番人は水底にて月を待つ

番人は水底にて月を待つ

 影宮殿の底には湖がある。暗い澄んだ色の深い水で、目の回るような階段を螺子のごとく下っていくと辿り着く。誰もその水を見たことはないが、あるとき葬列で月光石のお守りを落としてしまった娘が、幽かな水音を聞いている。革命の火が上がり宮殿の主が変わっても、影宮殿は変わらずそこにある。

 ヨサリが影宮殿のことを思い出したのは、羊毛織を染液から引き上げたときだった。もっと暗く深く染まるはずだったのに、思う色にならなかった。まだらの指がなぞる布はまだ、黒にはほど遠い明るさがある。やはり一朝一夕に染まるものではない。落胆が半分、安堵が半分、前者が少しばかり重い。

 葬列のごとき黒衣が欲しい、と求めたのは先代宮殿主のただひとりの遺姫だった。本来なら宮殿主と共に火刑に処されるところ、高き血筋であることから強い反発もあって残された。かといって母の生家に戻ることも出来ぬ姫は、血筋を買われて遠く山を越えた領地へと降嫁が決まった。その姫が、嫁入りにとただひとつ求めたのが黒衣だった。

 黒衣は死者の纏う衣である。現宮殿主はたいそう立腹したそうだが、生家の取りなしにも姫は耳を貸さず、頑なに黒衣を求めた。それで生家の御用商人からヨサリの家へと話が回ってきたのだ。ヨサリの家は代々染色職人をつとめてきたが、黒は未だかつて染めたことがない。

 死者の黒衣を染めるのは死の番人たる影人の役割だ。影に住み、影を食み、影を染める彼らは全身を黒衣に包んで隠し、影宮殿のある森で暮らしている。時折見掛けると吐き気をもよおす腐敗臭が漂い、誰も近寄りはしない。生きながら死んでいる、罪人の子らだと噂する。けれど人の死んだときだけは別だ。黒衣なしでの弔いはあり得ない。遺体を黒衣で三度巻いて、月の日に影宮殿へ下ろすのがしきたりだ。月の日だけは影宮殿の扉が開き、螺子のような階段を下へ下へと葬列が続く。死者は影宮殿に安置されて、冥神の裁きを受ける。罪なきものは、宮殿の底から灰迷の清き水の流れへと戻っていく。

 ヨサリが黒を染めると決めたとき、もちろん家のものは誰もが止めた。どの家も、黒は不吉だと染めたがらなかった。それでもヨサリは譲らなかった。ヨサリは一度だけ、くだんの姫と会ったことがある。先代宮殿主が狂気に囚われる前のことである。まだ祭の日には宮殿の前庭が開放されていた頃。前庭が開放されたのは、あれが最後の日だったか。

 引き上げた織布を干し台へ引き上げていると、小さな足音が飛び込んできた。

「おねえちゃま、アガルのお人形が死んでしまったわ!」

「アガル、工房へ入ってはいけません」

「でも、おねえちゃま」

 木で出来た人形を抱きしめて、アガルはその場で足を踊らせた。工房の入り口で立ち止まった妹へ目をやって、ヨサリはそっとたしなめる。

「アガルの人形は死んでなんかいないわ。お姫さまだもの。今頃は宮殿で美味しいお茶を召し上がっている。すぐ戻ってくるわ」

 アガルは抱いた人形を掲げるように持ち上げて、くたりとした胴体を抱きしめた。

「お茶。おねえちゃま、アガルもお茶がのみたい」

「鐘が鳴ったらね。そうしたらお茶にしましょう。お母さまにも伝えてきてくれる?」

「わかった!」

 ていよくアガルを追い払って、ヨサリは干し台に引き上げた布を広げていく。ヨサリに妹と遊んでいる暇はないのだ。染液が滴り、次第に色を変えていく布を睨むように見つめる。まだ浅い。布をなぞる真っ白な指先を、ヨサリは幻視する。そして決意を新たにするのだ。あなたを星にする布を、わたしは必ず染めてみせる、と。


