古墳とミドリガメ

矢木羽研(やきうけん)

最後の朝の散歩

 ドアの鍵をかける音が、静寂を少しだけかき乱す。キーホルダーが揺れる音まで耳に残ってしまうほど、静かな春の朝だった。


 この部屋のドアの鍵を閉めるのはこれが最後になる。必要な片付けや手続きはもう済ませているので、あとは鍵を管理人室のポストに入れておくだけだ。まあ何か問題があれば連絡が来るだろうから、今日はゆっくり近隣を観光しようかと思う。


 この地への出張を命じられたときはどうしようかと思った。私にとっては友人も親戚もいない未踏の地であり、方言や食文化にも戸惑った。しかし、終わってみればあっという間の3ヶ月間だった。そのために来たのだから当たり前なのだが、仕事が想像以上に忙しく、行こうとしていた観光地や飲食店のいくつかにも結局行けないままであった。


 毎朝の通勤時に眺めていた古墳の堀は今朝も静かだ。ほとりには桜が咲き始めている。もう少し開花が早ければ職場でお花見にでも行けたのだろうか。仕事でそれどころではなかったかも知れないが。


 久しぶりに、古墳の周りを歩いてみる。当初は珍しくて通勤前によく散歩したものだが、次第にそんな余裕はなくなってしまっていた。鏡のような水面を見ていると、小さな亀がゆっくりと顔を覗かせ、すぐに水紋だけ残してまた潜っていった。おそらくは誰かが勝手に捨てていった外来種のミドリガメかなにかだろう。


 実在すらあやふやな古代の大王おおきみが眠っていることになっている古墳に、本来はここにいてはいけない外来種の亀という組み合わせが、私には妙に面白いように思えた。もっとも考古学も生物学も私には縁のない話だ。せいぜい平穏に、このまま墓を調べられることも亀が駆除されることもないままでいてほしいと、身勝手なことを思うのであった。

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古墳とミドリガメ 矢木羽研(やきうけん) @yakiuken

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