第2話 補講
「なんだなんだあ、今日は機嫌わりぃなあ。まあ、最近えづもそうだげどさ」
半袖シャツにスラックスを着た章太のどこかのんびりした声が、馬の歩く音と共に森の中を突き抜ける舗装されてない土の林道に響き渡る。
「うっさい」
体育のハーフパンツを履いたセーラー服にスカートの
「あ、やっとしゃべった」
何が嬉しいんだかわからないが、どこか嬉しそうな声になる章太。彩佳にはそれがなぜか憎らしい。
「うっさい!」
ひときわ大きな声でもう一度繰り返すと、彩佳は自分の跨っているエイールのおなかを軽く蹴って
「おおっ、なんだやるのが。負げねあぞ」
さらに嬉しそうな声をあげて章太の馬も歩みを早める。それが本当に鬱陶しくて彩佳は逃げるようにエイールを走らせた。
だが、抜きつ抜かれつするうちに、この競争が楽しくなってくる。やっぱり自分は馬が、特にこのアイスランドホースのエイールと走るのが好きなんだなと実感する。そう、初めて会った時から好きだった。好きな相棒と共に駆けて頬に風を感じると、昨晩のことをいっとき忘れ、少しは気もまぎれた。
自宅から六キロ離れた学校に着いたのはいつもより随分と早かった。日の当たらない場所に停まり、エイールから降りた彩佳は、水道の脇に置いてあるバケツに水をたっぷりと入れて、それをエイールに飲ませる。章太も同じように、どこか日本在来種に似た体高が低めのタケルに水をやる。
「おう、なんだ。乗馬通学は止めろどいっつも言ってらでねぁが」
一階の職員室の窓を開けて頭を出した教諭、「ハンサム芦原」が二人をどこかのんびりした声で叱る。水道の水で顔を洗っている彩佳に代わって章太が、やはりのんびりした声で答えた。
「いやあ、なんだが遅刻しそうになっちまって……」
「なあにが遅刻だ。余裕のよっちゃんじゃねえが」
芦原先生は半分寒くなった頭からピカピカと太陽光を反射させて返す。
「で、どっち勝った」
「はいっ!」
タオルで顔を拭きながら勢い良く手を挙げる彩佳。芦原先生は苦々しい顔になる。
「なあんだ、まだが。少しは章太もけっぱればがもん。たまには勝で」
「へえい」
さしてやる気のない返事をする章太を無視して、芦原先生は職員室の中にいる誰かに「今日も簑島(みのしま)だと」と少し忌々し気に吐き捨てる。「いやあ、わりいねぇ」と誰かの声が職員室からした。「さすがにいい加減
その後は補講が始まる。今日の一限は数学。だが授業が始まって間もなく、ほとんどの生徒が舟をこぎ始めた。この中学校の生徒は農林畜産業に従事する家庭の子が多い。生徒たちは部活までした後に家業を手伝うのだから自宅で勉強する余裕はなかなか作れない者がほとんどだった。結局、クラスの三分の一が及第点に及ばず補講を受ける羽目になってしまった。補講を免れたのは、学校近隣の商業施設や地方公務員といった業種の家庭の子供たちが多い。もっとも、クラスの三分の一と言ってもその人数はわずか六名であったが。
エアコンで快適な温度と湿度に調整され、静まり返った教室に教諭の平板な声と板書の音だけが響く。章太を始め生徒たちは次々とこの催眠術に屈していったが、彩佳だけは負けるわけにはいかなかった。彼女には大望がある。容易に負けるわけにはいかない。東京の農大で学んでシェアトに来た原沢美奈のようになりたい。あの何事にもポジティブで、颯爽として闊達な彼女のようになりたい。そう思うとこんなところで赤点に沈んでいる場合ではなかった。
だが睡魔はその意志に反し、ゆっくりと彩佳を誘惑し眠りへと誘い、頬杖を突いた顔が重力に引かれ手から滑り落ちる。彩佳が盛大に机におでこをぶつけた音が静かな教室に響き渡った。クラスのみんなが目を覚ますくらいの音だった。
黙って黒板の方を向くと、憐れむような教諭の目と合ってしまった。顔から火が出るような感じがして、今日の彩佳は睡魔に完勝した。
▼用語
※ 体高のやや低いずんぐりした馬:
純血種としては既に絶滅した南部馬の血を引いている、と近所の人々から言われているが、真偽は不明。以前、この馬とその親馬の血統を調べるために、採血によるDNA採取をしに来た研究者がいたほどだった。地元での祭り「ちゃぐちゃぐ馬コ」にも参加している。
【次回】 第3話 夏の静養
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