『罵詈造金(ばりぞうごん)―老害と呼ばれた鍛冶師、呪いを鍛えて世界を救う―』
縁肇
序章「鋼の心、罵詈に沈む」前編
「そこ、角立ってる。仕上げ砥石、三番じゃなくて五番使え」
そのひと声で、まるで作業場の空気が一瞬、真空になったかのように沈黙した。
刃物を押し当てていた音が、止む。
高回転していたグラインダーの唸りが、どこか曇ったように聞こえる。
誰もが、手を止めて、ちらりとこちらを見た。
だが、目を合わせた者はひとりもいない。
反応はわずか一瞬。
それだけでわかる。
俺が何かを言えば空気が悪くなる、そんな空気だ。
「……また始まったよ」
背後から、ぼそりと声が漏れる。
はっきりとは聞こえない。でも、耳が覚えている。
もう何度も繰り返されてきたからだ。
作業台の向こう側、三人の若手が並んでいた。
彼らはみな二十代。
工業高校を卒業してすぐにこの町工場に入ってきた連中だ。
安全靴のかかとを踏み、制服の袖をまくり上げ、インカムを片耳に着けながら作業している。
ひとりはイヤホン越しに音楽を流しているらしく、リズムに合わせて小さく体を揺らしていた。
もうひとりは機械の操作パネルを適当に操作しながら、スマホでチャットを打っている。
最後のひとりは、俺の方を見たまま、舌打ちを噛み殺していた。
「またですか、朝霧さん」
冷めた声音でそう言ったのは、その三人の中でもいちばん口の悪いやつ――
「今どきそこまで研がなくていいっスよ。AIラインで最終整形入れるんですし。そんな手間かけるとか、非効率っしょ」
顔は笑っている。
だが、その目には敬意のかけらもない。
むしろあからさまに「うざい」と書いてあるような瞳だった。
横にいたもうひとりが、機械に視線を落としたまま呟く。
「だいたいその指示、前時代的っすよね。なんか“昭和の根性論”って感じ」
「いやマジで。いちいち“その角度じゃバリ出る”とか、細かすぎ」
「今の製品、ユーザーがバリなんて気にしねぇっスって」
どこかで誰かがくすくすと笑った。
抑えきれない、あざけり混じりの鼻笑い。
俺は、喉の奥で息を吐いた。
砥石を替えろ。角度を調整しろ。
そんな当たり前のことが、今ではもう“悪”とされるらしい。
何度も言われてきた言葉が脳裏をかすめる。
――老害。
教えるという行為すら、時代錯誤なのだと。
朝霧正道。六十歳。
この町工場に入って四十二年。
見習いから叩き上げ、いまや現場班長。
だがこの肩書も、あと三日でただの“元社員”になる。
そして俺の“声”も、“指”も、“目”も、
この現場から完全に消える。
---
「朝霧さん、ちょっといいっスか」
休憩室で缶コーヒーを開けた俺に、無遠慮に声がかかる。
スマホ片手に座ってきたのは、飯塚春人――この工場で唯一、“俺の弟子”だった男だ。
いや、“だった”という過去形すら生ぬるいかもしれない。
彼は今や現場の実質的な統括。
若手に慕われ、工場長からは「改革の旗手」などと呼ばれている。
その自信が表情に出ている。
袖をまくったワイシャツ、ゆるめたネクタイ、上から目線の姿勢。
工場の中でも、まるで自分だけが“管理者”であるかのように振る舞う男だ。
「新人、辞めましたよ。朝霧さんの“指導”が原因って話、もう工場長にも伝わってます」
“指導”の語尾に、わざとカギカッコをつけるような口ぶり。
「怒鳴っちゃいない。ただ、“砥石を替えろ”って言っただけだ」
俺の声は低かった。
怒気は込めなかった。言い訳もしなかった。
ただ、伝えたかっただけだ。
だが、それがもう通じない。
「それを“怒鳴り”って取られた時点で、もうアウトなんスよ。……時代、見えてます?」
その言葉は、研磨不足のバリのように、じわりと心に刺さる。
「ていうか朝霧さん、いつまで“俺が正しい”って顔してんスか? 現場が迷惑してるんですよ。“昔はこうだった”とか、“俺の頃はこうだった”とか……その考えが“罵詈”なんスよ」
口調はあくまでフラットだった。
だが、その裏にある感情は、はっきりと見えた。
俺に対する侮蔑。軽蔑。憎悪すらあった。
「何様なんスか、マジで。もう定年でしょ? さっさと引いてくれって空気、読んでくださいよ」
「……俺は、ただ正しい仕事を」
「正しい? 誰が決めたんスか、それ。あんたの感覚? 時代遅れの“手感”でしょ?」
ズドン、と心に何かが落ちる音がした。
胸の奥で、鋼材にクラックが入るような感触。
それでもなお、俺は黙っていた。
今さら、何を言ったところで――
この若者たちには、届かない。
---
定時後の現場。
機械は停止し、照明もひとつふたつ落ち、影が長く伸びていた。
俺はロッカー前のベンチに腰を下ろし、工具箱を開く。
中には、四十年以上使い続けてきたピンセットが一本。
先端は、今も静かに銀色の光を反射していた。
わずかな歪みすらないよう、何度も何度も研ぎ直した先。
指に吸いつくような感触に、ほんの少しだけ救われた気がした。
「……バリは、人の心にもあるんだな」
ぽつりと漏らした言葉が、静寂の中に吸い込まれていく。
小さくて、鋭くて、見えにくくて。
気づかないうちに、相手を傷つけている。
削らなきゃいけない。でも、削りすぎてもダメだ。
それが、職人の技術ってやつだ。
罵詈も――同じか。
