【三題噺】止まった花の名前を君に

本日の三題:廃墟の温室、名前のない花、止まった時間


 街の外れに、取り壊される予定の植物園の廃墟がある。

 今はもう誰も入らないその場所に、カメラ片手に忍び込むのがリオの密かな楽しみだった。廃墟巡りは趣味だし、被写体としての価値も高い。古びたガラス越しに射し込む光や、ひび割れた床に根を張る植物たちは、どこか絵画的で美しかった。

 その日も、午後の光が傾き始めるころ、リオはひとり温室へと足を踏み入れた。

 ガラスが割れた天井からは、やわらかな光が漏れている。土の匂いと湿気の混ざった空気のなか、彼女は何気なくカメラを構えた。

 そして、気づいた。

 中央の石畳の先に、小さな花が咲いていた。

 それは他のどの植物とも違っていた。透き通るような白。ほんのり青みを帯びた花弁。風もないのに、かすかに揺れているように見えた。

「……なに、この花」

 近づいてみると、足元に立札があった。

 けれど、そこには何も書かれていない。

「名前、ないの……?」

 リオはしゃがみ込み、シャッターを切る。

 ファインダー越しに覗いた瞬間——視界が、ぼやけた。



 目を開けると、温室の中はほんの少し違っていた。

 割れていたはずのガラスが綺麗に修復されている。  雑草もなく、整然と手入れされた緑たち。

 なにより、目の前に一人の少年が立っていた。

 年のころはリオと同じくらい。白いシャツ、黒いスラックス。どこか時代錯誤な雰囲気。

「……見えるんだ、君に」

 少年は、驚いたように目を丸くした。

「……誰?」

「名前は……忘れた。けど、ここにいる理由は、ずっと覚えてる」

 リオは夢を見ているのだと思った。だけど、その光景も、空気も、肌に触れる熱もあまりにリアルだった。



 少年はこの温室で“消えた”存在だった。

 かつて、植物園で働いていた人の子どもだったこと。  事故で命を落とし、この場所に取り残されてしまったこと。  そして、温室の真ん中に咲く「名前のない花」に、自分の記憶が宿っていること——

「この花が咲いてる間だけ、僕はここにいられる」

 少年はそう言って、そっと花に触れた。

「君がカメラで撮ったから、僕の時間が一瞬だけ動いたんだ」



 数日後、リオはもう一度温室を訪れた。

 あの日と同じ時間、同じ位置に立つ。

 少年はまた、そこにいた。

「君が来ると、なんだか風が吹く気がする」

 リオは笑った。

「じゃあさ、その花に名前をつけたら? 君の、時間の名前」

 少年はしばらく考えたあと、ぽつりと呟いた。

「“リオ”。君の名前、もらっていい?」

「……いいよ」

 ふたりは、しばらくのあいだ言葉を交わし、笑い、名もなき空間に色を取り戻していった。



 取り壊しの前日。

 リオは、もう一度温室に足を運んだ。

 けれど——少年はいなかった。

 温室の真ん中には、一本の花。

 その根元に、細い枝で書かれた文字があった。

『花の名前:リオ』

 リオはそっとカメラを構えて、最後の一枚を撮った。

 それが、止まっていた時間が動き出した証だと思ったから。


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