読むということ

秋初夏生

第1話:図書館の朝

 雨上がりの朝だった。

 窓越しに差し込む光が、まだ少し湿った床にやわらかくのびている。

 返却された本を確認しながら、俺は小さく息を吐く。

 今日も、図書館の一日が始まる。


 変化の少ない毎日だが、それを悪いと思ったことはない。

 本と紙の匂いに囲まれて、静かに時間が流れていく場所。

 それが、俺──日暮静也の居場所だった。


  この春で勤続十一年になる。

 日々淡々と働く中で、最近は若手の広瀬が入ってきて、ようやくカウンターに少しだけ活気が戻ってきた。

 まだ一年にも満たない新人だけど、本好きの気配がある。

 そして、時々ちょっと真面目すぎる。


 自動ドアが開いたのは、そんなときだった。


「……お、広瀬じゃん。やっぱりここかー」


 軽く弾む声がして、カウンターの向こうに若い男が現れた。

 スーツ姿にリュックを背負い、片手をポケットに突っ込んだまま。話し慣れている口調だった。


「まさか本当にここで働いてるとはね。あのとき言ってた通りだな」


 広瀬が振り向いて、「湧……」と小さくつぶやいた。

 おそらく、学生時代の知り合いだろう。自然に交わされる言葉の距離に、それが滲んでいた。


「いやさ、図書館で働くって聞いたときはびっくりしたけど、案外似合ってるな」

「別に似合わなくてもやってるよ。……ようこそ桜ヶ丘図書館へ」


 広瀬は照れくさそうに言いながらも、少しだけ声に張りを込めていた。

 そのまま二人のやり取りは続いていく。


「でもさ、いまどき図書館ってどれくらい人来るの?

 ていうか、本ってまだ“借りる”もんなんだっけ。AIの要約アプリで読めば十分じゃない?」


 冗談めかした口調ではあったが、言葉の端々に棘のようなものがあった。

 広瀬がわずかに言葉を失いかけたそのとき──


「静也さん、ちょっとよろしいですかねぇ」


 聞き慣れた、のんびりした声が後ろから届いた。

 振り向くと、猫田さんが猫の図鑑を抱えて立っていた。

 五十代くらいの、どこか福々しい笑顔の人だ。

 図書館の“猫本”担当かと思うくらい、いつも猫に関する資料ばかり借りていく。


「この前の“江戸の猫の飼い方”って本、面白かったですよ。

 “猫に名前をつける作法”とか……あれ、今のペット本じゃ絶対読めないでしょ。続き、ないですかね?」


 空気が一気に緩んだ。

 俺は頷いて、カウンターを離れ、猫田さんと一緒に資料の棚へ向かった。


 戻ってきたとき、広瀬は一人で貸出処理をしていた。

 さっきの来館者──というより、どうやら広瀬の友人──は、すでに帰ったようだった。


「静也さん、猫田さん、今日も猫でした?」


 そんな声が、カウンターの奥から聞こえた。

 山口さんがPCの前から顔を上げる。

 レファレンス担当の彼女は、いつも冷静で淡々としているが、実は気配り上手な人でもある。


「あの人、たぶん“猫関係の古文書”とかまで掘り出しても、きっと全部読むと思いますよ」

「ありそうで怖いな、それ」


 冗談めかして答えると、山口さんが小さく笑った。

 その表情の柔らかさに、俺は少しだけ肩の力を抜いた。

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