 宮殿に傍系の王が立つのは、およそ百年ぶりのことだそうだ。似たようなことが過去にもあった。訳知り顔の老人がしばらくは王が変わりやすいと嘯いて鞭を打たれたらしい。王妃が亡くなり狂った王が第二妃を殺して、その遺族に討たれた。市井であればよくある話だが、宮殿にもそんなことが起きるようだ。生き残りの姫は第二妃の子。姫が生きているのは生家に逃げ出したから。

 お茶の時間に聞かされる噂話はあちらこちらへ話が飛んで、ところどころで違う花が咲き、かと思えばこそこそと潜めた声がくぐもって、真相など何もわからない。近所にいるという、宮殿へ奉公に上がった娘から聞いたと母は言うが、本当にそんな口の軽い娘がいるかどうかすらヨサリには知れない。そもそも狂ったと噂された王もすべては宮殿の中でのことで、都にいるヨサリには何もわからない内にすべてが終わっていた。まるで天上の出来事だ。

 灰迷は水葬の地だが、王だけはいつだって火葬される。火刑と聞いたが、死んだ後に火を掛けられたとも聞く。どちらかは知れない。三日三晩火は絶やさず焚かれ、その灰は先代までの宮殿主と同じく、水源たる谷底へと撒かれたのだという。王の血は水となり、王の身は泥となり、この地を守る。それが灰迷を導く冥神との約束なのだとか。

 お茶の終わりに、ヨサリは母からまた苦言を呈された。

「別に黒衣など染めなくたっていいのですからね。うちのような小さな染め屋が、そんな責を負う必要などありません。染料だって、ただじゃない。染めている体だけ見せていれば、それでよろしい」

 母はどうせ黒は染められないのだから、試みる必要さえないと軽く言う。姫の依頼とはいえ無理難題であれば叶える必要などないと思っているのだ。ヨサリは小さく唇を噛んだ。

「おかあちゃま、アガルのお人形が死んでしまったわ!」

「あら、まあ、大変ね」

 母はアガルを膝へ抱き上げて、人形ごと撫で上げる。

「かわいそうに。おかあちゃまが直してあげますからね」

 そうやって大げさに構うから、アガルの「死んでしまった」ごっこが悪化するのだ。ヨサリはため息をかみ殺し、静かに目を閉じた。


 黒の染色ははじめクルミの枝葉から始めた。明るすぎてクリの木を煮出したが、まだ淡い。植物炭も油煙も大物の染色には向いていない。考えた末にヨサリは染色を重ねることにした。多少生地は傷むが、濃色を染めるにはそれしかない。

 下地材には葡萄の酒石膏クリィムタアタ白礬アルナイト、一晩浸した羊毛織はずっしりと重く、軽く絞っても大粒の滴をいくらもしたたらせる。すでに三度染め上げたが、まだ黒にはほど遠い布を見つめ、ヨサリはそっと息を吐いた。

 磨り潰した茜根と赤木のおがくずを煮出した染液では、赤が強く出過ぎてしまった。一晩水に浸けておいた木犀草を引き上げ、染料を煮始める。よく煮詰めた染液に三日三晩浸して白亜で洗えば、赤は抑えられるはずだ。求めるのは何者にも寄らぬ深い黒。光を返さぬ無艶の極。ヨサリはその黒を、一度だけ間近に見たことがある。

 まだ宮殿の前庭が解放されていた、最後の祭の日。死産した王妃が産褥から身罷り、王が狂って前庭を閉ざす前のこと。まだ緑にあふれ人の憩いの場だった前庭で、ヨサリはひとりのうつくしい少女と出会った。少女はヨサリのまだらになり始めた手を引いて宮殿へ誘い、踊るように跳ねて、月のようにやわらかな丸い頬をくぼませた。少女は芳しい春の花の香りがして、白い指は花びらの爪を持ち、光を掴むように目映かった。

「お前の名を当ててあげるわ。ヨサリね」

 そう秘密めいて囁かれ、ヨサリは心底驚いて少女の神秘的な瞳を見つめた。

「どうしてわかるのですか」

「わたくしがヨサリだからよ」

 宮殿に姫が生まれヨサリと名付けられたそのときに、同い年の娘たちはこぞって名をヨサリと改めた。だから姫と同い年の女は、ほとんどの娘がヨサリだ。けれど幼い頃から染色を学び、外との交流をほとんどしてこなかったヨサリはそれを知らなかった。知らず驚いて、少女と同名の偶然にいたく感激したものだった。

「誰にも秘密よ。お前にだけ教えてあげる」

 少女はヨサリを小さな東屋へ導いて、長いベエルを広げた。なめらかな紗の真っ黒なベエル。夜の底を覗くようだった。見て、と少女がそのベエルを頭からかぶると、白金の肌と髪は星を纏うように輝いた。同性ながら、見惚れるほどにうつくしかった。

「これはわたくしのものにしたの。だって、わたくしはただひとりの王の子ですもの」

 その後すぐに少女の世話係に見つかってしまい、見たのは一時のことだったが、あの色は忘れたことがない。あれを死の色と知った今となっても、思い出は鮮烈で忘れられないのだ。みなが見るだけで顔をしかめる黒は、ヨサリにとって芳しい花の香りのする思い出の色だ。それを染めることに否やあろうはずがなかった。姫が黒衣を求めているのもまた、己との思い出を忘れられず、灰迷を離れる前に故郷を想うよすがとするのでは、などと夢想するほどだった。

「おねえちゃま、アガルのお人形が死んでしまったの」

「アガル」

 煮出した染液を前に、ヨサリは頭を掻き毟りたくなった。立ち上がり、工房の前で足踏みする妹をいらいらと見下ろした。

「死んでしまったなら、葬列へ出さないといけないわ。死出の旅の準備をしなくては」

 死出の旅にはいくつもの道具が必要になる。記憶をこぼさぬための杯、渡し守に渡す金貨、心臓と同じ重さのエメラルド、冥界の女神へ手渡すコエンドロのブーケ、そして暗やみの中を悪魔に見つからず進むための黒衣。杯は普段から使っていたものでよいし、金貨やエメラルドは用意できなければ黄土と小石でよい。コエンドロは何処にでも生えているのでいつでも用意できる。しかし黒衣は、必ず影人に頼まねばならない。

 悪魔に見つからず進むための衣だ。光が返り見つかることがあってはならない。それゆえに、黒布には光が当たっても何色も返さぬことが求められる。無艶の極。それが黒という色だ。ヨサリには未だ染められぬ色。

 怯んだようなアガルの鼻先に、ヨサリはまだらの指を突きつける。

「まずは人形を三度巻ける黒衣を用意しましょう。そうして月の日には影宮殿へ降りるのよ。さあ、準備なさい。影人に会わなくちゃ」

 人形を手放したくないアガルは、きっとごっこ遊びをやめることだろう。

 結果としてアガルは盛大に泣き出して、ヨサリは母から叱られた。しかしアガルのごっこ遊びは家族からも不評であり、次にこの遊びをしたら本当に人形を流してしまうよ、とアガルは父からかたく言い含められたのだった。同時に、ヨサリも父から叱られた。

「アガルが人形を死んでしまったというのは、周りがお前が姫のために死者の衣を染めていると噂するからだ」

 黒衣の染色から手を引けと諭す父に、しかしヨサリは首を振った。

「でも誰かは染めないとならないわ。影人の染める衣は死者のためのもの。死者の衣を奪うのは大罪よ。奪わないためにも、わたしは染めなければならない」

 詭弁だとわかっていた。ヨサリとてそのために染めているわけではない。ヨサリは結局のところ、姫との秘密の黒いベエルを忘れられないのだった。


 木犀草で染めた布はたしかに赤を抑えられ、深く染まっていた。しかしまだ明るい。まだ、光が透ける。もっと暗く、もっと深く染められるはずなのだ。ヨサリはあの黒いベエルを知っている。あの色が染められるはず。

 ヨサリは己の手をじっと見下ろす。火傷や切傷、あかぎれの痕が絶えず、きれいとは言いがたい。なにより爪に、指にこびりついた染料のまだらはいくら洗っても落ちることはなく、痣のように手指に絡みついている。お世辞にも美しいとはいえないが、ヨサリは初めてこの指が染まったとき、それを誉れと思ったのだ。誰かのために染色して生きること。それはヨサリが己で選んだ道だった。

 そもそもなぜ影人しか黒を染めることは出来ないのか。ヨサリは干し台を翻る布を見上げて思案した。染めはあと一度が限度だろう。これ以上は布が傷みすぎてしまう。この布を最後に黒染めはあきらめるよう、両親からもきつく言い含められている。

 考えられる染料はすべて試した。もちろん高価で手に入らなかったり、量を用意できない染料もある。しかし黒衣は、影人が染められるのだ。影に住み、影を食み、影を染める罪人の子ら。彼らに手に入れられる染料が、ヨサリに用意できぬとは思えない。おそらく秘密の染料があるのだ。黒を染める秘密を影人は知っているに違いない。

「おねえちゃま、遊びましょう!」

「おねえちゃまは忙しいの、アガル」

 ヨサリは工房の入り口を振り返らぬまま言った。

「それならおねえちゃま、布をちょうだい。濃くて、長いのがいいの」

「わかったわ」

 それでアガルが立ち去るならと、ヨサリは喜んで布の切れ端を分けてやった。前回うまく染まらなかった暗い麻布があったので、それを裂いて与えるとアガルは大喜びした。

「ありがとう、おねえちゃま!」

 人形を抱いて帰っていくアガルを見送って、ヨサリは唸った。工房の中にばかりいても、新しい染料は手に入らない。自分の手で探しにいかなくては。

 それからヨサリは影人を追いはじめた。影に隠れ密やかに暮らす彼らを探し、こっそりと後を尾けるようになった。彼らの使う染料を知るためだ。そのうちに、ヨサリはひとりの影人に目をつけた。その影人は、いつも何かを大切そうに抱いている。赤子かと思ったが、小さすぎる。まさかアガルのように人形でも抱いているのだろうか。いや、それこそが秘密の染料なのではないか。

「おねえちゃま、エメラルドをちょうだい!」

「ではこれをあげるわ」

 アガルは「死んでしまった」ごっこをようやくやめて、新しいままごとに夢中になっているようだった。あるときは布を、あるときは金貨を求めて工房へやってくる。もちろん金貨やエメラルドなど工房にはないけれど、適当な小石を渡してやれば、アガルは満足して立ち去るのだった。今日も拾っておいた小石を渡すと、アガルは両手をあげて喜んだ。

「ありがとう、おねえちゃま!」

「どういたしまして」

 アガルが立ち去れば、ヨサリは影人の元へ秘密を探りに行く。影宮殿のそばの森へ訪れると、影人は草の上にいつも抱いているものを下ろしていた。草を摘むのか、少しばかり離れる。ヨサリは一時迷い、しかし意を決してそれに近づいた。ひどい腐敗臭がしたが、構わなかった。

 それは布に包まれていた。ヨサリが触れるとほのかに温かく、異様な臭いがした。腐敗の奥にうっすらと甘く爽やかな、どこかで嗅いだような香りが混じる。ふるえる指先で布を解くと、鼻を突く異臭が濃さを増した。それは真っ黒な汚泥に見えた。それでいて鼓動するようにうごめき、かすかに声を発した。まるで赤子のように。わずかに触れただけで、指先が真っ黒に染まる。

 ヨサリが戦いて引いた手を、いつの間にか近くまで来ていた影人に捕まれた。塊と同じ、真っ黒な腕だった。ヨサリはその腕を振り払って逃げた。全身の毛が逆立っていた。

 おぞましい。穢らわしい、とんでもないものを触ってしまった、触れられてしまった。ヨサリは必死で手を洗った。しかし、一向に汚れは落ちない。あれは汚泥だろうか。影人の手は何で汚れていたのか。気の済むまで洗って、布で拭くと黒く染まった。ヨサリは唸った。うごめき泣く、得体の知れぬもの。それでもきっとあれが黒の正体だ。あれがなければ黒衣は染められないのだ。でもあれがいったいなんだったのかがわからない。どうやったらあれを手に入れられるのだろう。いや、手に入れていいものなのか。

 工房でひとり頭を抱えていると、母が駆け込んできた。

「ここにアガルは来ていない? あの子が帰ってこないの!」

 ヨサリは両親と共に、近隣の家へも協力を願ってアガルを捜索した。けれど夕やみが訪れても、アガルは一向に見つからない。行きそうな心当たりはすべて探したらしい。アガルが遊びに行く場所など、ヨサリはひとつも知らなかった。しかしふと思い当たる。

 もし、アガルが未だにあのごっこ遊びをひとり続けていたとしたら。布を、エメラルドを、金貨を求めたのは、葬列のためだったとしたら。

 わたしのせいだ。ヨサリはひとり、影宮殿へ走った。



 日暮れを過ぎた影宮殿は昼間よりひっそりとしていた。月の日ではないから扉は開かないかと思われたが、ほんの少しだけ隙間がある。きっとアガルが降りたのだ。悪い予感が当たってしまった。ヨサリは小さな隙間から身を躍らせた。

 ヨサリとて葬列以外で影宮殿へ入るのは初めてだ。静寂の影宮殿は香煙もなく、よどみ、腐ったような臭いがした。ヨサリは口元を布で抑え、月光石をそっと掲げた。ほのかな灯りが、足下の深くへ続く階段を示す。ヨサリは唾を飲んで一歩を踏み出した。

 階段はゆるやかに渦を巻きながら、暗やみの中へと伸びていく。ヨサリは右の掌を壁に這わせ、足先で一段、一段とたしかめながら下りる。無心に足を擦るように進めていく。やがて目が暗やみに馴れてくると、壁の凹凸が刻まれた文字と絵であることがわかる。冥界を守る半人半妖の番人。祭壇、杯、天秤、エメラルド、金貨、コエンドロのブーケ。そこから続く長い空白は、黒布を表す。魔物の目から逃れるための衣は、死者を三度巻ける長さと定められている。

 影宮殿は冥界の女神をまつる神殿だ。はるか昔、この地にいた呪われた不死の民が掘った、冥界へ続く穴を塞いでいる。かれらは深い深い穴を降りて冥界の門番と掛け合ったが、ついぞ安息を得られることはなかったという。今も死を掠め取るために彼らは穴の底で待っている。だから死者は黒衣を巻いて、身を隠すのだ。そうして不死の民の目を逃れて、死の門をくぐり抜ける。けれど罪を犯したものは番人によって黒衣を剥がされ、死を奪われてしまう。だから罪を犯してはならない、そして死者の衣に触れてはいけない。ヨサリはそう聞いて育った。

 葬列のときはどこまで降りたのだったか。いったいアガルはどこまで降りたのだろう。それともヨサリの勘違いで、アガルは影宮殿へは来ていなかったのではないか。ふいに心細くなって、ヨサリは立ち止まった。

「アガル」

 呼べばこだまする声。戻ってくる声は、呻き声のように低く反響する。死者の声だ。葬列を帰るときは振り返ってはならない。振り返れば冥界の番人が扉の向こうへ引きずり込むと伝えられている。死者の声に耳を閉ざし、ひたすら前を向いて上を目指すのが葬列の作法。ヨサリは迷い、けれど再び足を底へと向けた。アガルを見つけるまで、戻るわけにはいかない。

 地の底へと深く下っていくような気がした。灰と死の水際に立つ。奥からふつふつと泡が上ってくるように、死者が呻く声がする。反響しながら上っていき、響き合いながらまた降ってくる。ざわめきとさざめき。

