百キ夜行物語~短編【芳花~飛梅幻想譚】
Obi
芳花~飛梅幻想譚
【第一章 香に呼ばれて】
春まだ浅い、朝露の庭。
紅梅殿の庭に、ひとりの童がいた。齢は、まだ五つほど。
細筆のような指先で、花びらを摘んでは、陽に透かして見つめる。
「うつくしや……紅の色なる梅の花……あこが顔にも、つけたくぞある」
声は幼く、まっすぐで、香の芯に届いた。
そのとき、一本の紅梅に宿っていた“気”が、ふわりと精霊を呼び起こす。
目覚めは、香に似てやわらかく──
やがて少女の姿をとった。白い肌に紅の瞳。紅梅を湛えたその髪は、風に透けるような紅色。
言葉はなく、ただ風にまぎれて、枝をそっと揺らした。
「……名もないものが、呼ばれて咲きました」
それが、梅の精 芳花(ほうか)のはじまりであった。
【第二章 名を与えられし花】
十三の春、少年は貴人となり、書院にて文を綴っていた。
花はまた、墨の香を辿るように、静かに彼の傍らに寄り添う。
「月の光は、晴れたる雪のごとく。
梅の花は、照れる星に似たり……」
ふと詠んだ一句ののち、貴人はそっと梅へと視線を向け、つぶやいた。
「そなたも……名があれば、呼ぶことができるのにな」
その夜、花の香をまとい、少女の姿で現れた梅の精に、
彼は静かに言葉を与えた。
「そなたは、芳しき香をたたえ、紅に咲く。
名を──芳花(ほうか)と申してよいか」
「はい。その名に恥じぬよう、咲いてまいりましょう」
それより芳花は、貴人のもとへたびたび姿を現すようになった。
庭に、書院に、折にふれて咲く花のように、そっと彼の傍に在った。
やがて、年月は流れ──
貴人は朝廷に重んじられ、広く名を知られる身となった。
ある日の午後、庭を望みながら、彼はつぶやいた。
「芳花よ……そなたの姿は、いまも変わらぬな。
春の風情そのもののように、目に映る」
その言葉に、芳花はわずかに微笑み、頬を染めて黙していた。
出世を遂げ、御子らも皆、立派に成長し──
いつしか白髪も交じる齢となりながらも、
貴人の春は、いまだ芳花とともに在る日々こそ、
静かなる、深きよろこびであった。
【第三章 春な忘るな】
ある年の春。
朝廷の喧騒が、ついに貴人を呑み込んだ。
讒言により、貴人は都を離れ、大宰府へと流されることとなる。
その朝、紅梅の下に佇み、彼は静かに一首を詠んだ。
「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘るな」
「芳花よ……春を忘れず、変わらず咲き続けてくれ。
たとえ、わたしが傍におらずとも」
そう言いながら、貴人は紅梅のひと枝を手折り、袂にそっと収めた。
その刹那、枝先にこめられた香が、やわらかく揺れる。
──芳花は言葉なく、その想いを枝に移した。
風に舞う花びらのなか、かすかに少女の姿が現れる。
精霊の衣は紅に透け、瞳には薄く涙の光。
遠ざかる主の背に向けて、芳花は静かに囁いた。
「主の春を、わたくしが咲かせてみせます。
都であろうと、果ての地であろうと……」
彼女の声は、風に溶け、紅梅の香とともに空へ舞った。
【第四章 風のはてに咲くもの】
海より届く風は重く、潮の香に混じる湿り気は、
都の春とはまるで異なっていた。
大宰府──異郷の地。
その片隅に、貴人は一輪の梅を植える。
都より携えた、紅梅のひと枝である。
「……ここにも、春は来るのか」
彼がそう呟いた夜のこと。
庭に、白い足音が、忍ぶように現れた。
霞のように揺れる香の中──
梅の精・芳花が、ふたたびその姿を現した。
「主。春が参りました」
その声に、貴人はようやく微笑みをこぼした。
「……なんたることか。
そなたが来てくれれば、ここも都だ」
芳花は、庭の梅の傍らに住まい、
ともに湯を沸かし、香を焚いた。
春の明け暮れを、ともに過ごした。
けれど、貴人の胸にある都への未練は、
微かに芳花の花にも影を落とした。
そのことを、芳花は何も言わず──
ただ、紅の着物の袖で春風を受け流していた。
【第五章 白梅の夜】
幾つかの春を経て、貴人は病に伏した。
床の側にて、芳花は香を焚きながら、彼の呼吸を確かめる日々を過ごす。
ある夜、貴人はうわごとのように呟いた。
「春の香が……まだするな……
……芳花、そなたの香りか……」
「はい。わたくしの中に、主の春がございます」
彼はかすかに微笑み、最後の言葉を遺す。
「……都の春が……見たかった……」
そのまま、彼は静かに息を引き取った。
芳花は泣かなかった。
ただ、春の陽のもとで、己が花を白く変えた。
紅は──共に在った日々の色。
白は──祈りと別れの色。
彼の情念をその身に吸い、咲いたその梅は、
やがて人々のあいだで、飛梅の白梅と呼ばれるようになった。
【第六章 神となりて、祈りの中に】
貴人の死は、都に重くのしかかった。
長雨、洪水、干ばつ、そして流行り病──
朝廷では、不審な死や、重きを担う貴人たちに相次ぐ惨劇が起こった。
民は、震えた。
それは、大宰府にて非業の死を遂げた貴人の魂が荒れ、
荒御霊となって、都を責めたのだと、
まことしやかに囁かれるようになった。
大宰府にも、都の災厄の報せは届いていた。
芳花は香を携え、毎夜、白梅の下で祈りを捧げた。
「主……わたくしが、ここで咲いております。
どうか、その怒りを……お鎮めくださいませ」
主の無念──
それがどれほど深く、孤独であったか。
芳花は自身の無力さに涙を流した。
祈りは幾夜も続き、白梅は風に揺れながら静かに咲き続けた。
やがて都の災いは、しずしずと、潮が引くように静まっていった。
貴人の名は後世に伝えられ、
やがて一柱の神として、人々に敬われるようになった。
芳花は、主の祀られる社の傍らにとどまり、
今も、春のはじめを告げる白梅の精として香りをたたえている。
そして──
都には、もう一本の梅がある。
かつての紅梅殿に咲く、遅咲きの紅梅。
春の訪れをあえて遅らせて咲くのは、
在りし日の記憶を、少しでも長く留めておくため。
それは──
幼き日の貴人と、紅の花に宿った精とが、
共に過ごした情景を、今も静かに映している。
早く咲いたのは、悼むため。
遅く咲いたのは、忘れぬため。
ふたつの梅は、いまも──
春のはじめと、春の終わりを繋いでいる。
百キ夜行物語~短編【芳花~飛梅幻想譚】 Obi @Obi_Satoh
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