3ワード・ストーリーズ

夜月 朔

2025年

4月

【三題噺】鍵の先の運命

本日の三題:無くした鍵、おみくじ、黒猫


 神社の石段を登りきると、春の風に揺れる桜の花びらが、どこか懐かしい匂いを運んできた。

「本当に、ここにあるのかな……」

 凛は胸ポケットから祖父の日記を取り出す。黄ばんだページには、震える字でこう書かれていた。

 ——“鍵は神の下、桜の影にて守られる”

 祖父が亡くなって半年、遺品の整理中に見つけたその小さな鍵を、凛はつい最近、失くしてしまった。

 あれほど大切に仕舞っていたのに——と悔やんでも遅い。

 祖父は口数の少ない人だったが、孫である自分にだけはよく笑ってくれた。庭で将棋を打ち、夕焼けを見ながら昔話をしてくれた。あの時間が、もう二度と戻らないという現実は、今も凛の心に穴を空けていた。

 日記にはもう一つ、不思議な言葉が綴られていた。

 ——“最後に鍵を返すのは、お前の役目だ”

 その意味も、今の凛には分からない。ただ、心のどこかで、祖父の「何か」がまだ終わっていないと感じていた。

 境内には、誰の姿もない。昼下がりの柔らかい日差しが、桜の影を地面に映している。風が吹くたびに、花びらが舞い落ちる。

 手水を済ませ、本殿の前で手を合わせると、ふと視界の端に「おみくじ」が見えた。

 ——これも、何かの縁かもしれない。

 木の箱から一本を引き抜く。小さな紙片には「末吉」とあり、珍しく文章の長いお告げが書かれていた。

 > 失われしものは、黒き影の導きにより再び見つかるだろう。

 > それは記憶の鍵。未来を開く道となる。

 凛は、ふと笑った。「占いのわりに、大げさだな……」

 けれど、まるでその言葉に呼応するように、背後から「にゃあ」と猫の鳴き声がした。

 振り返ると、黒猫が一匹、境内の石灯籠の上に座ってこちらを見ていた。つややかな毛並み。透き通るような緑の目。

「……君も、なにかの使い?」

 黒猫はおもむろに石灯籠を飛び降り、凛の足元へと近づく。そして前足で、凛のポケットをちょいちょいとつついた。

 その瞬間、ポケットの底から何かが落ちた。

 それは、確かに失くしたはずの——小さな古びた鍵。

「嘘、なんで……?」

 黒猫はそれを咥えると、くるりと背を向け、境内の裏手へと走り出した。

「ちょ、ちょっと待って!」

 凛は半ば反射的に後を追った。黒猫は振り返りもせず、まるでこの道を知っているかのように、迷いなく駆けていく。

 境内の裏山へ。普段は人が立ち入らない林の中。ぬかるんだ土の上を駆け抜け、やがて木々の合間に、古びた倉庫のような建物が現れた。

 半ば土に埋もれてはいるが、確かに、そこに何かがある。

 黒猫は入口の前にちょこんと座り、凛をじっと見上げた。

「ここが……?」

 扉の中央には、小さな鍵穴があった。

 ——まさか。

 凛は息を呑み、震える手で鍵を差し込む。ゆっくりと回すと、カチリ、と確かな音が鳴り、扉はきしみながら開いた。

 内部は薄暗く、埃の匂いが鼻をつく。だがその一角、棚の上に並んでいたのは、整然と保存された古い画用紙だった。

 凛はその中の一枚を手に取る。黒インクで描かれたスケッチには、神社の桜の木の下で、黒猫と一人の女性が佇んでいた。

「……おばあちゃん?」

 記憶の中で見た、若かりし日の祖母の面影が、そこにはあった。

 裏に回すと、丁寧な筆致で文字が記されていた。

 > 彼女と出会い、私は人生を変えた。すべての始まりは、あの春の神社だった。

 > この鍵は、あのとき閉ざした私の想いの扉。いつか、君が開いてくれると信じていた。

 凛の目に涙が滲む。

 祖父の沈黙の裏に、こんなにも深い記憶と想いが隠されていたなんて。あの日、誰にも語らなかった出会いの記憶。黒猫は、ふたりの縁の証だったのだろうか。

 凛は倉庫の中央に腰を下ろし、絵を何枚も何枚もめくっていった。そこには、若い二人の人生が、淡々と、しかし愛おしく描かれていた。

 ふと気づけば、黒猫の姿はどこにもなかった。

 ——ありがとう。君がいなければ、きっと見つからなかった。

 凛は鍵を胸にしまい、立ち上がった。

 祖父の「物語」は、終わっていなかった。凛が受け取ったのは、ただの記憶じゃない。これは、自分の歩むべき未来への導きでもあるのだ。

 春風がまた、花びらを舞わせていた。


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