 ふと月光石の照らす先に人影が見えた。

「アガル……!」

 ヨサリは急いで駆け下りた。しかし人影は、よく見ればアガルの背をはるかに超えている。反響したヨサリの声が鐘のように響いて鳴りわたる。その後には、ざわめくように死者の声がついてくる。思わず足を止めたヨサリを、人影が振り返った。

 顔のほとんどが布で覆われ、目だけが見えている。影人だ。かれはヨサリの掲げた月光石を掴んだ。思いのほか力強い指がヨサリから月光石を奪い取り、さっと布の中へ隠してしまった。

「何をするの!」

「こんな底まで月光を持ち込んではならない」

 暗やみの中で声だけが返る。取り返そうにも真っ暗で何も見えず、ヨサリは歯噛みした。

「月光石を返して。妹を探しているの」

「お前の他に降りてきたものはいない」

 静かな声がそう告げる。その後、獣の唸り声に似た低音が響きわたった。しばしの沈黙、今度は甲高い悲鳴のような声が遠くから響いてくる。今まで聞こえていたのは、反響ではなかったのか。ヨサリはぞっとして立ちすくんだ。この底にはいったい何がいる。

 竦んでいる間に、遠ざかろうとする足音を聞いて、ヨサリは咄嗟に声をあげた。

「待って、月光石を返してちょうだい」

「月光を照らせば、死の魔物がお前を追いかけてくるぞ」

「でもこんな暗いところ、月光石がないと動けないわ」

「月の日でもないのに、降りてくるべきではなかった」

 声は遠ざかることこそなかったが、跳ね返すように頑なだった。暗やみの中にあると、足下が崩れ去っていくような心地がする。ヨサリは背筋を這い上がるふるえに支配されて、大声で言った。

「ならどうしろというの!」

「ここでしばらく待てばいい。そうすれば目が慣れて、上へも戻れるだろう。夜半前には上がることだ。月が昇れば、影宮殿は水で満たされる」

 平坦に返されて、また足音が聞こえる。ヨサリは怯えながら言った。

「待って、こんなところに置いていかないで。一人にしないで」

「わたしはこれから底へ降りる」

「降りるのだってかまわない」

 ひとり置いていかれるかと思うと、ヨサリは崩れ去ってしまうような気がして、影人にすがった。影人は立ち止まった。

「ならばここから先で見るものを誰にも話してはならない。ここから先は死者しか知らぬもの。話せばお前も、聞いたものもみな、死んでしまうことになる」

「絶対に誰にも話したりしないって誓うわ!」

 ヨサリが言うと、影人はヨサリの手を取った。暗黒の内に触れたものにヨサリは驚いたが、ひんやりとした布につつまれたその手を、迷宮の糸のようにすがってしっかりと握った。

 足音だけがかすかに響く中を、ゆっくりと降りていく。ヨサリはつま先で次の段を探ることだけに集中していたが、次第に目が馴れてきた。前を歩く影人が、大きな布を抱えていることに気づく。黒衣の染色をするのかもしれない。影人の黒の秘密がわかるかもしれないというのに、ヨサリの心はちっとも沸き立たなかった。

 唇を閉ざしていても、地の底から声は湧き上がってくる。それは悲鳴のように聞こえることもあれば、話し声のざわめきに聞こえることもあった。

 死の魔物。ヨサリは少しだけ恐怖の落ち着いた頭を巡らせる。影宮殿の底にいるのなら、それは不死の民だろう。冥界の門を閉ざされ、安息を遠ざけられた不死の民。死を取り返るもの。罪人は黒衣を剥がれ、取り替えられてしまう。取り替えられた死者が魔物になるのだろうか。

