第7話「恐怖との対面と、“契約”の誘い」
深夜、アーヴィンの町は眠っていた。
窓にかかるレースのカーテンが、かすかな風でゆらゆらと揺れる。
石造りの建物が連なるこの町でも、夜は静寂に包まれる。時折、どこかの屋根裏から猫の鳴き声が聞こえるくらいだった。
ミサはベッドに身を横たえていたが、なかなか眠れなかった。
目を閉じるたびに、あの“紅い瞳”が脳裏に浮かぶ。
(また……見ている)
夢ではない。
自分を監視しているような、張りつめた視線。
それが心の奥に重く、しつこく残っていた。
「……っ」
起き上がって、水差しから一杯の水を注ぐ。ぬるい水が喉を通ると、少しだけ意識が落ち着く。
ふと窓の方に目をやった瞬間だった。
——そこに、いた。
窓の外、屋根の上。
黒いローブに身を包み、闇に溶けるように佇む女。風もないのにローブの裾がなびいている。
その顔は、夢で見たまま。
長い黒髪に、左頬を走る赤い魔紋。
何より、真紅の瞳が月明かりに煌めいていた。
ミサは反射的に後ずさり、杖を手に取った。
だが、叫ぶよりも早く、女の唇がゆっくりと動く。
「……怯えることはない。まだ“始まり”に過ぎないのだから」
声が、直接頭の中に響いた。耳で聞くものではなく、思考の中にねじ込まれるような感覚。
気づけば女の姿は窓の外から消え、次の瞬間、ミサの背後から声が届いた。
「あなたの“交渉”の力、私にも分けてほしいの。少しだけでいい。痛くしないわ」
振り返ると、そこに“スカアハ”が立っていた。
時空がねじれたような感覚。瞬きの間に距離を詰めてきたのだ。
気配を殺し、壁を越えて、音もなく入り込むその存在は——まるで悪夢そのものだった。
「……な、にを……!」
「契約を、しない?」
スカアハは柔らかく微笑んだ。
だがその笑みの奥には、深い闇が渦巻いている。感情を持たない人形のような美しさが、逆に恐ろしさを際立たせていた。
「あなたの力……“交渉の極意”。それは、本来、私たちの側に属するもの」
「属する……?」
「そう。交渉とは、契約と取引。欲望と理を渡り歩く“堕ちた才”の証。あなたの魂は……いずれ、こちら側に引き寄せられるわ」
スカアハの手が、すっと伸びてくる。
長く白い指先が、ミサの頬に触れようとした瞬間——
ドォンッ!
扉が蹴破られるように開き、レティアが飛び込んできた。
「ミサ、伏せろ!!」
鋭い叫びと同時に、レティアの大剣が煌めく。
剣先がスカアハのローブを裂いた——はずだった。
だがその瞬間、スカアハの姿は霧のように溶けて消えた。
「……やっぱり、ただの投影だったか」
レティアは警戒を解かず、部屋の隅々まで目を走らせる。
ミサは呆然とその光景を見ていた。心臓が激しく脈打ち、呼吸が浅くなる。
「ミサ、大丈夫!?」
レティアが駆け寄って、彼女の肩を抱いた。
「う、うん……たぶん……」
「しっかりして。……クソッ、これほど明確な“魔眼の
「
「奴の魔眼の力の一端。直接現れたわけじゃないけど、“魔力の投影”だけでここまで干渉されたってこと」
ミサは自分の肩を見た。
そこには、淡い赤い痕が残っていた。スカアハの手が触れかけた箇所だ。
「……わたし、あの人に“選ばれてる”?」
震える声で呟くと、レティアは強くうなずいた。
「そうだ。でも、それは逆に言えば——“お前にそれだけの価値がある”ってことだ」
「価値……」
その言葉を噛みしめるように、ミサは目を伏せた。
こんなにも恐ろしくて、理不尽で、理解できない力に巻き込まれているのに。
それでも、心のどこかで——
(この世界で、私の存在が、誰かに“必要とされてる”ってことなのかな……)
そんな想いが、ほんの一滴だけ、静かに胸に灯った。
翌朝。ギルドは異様な空気に包まれていた。
夜中に街の外れの集落が襲撃され、いくつかの家が焼け落ちたという。
現場に残されたのは、赤い魔紋の刻まれた石片。
「完全に、スカアハの手口だ……」
ギルド長が顔をしかめる。
「転生者がいる街を狙って“揺さぶり”をかけてるのかもしれないな」
レティアは、ミサを守るようにその肩に手を置いた。
「ミサ、もう覚悟を決めた方がいい。これは、もう“ただの生活”じゃ済まされない」
「うん……」
ミサは小さくうなずいた。
「私、自分の力で向き合ってみたい。もう誰かに背中を押されるんじゃなくて……自分の意思で、立ち向かいたいの」
「よく言った」
レティアは、誇らしげに笑った。
「それなら、一緒に戦おう。私たちは、もう“同じ戦場”にいるんだから」
ミサはゆっくりと顔を上げた。
恐怖はまだ消えていない。震えも残っている。
けれど、もう逃げないと決めた。
この世界で、自分の意思で、誰かを守り、愛し、そして——生きていくために。
(つづく)
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