第3話 昼下がりの書庫

 午後の書庫は、まるで時間が少しだけ遅れて流れているような静けさだった。

 扉を開けた瞬間、紙とインクの混ざったような、独特の匂いが鼻をかすめる。


 薄暗がりの中に、田村さんの背中が見えた。

 古い百科事典の背を、柔らかい布でゆっくりと拭いている。

 その手つきには迷いがなく、呼吸と重ねるようなリズムで、ひとつひとつ丁寧に磨かれていた。


「お疲れ様です」


 声をかけると、田村さんは振り向かずに、小さく頷いた。

 俺の足音に、もう気づいていたのだろう。手は自然と止められていた。


「どうも。静也さん。……今日は、広瀬くんが少し考え込んでいたようでしたね」


 やっぱり、見ていたんだなと思った。

 田村さんは言葉少なだけれど、人の表情や空気の変化にはとても敏感だ。


「さっき、昔の知り合いが来たそうで。“要点だけで十分”って言われて、少し引っかかってるみたいです」


「要点、ねぇ……」


 田村さんは小さく笑って、手にしていた百科事典をぱたんと閉じた。

 背表紙に刻まれた金文字が、書庫の灯りに淡く浮かんでいた。


「たしかに、要点を押さえるのは大事なことですけどね。

 でも、“読む”っていうのは、それだけじゃ──ちょっと、もったいない」


 その言葉の一つ一つが、棚の隙間に染み込むように響いた。


「もったいない、ですか」


「ええ。私は、“読む”ってのは、余白に触れることだと思ってるんです」


 田村さんはそう言って、椅子にゆっくり腰を下ろした。

 声は静かだったが、胸の奥にすっと入ってくるような重みがあった。


「紙の手ざわりや、ページをめくる音。

 そういうもの全部をひっくるめて、“今”の自分に染みてくる。

 そうして読んだ本って、不思議と記憶に残るんですよ。匂いや空気ごと、丸ごとね。

 “ああ、あのとき、これを読んだな”って──景色と一緒に、思い出すんです」


 俺はその言葉を反芻するように、黙って隣に立った。

 書庫の奥からは、誰かの足音が遠くで小さく鳴っていた。


「さっき彼が借りていったの、詩集だったそうです」


 田村さんはわずかに目を細めた。


「詩、ですか。それなら、なおさらですね」


「……やっぱり、詩は特別なんですか?」


「詩ってのは、文字と文字の“間”が本体だったりしますから。

 沈黙が、余白が、読む人の思いを受け止めるスペースになるんです。

 だから詩は、読み返すたびに違う顔を見せる。

 そのときの自分や、思い出と響き合うんです」


「……誰かを思い出すことも、あるんですかね」


「あると思いますよ。

 読書って、ひとりで読むようでいて──

 実は、誰かと“思い出し合う”ための時間なのかもしれません」


 その言葉が、書庫の空気と同じ速度で胸に染みていった。

 深く、静かに。紙の匂いと、言葉の余白と一緒に。

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