夕暮れと音色
世界は、灰色と白のグラデーションでできている。少なくとも、高校一年生の私、水野詩織にとって、学校という箱庭の中ではそうだった。教科書の文字、ノートの罫線、無機質なチャイムの音。繰り返されるだけの、予測可能な毎日。感情を表に出すのが苦手で、クラスでもどこか浮いている自覚はある。別に、それが嫌なわけじゃない。ただ、少しだけ、息苦しい。それだけだ。
放課後。最後のホームルームが終わるチャイムは、私にとって自由への合図というより、単なる場所移動の合図でしかない。友人と呼べる子は数えるほどで、彼女たちはもう部活や帰り支度で忙しない。私はいつも通り、一人で図書室へ向かうのが常だった。
けれど、今日は少しだけ違った。担任に頼まれた学級日誌を、職員室へ届けに行くという、些細な用事。その帰り道、普段は通らない旧館の廊下を歩いていた。新館の喧騒が嘘のように、ここでは時間がゆっくりと流れている。埃っぽい空気と、微かに漂う古い木の匂い。西日が長い廊下に差し込み、床に落ちた光の粒子が、きらきらと静かに舞っていた。
その時、どこからか、ピアノの音が聞こえてきたのだ。
それは、クラシックの有名な曲ではなかった。けれど、力強く、それでいてどこか切ない、心を掴むようなメロディ。途切れ途切れに、スタッカートを刻むように。まるで、何かを探し、確かめているような、そんな音色。
音に導かれるように、私は足を進めた。音源は、廊下の突き当りにある、今はほとんど使われていないはずの第一音楽室からだった。重く、少しだけ軋む扉が、ほんの少しだけ開いている。隙間から漏れ聞こえてくるピアノの音は、より鮮明に、私の鼓膜を震わせた。
好奇心、というよりは、ただその音の正体を知りたいという衝動に突き動かされ、私はそっと、扉の隙間から中を覗き込んだ。
夕陽が差し込む、広い音楽室。埃をかぶった楽器たちが静かに佇む中、窓際のグランドピアノの前に、見慣れた背中があった。
佐伯 蓮 先輩。三年生。
彼を知らない生徒は、たぶん、この学校にはいない。整った顔立ち。色素の薄い髪。そして、いつもどこか不機嫌そうで、人を寄せ付けない鋭い雰囲気。女子からは「クールでミステリアス」なんて言われているけれど、私にとっては、ただ「少し怖い先輩」。話したことなんて、もちろん一度もない。遠くから、その冷めたような瞳と目が合って、慌てて逸らしたことが数回あるだけだ。
その佐伯先輩が、今、鍵盤の上に指を滑らせている。普段の彼からは想像もつかない、情熱的な姿。鍵盤を叩く指の動きは力強く、けれど繊細で、彼の内面に秘められた何かを、そのまま音にしているかのようだった。背筋は真っ直ぐに伸び、その横顔は、見たこともないほど真剣で、そして……どこか、苦しそうにも見えた。
いつもの彼が纏う、冷たい鎧のような雰囲気は、そこにはなかった。代わりにあったのは、音楽という世界に没入する、剥き出しの魂のようなもの。そのギャップに、私は息を呑んだ。これが、あの佐伯先輩……?
しばらく、私は息を潜めて、その光景に見入っていた。彼の紡ぎ出す旋律は、私の心の奥底にある、言葉にならない感情を揺さぶるようだった。灰色だった世界に、不意に、鮮やかな色彩が差し込んだような感覚。
夢中で聴き入っていた、その時。
不意に、ピアノの音が止んだ。そして、ゆっくりと、彼がこちらを振り返ったのだ。
――目が、合った。
夕陽を背にした彼の瞳は、逆光で表情が読み取りにくい。けれど、その眼差しは、いつも遠くから見ていた冷たい光ではなく、驚きと、そして、ほんの少しの……警戒心? のような色を帯びていた。
「……誰か、いたのか」
低い、落ち着いた声。けれど、その声には、普段の彼にはない、わずかな戸惑いが混じっているように聞こえた。
まずい。見つかった。盗み聞きしていたことがバレた。
全身の血液が、さっと引くのを感じる。怒られる? 無視される? どうしよう。逃げるべき?
「あ、あの……すみません! 通りかかったら、ピアノの音が聞こえたので……その……」
しどろもどろな言い訳。声が、震えているのが自分でもわかる。顔が、熱い。
先輩は、何も言わずに、ただじっと私を見ている。その沈黙が、重く、私の心臓を締め付ける。やっぱり、怒っているのだろうか。
だが、彼の口から発せられた言葉は、予想とは全く違うものだった。
「……邪魔、したか?」
え? 邪魔? 私が?
