第4話 裏掻き(うらかき)と克也
バックスキン(※1)のエイールを厩舎内の馬房につなぎ、克也は馬房の外に立たせて、
「克也さんはそこにいてね。はーい、
と言って彩佳がエイールに軽く触れると、エイールは脇に動いて彩佳の作業のためのスペースを開ける。
「へえ」
素直に言うことを聞くエイールと、いとも簡単に彼女を操る彩佳の姿に、克也は感心した。
「ひょいっと」
彩佳が声をかけてエイールの蹄の上を優しく掴むと、エイールは自分からその脚をあげて蹄の裏を見せる。彩佳は蹄を片手でしっかり支え、裏に詰まった泥や藁を手際よく鉄爪(てっぴ)(※2)で掻き出し、ブラシで汚れを払う。
「去年はこういうことしてなかったよね」
「そ。これ結構危ないからお父さんがなかなか許してくれなくてさ。今年の春くらいからかな。やらせてもらえるようになったの」
「お父さん」と言った瞬間、また胸にもやもやが湧き上がった。叫び出したい衝動に駆られたが、克也がいる手前、ぐっとこらえた。そんな彩佳の様子に気付くはずもない克也は優しい笑顔で話しかける。
「それにしては上手だね」
「あは、この子がすっごい素直だからね。協力してくれるの。ほら前脚が終わったら、もう後脚を浮かせて待ってるんだよ」
「ほんとだ。エイールは賢いね」
「でしょー」
まるで自分が褒められたかのように満面の笑みを浮かべる彩佳。克也にはその素朴で飾り気のない笑顔がまぶしかった。偏見かもしれないが、東京ではこんな笑顔を見たことはなかった気がする。
「蹄は馬の『第二の心臓』だから不潔にして病気になったりしないように常に注意を払わないといけないんだ。ってこれもお父さんの受け売りなんだけどねー」
彩佳は緩んだ笑顔を浮かべながら蹄の内側にささっとブラシをかける。以前は父と馬の話をするのが大好きだった彩佳は、一人耳を赤くして思わず相好を崩しつつも、昨夜の光景が胸を刺す。
「おいーす」
蹄の
「おう、章太。どしたの?」
「ああ、今日もらった課題、おらわがんねえがら一緒にでぎればって…… げっ!」
章太は全てを言い終わらないうちに、克也に気付いて素っ頓狂な声をあげる。克也の表情もかすかに曇る。
「何が『げっ!』だよ? どした? カエルかお前?」
どこか、とぼけた声で訊く彩佳。
「おめまだ来だのが」
苦々しい顔で克也をにらみつける章太。克也はその勢いに少し臆した表情になる。章太の目は鋭く、まるで克也を追い払おうとするかのようだった。その様子に克也は少し困惑し、彩佳は不思議そうに二人を見比べた。
「う、うん……」
彩佳には、章太が克也を嫌っている理由が分からない。けれど、こうして二人が対峙するたび、どこか落ち着かない気持ちになった。
「なに? 克也さんうち来ちゃいけないってか?」
彩佳の目が少し尖る。
「あ、ああ、それなら」
話題を変えようとしたのか、おずおずと克也が提案をしてきた。
「それなら、もしよかったらだけど、僕が二人の課題を一緒に見てあげようか?」
彩佳が「え、いいの?」と驚きの表情を見せる一方で、章太は一瞬動きを止め、目を見開いた。
「あ、いや……おら、急に家の手伝い思い出した! 帰るわ!」
章太はそそくさと逃げるようにその場を去り、馬房の出口に向かう。その後ろ姿を見つめながら、彩佳は首を傾げた。
「なんだ章太のやつ、急に」
彩佳が呆れ顔で言うと、「さあ? 急用でも思い出したみたいだね」と、克也もまた不思議そうな顔を見せるが、ふと微笑む。
「でも…… その方が僕は嬉しいかも」
「え? なんで?」
目を丸くして、さっきの克也を上回る不思議そうな表情で彩佳が訊ねると、克也は少し慌てた。
「あ、え、いやいや何でもない」
「ふうん……」
二人のやりとりには、いつもわからないことがいっぱいだ、と彩佳は感じつつ、エイールにブラシをかけるのであった。一方で克也は自分が赤面した事に気付き、さらに赤面をして気まずい表情で黙り込む。二人の間にしばし沈黙が生まれた。
▼用語
※1 バックスキン:
淡い黄褐色(ベージュ)で、尾やたてがみが黒や暗色になっている体色で、日本では「河原毛(かわらげ)」の一つとされることもある。
※2 鉄爪(てっぴ):
馬の蹄を掃除する道具。文字通り一方の端に金属の爪のようなものがあり、反対側にはブラシがついていることが多い。金属の爪の部分で汚れを落とし、ブラシで残りかすを払う。
【次回】
第5話 エイールの友だち
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます