第17話 変わらない景色のなかで

 朝の空気はひんやりとしていて、制服の袖の内側に少しだけ冷たさが残っていた。通学路の並木はすっかり色を変えていて、枝の隙間からこぼれる光がアスファルトにまだら模様を落としている。

 足元を見ながら歩いていると、影が少し前より細くなっていることに気づいた。季節が進んだことを、こういうときにふと実感する。

 ポケットに入れたスマホの画面が、何度か指に触れた。何を見るわけでもないのに、そうやって取り出してみたくなるのは、まだどこかに癖のようなものが残っているからかもしれない。

 ロックを解除すると、ホーム画面がすっと開いた。ルナのアイコンは、そこにあった。いつもと変わらない位置に、いつもと同じ色で。

 でも、もうしばらく開いていない。必要がなくなったわけじゃない。消したわけでもない。ただ、自然と触れなくなっていた。それが、今の僕だった。

 *

 教室に入ると、すでに何人かが席についていた。窓側の席にはルナがいて、ノートにペンを走らせている。

 席に着くと、彼女がふと顔を上げた。目が合い、ほんの少しだけ会釈する。そのしぐさはごく自然で、誰にも気づかれないくらい小さなものだった。

 でも、たったそれだけのやりとりに、妙に安心する気持ちがあった。以前よりも言葉は少ない。でも、その分だけ、言葉の奥にあるものが濃くなっている気がした。

 しばらくして、彼女がノートから顔を上げる。何かを思い出したようなタイミングで、こちらを見て、ぽつりと言った。

「で、好きなことは見つかった?」

 問いかけの調子は軽い。からかうでもなく、期待するでもなく、ただ思い出したように聞いただけ。けれど、その何気なさが、むしろ心に残った。

 僕は少しだけ考えて、それからゆっくりと答える。

「見つかった、って言い切れるわけじゃないけどたぶん、もう少しで分かる気がしてる。」

 彼女は、それに特に反応せず、ただ一度だけ小さくうなずいた。そしてまた、視線をノートに戻す。

 それだけのやりとりだった。

 でも、その言葉の余韻は、しばらく消えなかった。

 ——好きなこと、見つかったら——教えてね。

 記憶の奥から、ふいにあの言葉が浮かんできた。はっきりした約束だったわけじゃない。ただの、通りすがりのようなひとこと。でも、その声だけは、不思議と今もはっきり残っていた。

 ノートを取り出して、ページを開く。何も書かれていない紙の白さが、少しだけまぶしく感じた。同じ席、同じ景色。窓の外に広がる世界も、昨日とほとんど変わらない。

 でも今の僕は、この変わらない景色のなかで、ようやく落ち着いて座っていられる気がしていた。今日のこの空気が、なんとなくいいと思えた。

 それだけで、今は十分だった。

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どこにもいない君が、いつもそばにいた @takugon

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