灰の翼は自由を知らない

悠・A・ロッサ @GN契約作家

静かなる占領

第1話 家での会話が盗聴されていた

夕方。


キッチンで晩ご飯を作っていた俺は、玄関の扉が開く音に顔を上げた。


「ただいまー。あ、なんかいい匂い」


足音が近づいて──顔を上げると、沙耶が立っていた。

白いソックスに覆われた足首、制服のスカート、ふんわり揺れる黒髪。

顔を上げたとき、灯りを受けてリップがきらりと光る。


──今日も、やばいくらい可愛い。


胸、こんなに大きかったっけ……?

ていうか、見たら死ぬから見ない。


……いや、でも見た。


「今日はカレー。皿出して」

「うん、ありがと」


そう言って、沙耶は皿を持って俺に近づく。

俺も鍋の火を止め、二人分をよそう。


言葉は交わさない。普段は、その沈黙すらも心地よい。

でも今日は、空気が少しだけざらついている気がした。


食後、カレーのルウが少し残る皿を片付けながら、俺たちは並んで流しに立った。

久しぶりの、当たり前みたいな時間だった。

昔はよくこうして皿を洗ってた。

親父がいなくなって、母さんが働き詰めで。

水の音に紛れて、沙耶が鼻歌を歌うのがいつものパターンだった。


今はもう歌わない。俺ももう何も言わない。


けど、それでも俺は――妹のことが、世界でいちばん大切だ。


「……今日の『文化交流』とやらは、どうだった?」


ここは日昇国──かつての“俺たちの国”。

それなのに、最近は強大な隣国・カナンの言葉ばかりが響いてくる。

制服も教科書も、もう自分たちのものじゃない。


「んー、意外と楽しかったよ」

「楽しかった?」


思わず声が荒くなる。


「よその国の歌を歌わされて、制服着た軍人みたいな奴が教壇に立って、

 しかも監視されてる中で、それで楽しいって……本気かよ」


沙耶は驚いた顔をした。

「……高校に来てたの?」

「お前が忘れた体操着、届けに行った。ちょっとだけ、教室を覗いたんだ」


少し間を置いて、沙耶が言った。


「……そんなに、全部『おかしい』って思わなくてもいいんじゃない?」

「おかしいだろ! あんなの授業じゃない!」

「でも……わたしは逃げられないんだよ」

「だったら、抵抗しろよ!」


怒鳴った瞬間、沙耶が叱られた子どもみたいな顔で俯いた。

泣きそうな目が、必死で涙を堪えている。


俺は、守りたかった相手を、傷つけていた。


「……ごめん」


静かに呟く。


「ただ、あの教室で、お前が……笑ってたから」

「…笑うしかなかったんだよ」


その声は、必死に何かをこらえているようだった。


「みんな怖いんだよ。

 逆らったら、全部『その子のせい』にされる。

 先生も親も守れない……うちには親もいないけど」


「……俺が守る」


言った途端、それがただの願いにすぎないと分かった。

沙耶は小さく笑った。


「お兄ちゃんは、もう何もしないって言ったじゃん。正義なんて懲りたって」


(──そうだ。あのとき、俺は誰も救えなかった)


「……それでも」

「……わたしだって、考えてるよ。自分で、自分の言葉で、生きようって。」


それきり、二人とも黙った。


沈黙だけが、部屋に貼りついていた。


***


翌朝。


玄関のチャイムが鳴った。

インターホン越しに見えたのは、スーツ姿の男女と、背後に止まった黒塗りの車。


「山崎沙耶さんに関するご連絡です。『文化適応プログラム』へのご協力、ありがとうございます」

「は? 何言って……」

「事前に保護者の同意はいただいております」

「そんなの出してない!」

「では、こちらの音声をご確認ください」


男がスマホの画面を差し出した。再生されたのは、昨夜の音声だった。

『しかも監視されてる中で、それで楽しいって……本気かよ』『だったら抵抗しろよ!』

俺の怒鳴り声と、沙耶の静かな声。


録音されていた。


……家の中での会話すら、盗聴されていた。


「監視対象としての記録は、国家保全条例に基づく正規手続きにより取得されています」

「ふざけるな……っ」


怒鳴りかけた俺を制するように、沙耶が前に出た。

制服の裾を整える仕草は、どこか子供のようで──それでいて妙に凛としていた。


長い黒髪が肩越しに流れ、朝の光を受けて静かに揺れている。

制服の胸元には、異国の意匠を模した赤いスカーフが結ばれていた。


沙耶は、そんな姿で微笑んだ。


「……わたし、大丈夫だから」


その声は少しだけ震えていた。けれど、沙耶は気づかれまいというように微笑んだ。


「待てよ沙耶、お前、行くな……!」

「お兄ちゃん」

沙耶は振り向いた。


「わたし、お兄ちゃんのこと信じてるよ」

そのまま、車に乗り込んだ。


俺は何もできず、ただその背中を見送るしかなかった。


何かしなければと思った。だが、体が動かない。

数分間、玄関の前に立ち尽くしていた。


ようやく我に返ってスマホを取り出す。

検索窓に打ち込んだのは、「文化適応プログラム」「連れ去り」「カナン 政策 監視」。

けれど、表示されるのは検閲済みのページばかりで、リンク先はことごとく無効。


(何も……わからない)


部屋に戻り、無意識に冷蔵庫を開けた。

喉が渇いて何か飲もうとしただけだった。

けれど、目に飛び込んできたのは、あいつが食べ残したプリン。

それが、「置き去りにされた」みたいに見えた。


***


ふと思い出したのは、つい数日前のことだった。


コンビニでプリンを買って帰った夜、沙耶はソファに寝転がって「えー、これじゃない」と唇を尖らせた。


制服の上着を脱いだシャツ姿。薄手の生地が、胸元でふんわり膨らんでいた。

……昔はあんなじゃなかったのに。


俺は視線を逸らした。


「カラメル少なめが好きって、言ったよね?」

「知らねえよ」

「もー、ほんと適当!」


くすっと笑って、プリンのふたを開ける。

「いただきます、プリンちゃん」

「……口、ついてるぞ」

「うそ、どこ!? やだ〜」


慌てて唇をぬぐう仕草が、なんか子どもっぽくて、笑ってしまった。


──そんな日常が、永遠に続くと、どこかで信じていた。

なのに、たったひとつの言葉で、それは簡単に壊れてしまった。


***


その日、俺は呆然としたまま出勤した。


何を着たのかも覚えていない。靴を履いた記憶すらあやふやだった。

気づけば改札を抜け、通勤電車に揺られていた。

車窓の風景は、何ひとつ変わらない日常を映し出していたけれど、俺の中の時間だけが止まっていた。


出社しても、誰かに挨拶した記憶がない。

何気ない雑談も、無数の足音も、全部ガラス越しの出来事のようだった。


──そして、俺は、職場のデスクに向かった。

パソコンを立ち上げた瞬間、普段は見えないログイン画面のログが、なぜか可視化されていた。


『ログ記録:前回アクセス時間 03:12』


(……俺、こんな時間にログインなんてしてない)


胸の奥に、冷たい何かが落ちた。

どこかで、何かが、ずっと“見ている”。


何かがおかしい──


それはまだ『始まり』にすぎなかった──

本当の“侵食”は、ここからだった。


***


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