冷めたコーヒーと止まった時間

浅野じゅんぺい

冷めたコーヒーと止まった時間

カフェの窓際で、児玉徹はノートパソコンの画面を睨んでいた。

カーソルが点滅している。だが、一行も文章は進まない。


締め切りまで、あと三日。

考えるだけで胃の奥がきしみ、不安がじわじわと広がる。


「なんで書けないんだ……」


絞り出すように呟き、冷めたコーヒーを口にする。

苦味だけが広がるが、何の感慨も湧かない。


不意に、カップを置こうとした手がグラスに当たり、氷がカランと音を立てた。

冷たい水が、隣の席のバッグに跳ねる。


「あ、ごめんなさい!」


慌ててナプキンを取ると、隣の女性がゆっくりと顔を上げた。


「……児玉くん?」


低く、どこか懐かしい声。


時間が止まる。


「松尾……?」


松尾真希。

高校時代、隣の席だった彼女。


当時はどこか儚げで、いつも教科書に視線を落としていた。

だが今は、落ち着いた雰囲気をまとい、どこか芯の強さを感じさせる眼差しへと変わっていた。


「久しぶりね」


その一言が、胸の奥で波紋のように広がる。


**


止まった時間


あの頃の記憶が蘇る。

授業中、ノートの端に書き綴った小説。教師の目を盗んでは続きを考えていた。


「実はね、あの頃、こっそり読んでたの」


真希が微笑む。


「……マジか」


胸がざわめく。


「面白かったよ。特に『少年が幽霊を追う話』。結末がないまま終わっちゃったけど、ずっと続きを待ってた」


喉が詰まる。


「……覚えてるのか」


「うん。でも君、作家になったんでしょ?」


「まあな……」


言葉を濁す。


最近は、何を書いてもしっくりこなかった。

締め切りに追われるたびに焦り、書きたいものと求められるものの間で揺れ続けていた。


「……過去を振り返るの、怖い?」


真希の問いに、徹は息を呑む。


「なんでそう思う?」


「翻訳の仕事をしてるの。最近担当した作家さんもスランプだった。でもね、彼は過去の自分と向き合うことで、新しい物語を書いたの」


「過去と向き合う……」


避けていた未完の小説のことが、頭をよぎる。


「……昔の俺の話、好きだった?」


「うん。でも、たぶん私は、あの頃の君が好きだったのかもしれない」


言葉の意味を理解するまで、数秒かかった。


胸の奥で、何かが弾ける音がした。


**


真希の選択


「私ね、大学卒業してすぐ海外に行ったの」


真希は静かに言った。


「最初は言葉が通じなくて大変だった。でもある日、日本語の小説を訳す仕事をもらったの」


「日本の小説?」


「そう。言葉って、ただのツールじゃない。文化とか、その人の人生とか、すべてが詰まってるものだって、その時気づいた」


彼女の眼差しは、確かな何かを映していた。


「私はずっと、自分が何者なのか分からなかった。でも、言葉を訳すことで、少しずつ答えが見えてきた気がするの」


「……俺も、昔はそんな気持ちだった」


「でしょう?」


真希は微笑む。


「だから、続きを書いてほしいな」


**


進む物語


数日後、徹は高校時代のノートを開いた。


書きかけの物語がそこにある。


少年が、幽霊になった友人と共に、真実を探す話。

だが、最後の選択を前にして、物語は途切れていた。


なぜ、あの時に結末を書けなかったのか。


──きっと、怖かったからだ。


物語の結末を決めることは、自分の中で何かに決着をつけることになる。

幽霊を救うのか、それとも手放すのか。

そんな選択が、当時の自分には重すぎた。


その夜、スマホが鳴った。


「頑張ってね。続きを楽しみにしてるから」


真希からのメッセージだった。


胸の奥で、小さなざわめきが広がる。


彼女が待っているのは、物語の続きを超えた、徹が避けてきた過去そのものではないかと感じる。


**


過去と向き合う


未来が見えなかった高校時代。

空想の世界に逃げながら、それでも書くことが楽しくて仕方なかったあの頃。


今、徹は書くことを生業にしている。

しかし、いつの間にか、読者の顔色を気にするようになっていた。


「過去を振り返るの、怖い?」


真希の言葉が、頭の中で反響する。


──怖い。


でも、向き合わなければならない。


あの頃の自分が、何を思い、何を求めていたのか。

心から書きたかった物語を、今の自分だからこそ書こう。


ゆっくりと、キーボードに指をのせた。


静寂の中で、一文字目を打つ音が響く。


──物語の続きは、ここから始まる。

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