青空と、独占欲
五月の空は、嘘みたいに青かった。昨日までの、じっとりとした曇天を洗い流すような、鮮烈なまでのコバルトブルー。俺、神崎 隼人は、授業をサボるためのお気に入りの場所――西校舎の裏手にある屋外階段の最上段に腰を下ろし、その青さを漫然と眺めていた。
隣には、同じように階段に腰掛ける望月 凛がいる。風が吹くたび、一つに束ねられた彼女の黒髪がさらりと揺れ、首筋が覗く。普段、レース前に見せる、獲物を狙う獣のような鋭い眼差しは鳴りを潜め、今はどこか穏やかな光を宿して、同じように空を見上げていた。
陸上部の短距離エース。俺と同じ、二年後のオリンピックを目指すアスリート。そして、中学入学からの、腐れ縁。俺たちは、水と陸、全く違うフィールドで戦っている。練習を共にすることはない。互いの練習風景を直接見る機会もほとんどない。それでも、俺たちには共有しているものがあった。
「そういえばさ」
凛が、不意に静寂を破った。
「小学校の時、私が入ってたクラブのコーチに佐伯先生っていう人がいてさ」
「ああ」
「その先生、結婚するんだって。なんか、昔の仲間からグループLINEで連絡きててさ」
「へえ。めでたいな」
相槌を打ちながらも、俺の意識は、空の青さに溶けていくようだった。
「……うん。……なんか、懐かしくなっちゃって。……小学生の時、本気で好きだったんだよね、そのコーチ。まあ、今思えば、ただの憧れだったんだろうけど。初恋、ってやつかな」
凛は、少し照れたように、はにかむように言った。その、普段の彼女からは想像もつかないような、柔らかい表情。それが、俺の胸の奥を、ちくり、と刺した。昔の話だ。分かっている。それでも、面白くないものは、面白くない。
俺が黙り込んだことに気づいたのか、凛が不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。
「あれ? どうしたの、隼人。黙っちゃって。……笑ったりしないの? 小学生が、大人に本気で恋してたなんて。今思うと、結構イタいっていうか、笑えるでしょ?」
彼女は、自分を茶化すように、からりと笑おうとした。だが、その笑顔は、少しだけぎこちなかった。
俺は、ゆっくりと息を吐き出し、彼女の、少し戸惑いの色を浮かべた瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。
「いや、思わないな」
「え?」
「笑うとか、そういうんじゃなくて……。どっちかって言うと、あれだ」
言葉を探す。ずっと心の奥底にあった、認めたくなかった感情。だが、今、この青空の下なら、口にできるかもしれない。
「……嫉妬してた」
「……は? しっと?」
凛が、間の抜けた声を上げる。当然の反応だろう。
「あんたが? なんで? 誰に? ……佐伯先生に?」
「ああ」
俺は、苦々しさを隠さずに頷いた。
「お前の、初恋の相手が、俺じゃない。その事実に」
「なっ……! 何言ってんのよ!? あんたには関係ないでしょ! 大体、私たちが知り合ったのは中学からで……」
凛の声が、戸惑いと、ほんの少しの怒りで裏返る。その反応すら、今の俺には、どこか愛おしく感じられた。
「関係なくない」
俺は、階段の手すりを支えに、彼女との距離を少しだけ詰めた。真っ直ぐに、彼女の揺れる瞳を見据えて、告げる。
「俺はな、凛。かなり、エゴな人間なんだぞ。自覚してる」
「……何よ、急に」
「二年後のオリンピックの、あの真ん中の表彰台。あそこだって、絶対に俺が立つ場所だって、本気で信じてる。他の誰にも譲る気はない。それくらいの、エゴの塊だ」
俺たちは、似ている。中学に入ってすぐ、互いの競技に現れた「化け物」――規格外の才能を持つ同年代の存在を知った。世界トップの才能との絶望的な差を突きつけられ、自分たちは「人間」でしかないのだと痛感した。それでも、俺たちは諦めなかった。「化け物を倒す英雄は、いつだってただの人間だ」――そんな、青臭い信念を共有し、互いを支えに、ここまで来た。
出会って数ヶ月の頃だったか。俺は、彼女に言ったんだ。「お前が、俺と同じように足掻いて、上を目指してる。その事実だけで、俺は頑張れる」と。あの時の、驚いたような、それでいて、何かを決意したような彼女の顔を、今でも覚えている。
それ以来、俺たちは特別な関係になった。恋人じゃない。友達でもない。互いの孤独を理解し、苦しみを分かち合い、時には甘え、時には叱咤し、それぞれの戦場で戦い続けてきた。どちらかが心折れそうになれば、何も言わずに隣にいる。それだけで、また立ち上がれた。俺にとって、彼女はそういう存在だ。
「オリンピックの金メダルも、自分のものだって思い込んでるくらいのエゴ持ちだぞ、俺は」
俺は、言葉を続ける。もう、止められない。
「――だったら、好きな人の心だって、独占したいに決まってるだろ」
告白。素直な言葉ではない。けれど、俺の気持ちは、きっと伝わっているはずだ。この、長年抱えてきた、厄介で、どうしようもない独占欲。それは、彼女に向けられた、俺なりの最大の好意なのだから。
凛は、息を呑み、言葉を失ったようだった。見開かれた瞳が、大きく揺れている。驚き、戸惑い、そして……理解。様々な感情が、その琥珀色の瞳の中で渦巻いているのがわかった。
風が、俺たちの間を吹き抜けていく。彼女の髪が、俺の頬を掠める。
やがて、彼女の頬が、じわり、と赤く染まっていく。それは、夕焼けのように、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の肌を染め上げていく。
「……っ」
彼女は、何かを言おうとして、口を開きかけた。けれど、結局、言葉にはならず、俯いてしまう。肩が、小さく震えている。
沈黙が、落ちる。気まずい、けれど、嫌ではない沈黙。青空だけが、変わらず俺たちを見下ろしている。
「……ばか」
ようやく絞り出されたのは、そんな、掠れた呟きだった。それは、怒りでも、拒絶でもない。もっと、ずっと甘く、そして切ない響きを持っていた。顔を上げられない彼女の、耳まで真っ赤になっているのが、はっきりと見えた。
その反応だけで、十分だった。俺たちの間に、言葉はもう必要ない。
俺は、ただ、隣に座る彼女の存在を、その温もりを、強く感じていた。五年間、積み重ねてきた時間。共有してきた想い。それが、今、確かに形を変えようとしている。
青空は、どこまでも高く、どこまでも澄み渡っている。俺たちの未来も、きっと、この空のように、どこまでも続いていくのだろう。エゴイスティックな俺と、俺と同じように足掻く彼女。二人でなら、きっと。
俺は、小さく息をつき、彼女と同じように、空を見上げた。言葉のない時間が、ただ、ゆっくりと流れていく。初夏のような風と共に。
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