夜に噛みつく

烏丸りえ

夜に噛みつく

 私にとって唯一、上手く呼吸ができる場所。自分を解放できる場所。それがライブハウス。

 その小さな楽園で、息が詰まる相手に出くわすなんて。



 細い階段を駆け下りれば、極彩色の夜が始まる。

 着替えたかったけど、もうすぐ開演の時間だから仕方なくスーツのままフロアに足を踏み入れた。

 思ったよりも人がいて、最後列の人々と壁の間に滑り込む。

 おかしいところがないかコンパクトミラーを開いてチェックしていると、目の前に立っている男性が振り返った。

「見えます?」

「はい。お気遣いなく」

 整った顔立ちの背の高い人だった。

 本当は背中しか見えないけど、遠慮されるわけにはいかない。ここは楽園ではあるが戦場でもあるのだ。

 間もなく暗転して音の洪水に呑まれる。

 私と同じくらいの年齢層のインディーズバンド。

 なのにステージ上の人たちは瞳の輝きをなくさずキラキラとしている。

 眩しかった。

 そのまなざしが。

 鮮やかな音が。

 対照的に草臥くたびれた自分を照らしていく。


 高校を卒業したとき、ブランドを喪ったと思った。

 大学を卒業したときには、モラトリアムが許されなくなったと感じて恐くなった。

 新入社員のラベルが剥がれたとき、若さの盾が消えてしまった。

 私は次に何を失うのだろう。

 なぜこの人たちは失わずにいられるのだろう。

 失わない彼らの澄んだ音を浴びるこの瞬間だけは、私も童心に返れる気がして、一心不乱に拳を突き上げた。



「大丈夫ですか?」

 気づけば先ほどの男性に見下ろされていた。

 公演が終わっても放心して立ち尽くしていたせいだ。

「タオル、これしかなくて……」

 彼はそう言いながら首にかけたタオルの裾を持ち上げた。

 そんな彼の顔にどこか既視感を覚えて、記憶の糸を手繰る。

 ……そうだ、むかつくアイツに似ている。

 気づいた途端、彼のタオルを思い切り掴んで目蓋の下を拭ってやった。

「まじか」

「親切心は猫をも殺すんですよ」

「好奇心では……?」

「うるさいですよ」

 まさか本当に使われるとは思っていなかったんだろう。

 私だってムシャクシャしていなければ丁重にお礼だけ言って去るところだ。

 雑に拭ってしまったためコンパクトミラーを取り出してチェックする。

 その間彼は去らずに待っていた。

 しかし、よく見れば見るほど似ている。

「俺、りょうって言うんですけど。お姉さんは?」

 その瞬間、息が止まった。

 ――まさか。

「リホです」

 咄嗟に嘘が口を衝いて出た。防衛本能だ。

 小学校を卒業して以来会わなかったし、一目見たくらいでは気づかなかったのに、今になって古傷が開く。

 坂東ばんどうりょうは、いわゆるクラスの一軍男子だった。

 誰しもが憧れていたと思う。私だってそうだった。

 そんな人間が「ブス」だなんて罵れば、それはクラス中にたちまち拡がっていく。

 私に刺さったその呪いの棘は、未だに抜けていない。

「本名ですか……?」

 お腹のあたりで握り合わせた手が震える。

「はい……ん?」

 奴は不思議そうな顔をしていて、取り繕うのに慣れていなさそうだった。

「私も本名です」

 私だけが、嘘を重ねた。



「リホはこの後時間ある?」

 急に砕けた雰囲気で、漂わせる色。

 今日は生憎金曜日。翌朝のことなんて気にしなくていい日。

 ブスと評した相手を気づかずに誘うなんて馬鹿みたい。相手には困っていないだろうに。

 ……今はそんなことはどうだっていい。

 こっ酷く捨ててやりたい。

 心にナイフを忍ばせて勝負に乗る。

 誰にでも言うであろう「可愛い」がたくさん降ってきて、滑稽で、シーツに雫が落ちた。

 私は今日も一つ、喪った。



「昔、リホによく似た莉乃りのって子がいたんだけど。てか名前も似てるな」

 ドキンと心臓が大きく震え、シャツを着る手が止まった。

 本名に掠りもしない名前にすればよかった。

「へー。好きだった子?」

 何も知らない顔で、揶揄うようにありもしないことを聞くと「バレた?」なんて気の抜けた言葉が返ってきて怒りが湧いた。

 今さら実は好きな子をいじめただけでした、なんて。

 そういうのいらないから。

 本当に、いらない。

 あの頃の私も、棘が刺さったままの今の私も、そんなんじゃ救われない。


「感情豊かな子でさ。さっきのリホみたいに、クラスで見たテレビで泣いてたな」

 そんなに優しい顔をしないで。

「なんだかそれを思い出してさ」

 ――綺麗な思い出みたいに語らないで。


 このまま何もなかったように逃げることはできるけれど。

「あのさ、坂東くん」

 最も返してほしい自尊心はきっとコイツからしか取り返せないから。

「大っ嫌い! あと下っ手くそ!」

 私が思い切り放った言葉に、彼は噴き出した。

「やっぱり気づいていたんだ」

 その顔が穏やかなことも。

 存外によかったせいで、寝ている間に逃げ損ねたことも。それをわかっているであろうことも、全部全部。

「負け犬のプライドをズタズタにした責任取って!」

「何の話だよ……」

 困惑した顔を尚も睨み付ける。

「責任……。じゃー結婚する?」

 相手が上手でも、とんでもない言葉が出てきても、私の心までは奪わせない。失わせない。

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夜に噛みつく 烏丸りえ @karasumarie

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