あのときの言葉も、今の言葉も、
俺の“削り方”が悪かったのかもしれない。
「……伝わらなかったんだな、何一つ」
過去を思い出す。
──ねぇ、マサくん。あたしたち、ほんとに結婚するんだね。
その声は、少しだけ鼻にかかったような、甘ったるい響きをしていた。
口元を両手で覆って、それでも笑いきれないように、くすくすと笑っていた。
彼女の名は、百瀬沙季(ももせ・さき)。
二十七歳。営業事務の仕事をしていた。
俺より五歳年下で、年の差のせいか最初は敬語だったが、いつの間にか、自然に名前で呼ぶようになっていた。
初めて会ったのは、取引先との納期調整でトラブルが起きたときだった。
彼女の冷静な対応と、咄嗟に出した段取り表を見て「頭のいい女だ」と思った。
会話のテンポが良くて、気配りがあって、笑顔が明るい。
そんなふうに思ったのは、社会人になって初めてだった。
自分なんかが、こんな女性と釣り合うのか――
正直、付き合い始めの頃は、そればかりを考えていた。
だが、沙季は「一緒にいて落ち着く」と言ってくれた。
「手の匂いがすき」「工具箱を開ける音が、生活音って感じがして好き」
そう言われたときには、思わず泣きそうになった。
何も持っていなかった俺に、未来を見てくれた人。
たとえ平凡でも、一緒にコーヒーを飲んで、テレビを見て、夜にはくだらない話をして眠れる――
そんな日々が、きっと来ると思っていた。
籍を入れたのは、ちょうどその年の春だった。
周囲に「少し早いな」と言われたが、俺は少しでも早く、彼女と家族になりたかった。
式場は、町から少し離れた丘の上。
ガラス張りのチャペルから、海が一望できる会場だった。
「ここに立ったら、あたし泣いちゃうかも……」
下見のとき、沙季はそう言って、俺の腕にしがみついた。
そのときの温もりを、俺はまだ覚えている。
あんなふうに誰かと肩を並べて未来を見たのは、あれが最初で、そして最後だった。
式の準備は、想像以上に大変だった。
招待状の手配、親族の交通費、席次表、花の色、ドレスの小物、引き出物の候補。
彼女は器用に段取りを組み、俺は夜勤明けでも書類の確認を手伝った。
「マサくんの手って、ほんと大きいね」
「仕事してる男の手って感じ。……あたし、すごく安心する」
その言葉に、報われた気がした。
この手が、ただの金属を削るだけのものじゃなく、
誰かを支える手だと、初めて思えた瞬間だった。
彼女と一緒にいる未来のために、俺は住宅ローンを組んだ。
式場への支払いや披露宴の頭金も、俺の名義で契約した。
彼女の姓に合わせたハンコも作った。
全ての準備を整え、あとは一週間後の式を待つだけだった――
──その朝、彼女は消えた。
出勤の時間になっても、家にいない。
携帯はつながらず、職場にも来ていないという。
嫌な胸騒ぎがした。
だが、まさか――そんなことはないと、信じたかった。
けれど、リビングの机の上には、白い封筒が一通だけ残されていた。
開ける手が、ひどく震えた。
『ごめんなさい。本当は、あの人のほうが好きだったの』
たった、それだけだった。
文章の行間に、何の説明もない。
誤字すらない。
まるで、既に心の中で終わっていた想いを、ただ書き写しただけのような文章。
その「彼」とは、沙季の職場の上司――年上の既婚男性だった。
何度か話を聞いたことはあったが、まさか自分がその相手にされるとは夢にも思わなかった。
彼女が姿を消したその日の夜、
彼女のスマホから最後に届いたメッセージは、たった一行だった。
『籍のこと、好きにしていいよ』
その後、俺の元には、次々と現実だけが押し寄せてきた。
キャンセル料。違約金。予約金の支払い請求。
新居の解約。家具の返品。新婚旅行の取り消し手続き。
すべて、俺の名前で契約されていた。
合計額、一千二百六万八千円。
笑えるような金額だった。
いや、笑うしかなかった。
親に土下座して詫び、友人には式の中止を連絡し、同僚からは「女に逃げられた伝説の男」として茶化された。
それでも、怒鳴らなかった。
泣かなかった。
ただ、働いた。
夜勤を増やし、休日出勤を申し出て、機械が動く限り工場にいた。
飯を切り詰め、娯楽を捨て、十年かけて、全部払った。
誰にも頼らず、一円も踏み倒さず、全部だ。
払い終えた夜、俺は銭湯の脱衣所で、ひとり号泣した。
誰もいなかったから、声を殺して泣いた。
それでも、誰かに助けてほしいなんて、思わなかった。
もう、誰も信じないと決めたからだ。
「信じた俺が、バカだったんだよ……」
その言葉は、今でも胸に残っている。
鉄のように冷たく、鈍く重い。
愛も、未来も、信頼も、所詮は言葉だ。
それがどうして人を救うと思っていたんだろう。
言葉は、いつだってバリみたいに鋭くて――
刺さったら、そう簡単には抜けやしない。
指先に残るのは、鉄粉の感触と、ピンセットの冷たい金属の温度だけ。
この手は、誰も守れなかった。
けれど、それでも――削り続けてきた。
誰かが怪我をしないように。
誰かが安心して使えるように。
その信念だけは、誰にも裏切らせない。
たとえ罵られても。
たとえ、時代に取り残されても。
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