鯉幟

林 止

鯉幟

 「そろそろ日本食が恋しいっすね」

 タイに連れてきた学生上がりの社員が、顔を手で仰ぎながらそう言った。

 「まあ辛いもんばっかだしな」

 接待で出される料理は辛さが控えめではあるものの、それはタイ基準であり、日本人の辛口に相当する。会食のない日の料理は容赦なかった。

 「社長、さっき通った屋台でたこ焼き売ってたんですけど、あれどうすかね」

 「あれも結局辛いんだろう、飴にも唐辛子を入れる国だぞ」

 「そうでしたね…… 自分辛いのはいけるクチだと思ってましたけど、こうも続くとなんかこう、優しい味のも欲しいっすね」

 「それもそうだな。どうだ、日本風の居酒屋でも行ってみるか」

 「それも辛いんじゃないんですか?」

 「いや、前行ったときは結構ちゃんとしてたぞ。三十年前だけどな」

 「まだやってるんですかね」

 「そこがやっているかは知らんが、日本の通りを再現したところにあったんだ。そこに行けばとりあえずは日本食が味わえるだろう」

 「いいっすね! 自分、焼き鮭が食べたいです」

 そんな会話をしながら屋台での昼食を終え、何件かの用事を済ませたあと我々はそこに行って飲むことにした。



 私が零細企業の社長になるずっと前、ただの修士学生だった頃に、タイの大学で共同研究をしていたことがある。

 連日の観光と研究によって睡眠時間と体力が削られていたが、現地学生の厚意を断れず、飲みに着いていくことにした。

 その居酒屋がある通りは、タイの街の雑多な雰囲気に、日本文化が態度を合わせているようだった。紐に吊るされた鯉のぼりと提灯が万国旗のように道を横断し、ネオン管は、翻訳機を通しただけの出来損ないの平仮名と漢字の形に曲げられていた。あまりにも想像上の日本文化という感じに辟易しながら、居酒屋ののれんをくぐった。

 度数の弱い酒を頼み、ラボの助教と日本語でたまに喋るだけの自分といてもつまらないだろうに、現地学生の彼はニコニコして酒を飲み、拙い英語で話しかけてくる。適当に対応しながらふとテラスを見やると、自分と同じくらいの歳の男がギターを弾き、少し若い女が歌っている。彼らが奏でているというより、先に音があってその流れに体を添わせているかのように連続的で伸びやかだった。聞くと、彼がここの居酒屋を気に入ってる理由は彼らの音楽だと言う。

 心地良いが、全く意味の分からない歌声を聞きながらちびちび酒を飲んでいると、ペンと紙切れがテーブルに置かれた。ここに歌のリクエストを書いてチップとともに彼らに渡すそうだ。彼は私に紙片を差し出し、歌ってほしい曲を書けといった。

 邦楽も疎いのにタイで流行っている曲など知る由もない。困って、坂本九の『上を向いて歩こう』が海外でSukiyakiと題され広く歌われている、と聞いたことがあったのでSukiyakiとだけ記して彼に返した。彼はその下に何曲かリストして、百バーツで挟んで店員に渡した。

 歌手の女は店員から紙幣と挟んだ紙を受け取ると、何やらギター弾きの男と少し喋ったあと、タイ語の曲を歌い出した。やはり海外で知られているといっても全世界に伝わっている訳ではないか、と思い酒を少し飲んだ。私がグラスを置くと彼は、あの歌手はSukiyakiをよく知っているが歌えないと言っていた、と教えてくれた。

 少し考えてみたら当たり前で、我々日本人の多くも英語では何曲か歌えても、聴いたことのある他の言語の歌はほとんど歌えない。タイ人からしても、日本語の曲をよく聴いていたとしても歌えるかどうかは別問題なのだ。

 その日、酒は一杯だけに留め、早めに帰してもらったのを記憶している。

 


 この三十年間、本国の文化をほとんど吸収しなかった日本風の通りに入り、かつての場所に向かうと、外装は変わっていたものの同じ店舗らしい建物があった。

 のれんをくぐり、酒とつまみをいくつか頼んだ。

 「いやー、ちょっと通りはエセ日本って感じでで不安でしたけど、中は結構日本っぽいっすね」

 「料理も日本で通用するくらいの味で感動するぞ、この前と同じならな」

 馴染みのロゴの入ったビールと枝豆、出汁巻き、そして焼き鮭が運ばれてきて、私たちは小さな飲み会を始めた。

 「あ、これはマジで焼き鮭っすね。ジャパン感じます」

 若手社員がタイに来て一番ホクホクした笑顔で鮭の皮を頬張っているところに、以前と同じく、紙とペンが置かれた。

 「Song request」

と間の伸びたタイ訛りのアクセントで若い女の店員が伝える。

 少し周りを見渡したが、昔のように歌手はいない。

 『前来た時、ここには歌手がいたが、今はいない。誰が歌うんだ。』

 と翻訳アプリを通して伝えると、

 『彼らは有名になってほとんど来ない。お店には彼らの音楽がたくさんある。それをスピーカーで流す』

 ということだ。

 枝豆を次々に口に入れる彼は音楽に興味がなさそうだったので、私は有名な洋楽のタイトルを英語で五つほど書いて百バーツで挟んだあと、ほんの少し逡巡して、リストの一番下に『Sukiyaki』と走り書きしてから店員に渡した。

 しばらくしてから、はじめに書いた曲が流れ出し、リクエストが通ったのを知った。いくつかの洋楽は流れ、いくつかは流れなかった。音源はきっと、ここで演奏したものを録ったもので、会話と笑い声が混じっていた。

 そして、『上を向いて歩こう』が流れ出した。

 「え、これって、あれすよね、え、マジっすか」

 私は一気に日本文化を受容し動揺する彼に苦笑しつつ、音楽に聞き入った。多少荒い音質の中で、彼女はほとんど日本人のような発音で滑らかに歌い、ギターは秋の夜虫を感じさせる寂しい音色だった。私が投げやりに書いたメモを見て、彼らは日本の歌を熱心に練習したのだ。そして何となく、学生だった彼も夢だった教授になれたのだろうと思った。

 出汁巻きを平らげたばかりの若手に、おい、明日も早いしほどほどにするぞ、と呼びかける。彼は残念そうな顔をしながらも、念願の日本食を満喫した様子だった。

 テラスの奥には、三十年前と同じように鯉のぼりが夜空に向かって揺らめいていた。

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鯉幟 林 止 @TomaruHayashi

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