歩に、章太は慌ててタケルの手綱を引いた。
「ねえ、せっかくだから沢に寄っていこうよ!」
エイールを止めて、彩佳が振り返る。
「沢?」
「そっ! このまま帰るのもつまんないしさ、ちょっと涼んでいこ!」
章太の答えを聞くまでもなく、彩佳はエイールを渓流の方へと向かわせた。いつもの彩佳の行動に章太はため息をつきながらも、仕方なく後を追う。
緑深い木々の間を抜けると、そこには澄み切った水が流れる渓流があった。夏の日差しが水面に反射し、きらきらと輝いている。この周辺は確かに気温が低く涼やかな空気が流れていた。
「わあ、すずしー!」
彩佳はすぐさまエイールから飛び降りると、靴と靴下を脱いで水辺へ駆けていった。
「おめ、そったに急ぐなや」
章太もタケルから降りたが、彩佳の無邪気な笑顔に、つい目を奪われた。
彩佳は裸足で水の中に入ると、「うわー、気持ちいい!」と声を上げる。足首ほどの深さの水に音を立てて足を浸し、手ですくってはぱしゃぱしゃと遊び始めた。
「ほんと元気だごど……」
呆れたようにぼそっと呟いた章太は、そう言いつつも彩佳から目が離せない。
「何か言った?」
「いや、なんも」
水しぶきを上げて無邪気にはしゃぐ彩佳。その姿は、夏の光を浴びて眩しく輝いていた。濡れた足をぴちゃぴちゃと跳ねさせながら笑う彼女を見ていると、章太はどうにも落ち着かない。
「ねえ章太、あんたも入んなよ!」
「俺はいい」
「なにそれ! 冷たくて気持ちいいんだから、一緒に入ろうよ!」
言うが早いか、彩佳は手にすくった水を勢いよく章太に向かって飛ばした。
「わっ!」
避ける間もなく、冷たい水がシャツの前面にかかる。
「な、なしてそったごどすんだよ!」
「あははっ、涼しくなったでしょ?」
彩佳は悪戯っぽく笑って、また水をすくおうとした。章太は慌てて後ずさるが、足元が悪くてよろめく。また水をひっかけられる。
「お、おめなあ……」
「へへっ、仕返ししたければ入っておいでー!」
そう言って、水の中でくるりと回る彩佳。陽に濡れたポニーテールの髪がきらめき、その弾けるような笑顔が、章太の胸の奥を妙にざわつかせる。
「……ったく」
しばらく彼女の様子を眺めていた章太は、仕方ないというように靴を脱ぎ始めた。
「おっ、来る?」
「どうせこのまま帰ったって、また暑いだけだしな」
不貞腐れた顔で、章太はジャージの裾をまくって水の中へ足を踏み入れた。
「ほらね、気持ちいいでしょ?」
彩佳が嬉しそうに笑う。
章太はそっぽを向いたまま、「まあな」とだけ呟いた。
澄んだ水が二人の足元を流れ、心地よい涼しさが広がる。
「ちょっと寄り道してみだばって、まぁ、あったがもな」
「へっ?」
彩佳が驚いて声のした方を見ると、いつとは違う表情の章太がいた。
「おめ、最近イラついでだがらなぁ。今は、もういつも通りさ。まず、よがったな」
「べ、別にイラついてないし」
「うそっこ、つぐなや」
口調は軽かったがその声には心配の色が濃かった。
「お、おう……」
「んだな、なんがあったら付き合ってやっからよ。親の代がらの腐れ縁だべさ」
彩佳は近くの岩の上に腰掛ける。スカートの下にハーフパンツをはいた脚でぱちゃぱちゃと小さく水しぶきをあげた。沢に飛び散る水滴が光を浴びて輝く。
「……お前さ、時々いいやつだな」
「時々じゃねえべ。いつもだべさ。わっかんねえやつだなあ」
「そっか。いつもか……」
「おう」
夏空の下、無邪気に水と戯れる彩佳を見つめながら、章太の胸の中で言葉にならない感情がふわりと浮かんでは消えていった。
【次回】
第9話 モテる兄
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