第38話「風鳴の渡り廊と、“孤独な契り”」

 封じられた神託の島を後にしてから数日、ミサとレティアは北東に向かっていた。


 道なき山間を抜け、雲と霧に覆われた吊り橋の群れへと辿り着く。

 そこは《風鳴の渡り廊(かざなりのわたりろう)》と呼ばれる地。天空を這うように架けられた古の橋が、風に唸りを上げる場所だった。


 渡り廊の下には深く黒い谷が広がり、その底は目視すら叶わない。時折吹く風が橋を大きく揺らし、か細い音が空に溶けていく。


「……ここ、まるで風そのものが泣いてるみたいだ」


 ミサの呟きに、レティアは周囲に警戒を払いながらも静かに頷いた。


「この場所、昔の記録によれば“契約を拒まれた者たち”が最後に辿り着いた場所らしい。風に言葉を託して、どこか遠くへ送ろうとしたって」


 風に乗せて届かなかった願い。

 それは、かつて交渉の対象にすらなれなかった者たちの“孤独な契り”だった。


 ミサの胸の奥がひときわ強く脈打つ。

 《慰留契約》が、その場に眠る未練と共鳴し始めていた。


 ふたりは最も古びた橋へと足を踏み入れた。

 板は朽ちかけていたが、不思議と踏み外すことはなかった。

 それは、きっと橋そのものが“語るべきもの”を待っていたからだ。


 橋の中程で、突然ミサの視界が大きく揺れた。

 風が唸りを上げ、空間が一瞬だけ裏返る——


 そして、彼女の目の前に“ひとりの青年”が現れた。


 彼は薄い灰色の衣を纏い、顔には無表情という名の仮面が貼り付いていた。

 しかし、その目は深い湖のように静かで、どこか“祈り”に似たものを抱いていた。


「あなたは……」


 ミサが問いかけると、青年は首を横に振る。


 《名前を持たなかった者》——その魂は、何百年もこの橋に立ち続け、“交渉されること”さえ望まなかった。


 ミサは、静かに一歩前に出る。


「あなたの声を、私に渡して。どれだけ短くても、かすかでもいい。……たとえ、それが“風の音”だとしても、私は拾う」


 青年の目が揺れた。


 そして、口を動かさないまま、彼は“視線”で語り始める。


 ——かつて彼は、大切な人の身代わりとして契約の場に立った。

 だがその願いは聞き届けられず、自らが望まれた者ではないことを突きつけられた。


 “誰かのため”の声すら、選ばれなかった。


 以来、彼は橋の上で風に言葉を乗せ続けた。けれど、風は何も返してはくれなかった。


「……つらかったね」


 ミサの声が震える。


「あなたは誰かを救おうとして、自分の言葉すら捨てたのに、誰にも認めてもらえなかったんだね」


 彼女はそっと手を差し出す。


「でも、私は“あなたの選んだ沈黙”を尊重したい。あなたが声にしなかった言葉を、私が聞く」


 その瞬間、青年の背後に風が巻き起こる。

 それはかつて彼が風に預けた“断片的な願い”の残響だった。


 《誰かの代わりでもいい——誰かが笑ってくれれば、それで》


 ミサの胸に、強く刺さる。


 彼女はその願いに応えるように、優しく呟いた。


「あなたの願いは、届いたよ。いま、わたしが受け取ったから」


 そして、ミサの手が青年の掌に触れた瞬間——


 彼の姿は、まばゆい光となって風へと還っていった。


 現実に戻ると、渡り廊の風は穏やかに変わっていた。

 まるで“叫び”から“囁き”へと変化したように。


 レティアがそっとミサの肩に触れる。


「……あんた、本当にすごいな。言葉にされなかった想いすら、ちゃんと聞いてる」


「ううん。聞きたくて、ずっと足を止めてるだけ。私、自分の声を持てなかった人間だったから……今度は、誰かの声になりたいの」


 その言葉に、レティアは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ミサの優しさは、時に鋭く、時に壊れそうだった。

 けれど、その不器用なほどの誠実さが、誰よりも強いと彼女は思った。


 そして——


▶ スキル共鳴:《契約輪唱》と《慰留契約》が融合。

 新スキル《遺響の契約(リミナリス・ハーモニア)》を獲得。

 言葉を交わす前に消えた願いを拾い、魂の断片を再構築することが可能。


 風が止み、静けさが戻る。

 けれど、それは“無関心の沈黙”ではない。

 “願いを包む沈黙”へと変わっていた。


 ふたりは渡り廊を抜け、次の地平へと歩みを進めていく。


 そこに待つのは、まだ知らぬ誰かの“心の音”。


 ——そして、終わらない交渉の旋律だった。


(つづく)

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