「い、いえ! そんな! 私の方こそ、勝手に覗いたりして、すみません! すぐに、行きますので……!」
慌てて踵を返そうとした、その瞬間。
「……別に、構わない。……もう終わろうと思ってたところだし」
彼はそう言うと、ピアノの蓋を静かに閉じた。そして、ゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。近づいてくる彼の姿に、私は身を固くした。普段の彼なら、私のような下級生など、気にも留めないはずだ。なのに、今は……。
「……一年生、か?」
私の目の前で立ち止まり、彼は言った。間近で見る彼は、思ったよりも背が高く、そして、やはりどこか、人を射抜くような強い眼差しを持っている。けれど、その瞳の奥に、冷たさだけではない、何か別の色が揺らめいているような気がした。
「は、はい……。一年、三組の、水野です……」
「……水野」
彼は、私の名前を、確かめるように小さく繰り返した。
「……さっきの曲、……どう思った?」
唐突な質問。私は、彼の意図が読めず、戸惑った。
「え……あ、あの……すごく、……綺麗、でした。力強くて、でも、なんだか……切ない、感じで……」
思ったことを、正直に口にする。彼の表情は変わらない。けれど、私の言葉を、真剣に聞いているのがわかった。
「……そうか」
彼は短く答え、視線を窓の外へ向けた。夕焼けが、空を茜色に染め上げている。その光が、彼の横顔を淡く照らしていた。長い睫毛、通った鼻筋、少しだけ薄い唇。普段、遠くから見ていただけでは気づかなかった、その繊細な造形。そして、その横顔に浮かぶ、どこか遠くを見つめるような、物憂げな表情。
これが、あの「怖い」とさえ思っていた佐伯先輩の、本当の姿なのだろうか。音楽に情熱を傾け、こんなにも豊かな感情を内に秘めている……。そのギャップが、私の胸を強く打った。
「……お前は、何か、やってるのか? 音楽とか」
彼が、再び私に視線を戻して尋ねた。
「い、いえ……。私は、全然……。昔、ピアノを少しだけ習ってましたけど、才能なくて、すぐにやめちゃって……」
思わず、自嘲気味な言葉が出てしまう。私は、彼のように、何かに打ち込めるものも、特別な才能も持っていない。ただ、平凡で、退屈な毎日を送っているだけだ。
「才能、ね……」
彼は、私の言葉を繰り返すと、ふっと、息を吐くように、小さく笑った。それは、嘲笑ではなかった。どこか、自嘲にも似た、苦い響きを含んだ笑みだった。
「……そんなもの、なくても、いいんじゃないか」
「え……?」
「……心で、感じたままに、音を出せばいい。……上手いとか、下手とか、……そういうの、関係ないだろ。……少なくとも、俺はそう思う」
彼の言葉は、静かだった。けれど、その言葉には、確かな重みがあった。それは、まるで、私の心の奥底にある、言葉にならない劣等感や、諦めのようなものを見透かされ、そして、優しく肯定されたような、そんな感覚だった。
才能がないから、と諦めていたピアノ。感情を表現するのが苦手な私。そんな私に、「感じたままに、音を出せばいい」と、彼は言ったのだ。
その瞬間、私の世界から、本当に音が消えた。
彼の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。その瞳の奥に、初めて見る、温かい光が灯っているように見えた。それは、夕陽のせいなんかじゃない。彼の内側から発せられる、確かな光。
心臓が、大きく、強く、脈打つのを感じる。世界が、色づき始める。灰色と白のグラデーションだった世界に、夕焼けの茜色、彼の瞳の深い色、そして、彼の言葉がもたらした、温かい光の色が、一気に流れ込んでくる。
息が、できない。胸が、苦しい。でも、それは、嫌な苦しさじゃない。むしろ、甘美で、切なくて、どうしようもなく心を揺さぶられる、初めての感覚。
これが、「恋に落ちる」ということなのか。
あまりにも突然で、あまりにも鮮烈な、心の変化。必然だった、と思えた。普段の彼を知っているからこその、このギャップ。そして、私の心の、一番柔らかい場所に、彼の言葉が、深く、深く、突き刺さってしまったから。もう、元には戻れない。世界は、彼という存在によって、色を変えてしまったのだ。
「……そろそろ、帰らないと。……日が暮れる」
彼が、少しだけ照れたように、視線を逸らして言った。その仕草すら、今の私には、特別な意味を持って見えた。
「あ……は、はい……!」
我に返り、慌てて頷く。まだ、心臓は激しく鳴り続けている。
「……じゃあ、俺はこれで」
彼は、軽く手を挙げると、私に背を向け、音楽室を出て行った。残されたのは、ピアノの残り香と、夕暮れの静寂、そして、色づき始めた世界の中で、呆然と立ち尽くす私だけだった。
彼の背中が見えなくなっても、私はしばらく、その場から動けなかった。胸の高鳴りは、一向に収まる気配がない。
佐伯 蓮 先輩。
ただ「少し怖い先輩」だったはずの彼が、今、私の世界の中で、他の誰とも違う、特別な輝きを放ち始めていた。
明日から、私は、どんな顔をして彼を見ればいいのだろう。この、制御できない感情を、どう扱えばいいのだろう。
わからない。けれど、一つだけ確かなこと。私の灰色だった世界は、もう、彼なしでは考えられないほど、鮮やかに色づいてしまったのだ。
音楽室を後にし、夕暮れの廊下を歩く。足取りは、なぜか少しだけ、軽かった。
【短編集】スキマ時間に、恋ひとつまみ。 タツキ屋 @tatsukiya
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