「あなたは、おそろしくないの」

 思わずヨサリが尋ねると、かすかな吐息とともに答えがあった。

「もう、慣れた」

 更に降りていくと、水音が聞こえるようになった。寄せては返す波のような音から、何か生き物が這っているような音まで、さまざまな音が反響してにぎやかなくらいだ。暗やみになれたヨサリの目は、あるかなしかの光を反射する水のゆらめきまでもを捕らえた。青いかすかな光は不鮮明で夢の中のようにすら思えた。

「だれか」

 しわがれた声がした。はじめは気のせいかと思ったが、たしかにそれは声であり、言葉をかたどっている。

「だれかおらぬのか。疾く……」

 ヨサリは声に誘われて、底を見下ろした。螺旋状の階段の渦の先、何かが階段を這っているのがかすかに見える。ヨサリは思わず、繋いだ影人の手を引いたが、かれは意に返さずに更に階段を下っていく。這っているのは女だった。顔は半分潰れ、手足は奇妙な方向へ曲がっているが、その体で不自由にも階段を一段、一段と這って登っている。女はふと顔を上げた。

「お前。そこのお前」

 女が言った。

「わたくしを上へつれてお行き。ここは暗くてかなわない。どうしてか足は動かぬし、困っていたのよ。新しい王はお父様でしょう。わたくしをきっと迎えてくれる。さあ、わたくしをつれておいき」

 そう嘆く女を、影人はまるで見えていないように踏み抜いた。手のひらを、それから頭を。水音混じりの破裂音が響く。女は悲鳴ひとつ上げなかった。影人が更に下へ降りようとするので、ヨサリは女を踏まないように慎重に足を運んだ。しばらく進んでから振り返ると、女はまた上へ這っていこうと体をうごめかしていた。

 そこから先はずっとそういう何かが転がっていた。手足もなくただ地を這うものだ。あるいは目もなく、頭すらもなく。血と汚泥の異形。それでもかれらは、大地を目指そうと階段を這っていく。死の魔物だ。死を与えられなかったものたち。影人は彼らを残らず踏みしめていく。死者の衣を盗むは大罪、いつか自らが言った言葉がいまヨサリを苦しめた。死者の安息を妨げる、たしかに大罪に違いなかった。

 やがてふたりの足は水面へ辿り着いた。上から水が滴ってくるたび、楽器を奏でるように水面が音をたて、壁面がゆらいで鳴る。呼吸するように、鳴動するように。影人は沈みかけた段の手前で膝をつき、肩から布を下ろして水に浸した。

 血と汚泥をすすぐ水。この水で黒衣は染められているのだ。知りたかった秘密に辿り着いても、ヨサリはその水に触れようとは思わなかった。呻く肉塊に囲まれてヨサリは息を潜める。いつか触れた黒い塊もまたそうだったのだ。うごめきかすかに鳴く黒いもの、ヨサリが黒の正体だと思ったもの。今ならばわかる。あれは死の魔物そのものだった。頭があり、目があり、片腕があった。そのどれもが小さかった。

 ヨサリの耳に、涼やかな笑い声がよみがえった。秘密めいたささやきと、夜を映したようなうつくしいベエル。星のように目映いなめらかな頬。

「死者の衣を奪った大罪人はどうなるの」

「己も死を奪われるだけ」

 影人は返し、水面へ浸した衣をひるがえした。布はゆっくりと水を泳ぐ。血と腐敗した汚泥は影宮殿を通して、谷底へと流れていく。灰迷の大地を過ぎて、浄化されるという。



 その後、ヨサリの黒衣は染め上がることはなく、姫は若草色の婚礼衣装を手に隣領へと旅立った。アガルは森で遊び疲れて寝ているところを保護されていた。ヨサリは両親に影宮殿へ向かったことを強く叱られたが、誓ったとおり、影宮殿で見た話を誰かにすることはなかった。


 灰迷の影宮殿の底には湖がある。暗い澄んだ色の深い水で、目の回るような階段を螺子のごとく下っていくと辿り着く。誰もその水を見たことはないが、ヨサリは知っている。地の底を蕩々と流れていく深い水の流れを。その夜のごとき深い色を。

 今も影宮殿の番人は、水底にて月を待っている。

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