池田鈴の好きな人

雨世界

1 好きな人ができました。

 池田鈴の好きな人


 好きな人ができました。


 池田鈴が秋山律と出会ったのは、中学二年生のときだった。場所は小森神社の鳥居のところで、鈴が自分の友達である小森神社の娘、小森桜に会うために出かけると、そこに一人の見知らぬ少年が立っていた。


 それが秋山律だった。


 鈴は律を無視して、鳥居をくぐろうとした。


「ねえ、君。ちょっと待って」でも律のほうはそう言って鈴に声をかけてきた。


「……なにかご用ですか?」冷たい声で鈴は言う。


「君はさ、えっとこの神社にお願いごとをしに来た人? それとも、もしかしてこの神社の関係者の知り合いだったりするのかな? たとえば、君と同じ中学の、小森桜と知り合いとかさ」


 にこやかな顔で律は言った。


 桜の名前が出たので、鈴は少し警戒をした。


 鈴は確かに小森桜と同じ南中学高の生徒であり、それは鈴の着ている黒色の制服をみれば南中学校を知っている人なら誰でもわかることだった。


 その男の子、つまり律は東中学校の制服を着ていた。制服の上着の下には赤いフード付きのパーカーを着ている。


 鈴は律のことをまるでなにも知らなかった。


 桜のことを律は知っているようだったけど、知り合いなのかどうかは怪しいものだ。鈴はめがね越しにじっと律の顔を見つめた。


「そんなに怒んないでよ。ただ少し小森桜について聞いただけじゃん」と律は言った。

 その律の態度が、鈴はあまり気に入らなかった。


 へらへらしているというか、すごく軽い感じがしたのだ。でも、この少年は見た目が結構、かっこいい。恋に恋をしている桜なら、意外と会った瞬間にこの少年のことを好きになってしまうかもしれないと鈴は思った。


「俺は秋山律っていうんだ。よろしく」

 そう言って律は片手を鈴に差し出した。


「……私は池田鈴って言います。……よろしく」そう言って鈴は律の手を遠慮がちに握った。


 男の子の手を握るのは、鈴は今日が初めての経験だった。


「池田、鈴。……鈴ね。えっと、それで鈴はさ、小森桜の友達なのかな? これから小森桜にあいにく予定とか、そういうこと?」律は言う。


「まあ、そうですけど」


「やっぱりそうなんだ。よかった。ちょっと困ってたんだよね」嬉しそうな顔で律は言った。


「あの、さっきからなんなんですか? 秋山くんはなにか桜に用事でもあるんですか?」


 そもそもあなたと桜はどんな関係なんですか? そんな言葉を言いそうになって鈴は我慢する。


「実はさ、これなんだけどさ」そう言って律はポケットから一通の手紙を取り出した。真っ白な手紙。でも、抑えのところに赤いハートマークのシールが張ってある。


 それは、どう見てもラブレターのように池田鈴の目には見えた。


 その手紙を見て、やっぱり、と池田鈴は思った。


「これをさ、小森桜に渡して欲しいんだ」と律は言った。


「……自分で渡せばいいんじゃないんですか?」鈴は言う。


「いや、まあ俺もそう思うんだけどさ、いろいろとこっちにも事情っていうものがあって……」と、そこまで律が言ったときに、鈴は歩き始めて鳥居をくぐり、神社の石の階段を登り始めた。


「え? あ、ちょっと待ってよ、鈴」


 律はそんな鈴を追いかける。


「どうしていっちゃうのさ? なんか怒ってる?」律が言う。


「別に怒ってません。それから、その鈴って呼び捨てにするの、やめてください」と鈴は言う。


「ねえ、鈴。お願い。手紙、渡してもらうだけでいいんだよ。別に読まなくてもさ、捨てちゃってもいいからさ」律が言う。


 鈴は階段の途中で立ち止まる。


「それ、ラブレターですよね?」鈴は言う。


「そうだよ」律が答える。


「そういうものって、きちんと本人が好きな人に渡すべきだと思います。こうして誰かに頼んだりすることじゃないと思うんです」


「その通り。俺もすごくそう思う」律は言う。


「なら、今すぐ、桜にそれを自分で手渡してきてください。私に頼むんじゃなくて」


「俺が?」


「そうです」


「この手紙を書いたのは、俺じゃないのに?」


「そうです……、って、え?」鈴はようやく、律の顔を正面から見る。めがねの奥の鈴の瞳が丸く、大きく開いているのが、律には確かによくわかった。


「やっと、正面を向いてくれた」


 嬉しそうな声で律は言う。


 にっこり笑う律の顔を見て、鈴の顔は赤くなった。


 それは自分の勘違いに気がついたから、……だけではない。


 それから鈴と律は石階段の端っこに移動して、そこでお互いの事情を話し合った。その話によるとどうやら桜にラブレターを書いたのは律の友達の男の子であるようだった。


 律はその男の子に借りがあって、ラブレターをその子の代わりに小森神社にいる小森桜にまで届けに来たということのようだ。


「でも、実際渡すとなると恥ずかしいしさ、それにこれ、俺の手紙じゃないし、それで、まあ、あの鳥居のところで、どうしたもんかな、って悩んでたんだよね」律は言う。


 鈴は少し考える。


「まあ、そういうことなら、別にいいです。その手紙、渡してください」鈴は言う。


「え? いいの?」律は言う。


「はい。私が責任を持って、この手紙を桜に届けます」


「サンキュー。本当に助かるよ。ありがとう、鈴」


 そう言って、律が手紙を差し出して、それを鈴が受け取ったところだった。


「鈴? なにしてるの?」


 そんな聞きなれた可愛らしい声が聞こえてきた。


 場所は二人のいる石階段のもう少し上のほう。つまり小森神社のほうからだった。

 鈴が見ると、そこには、はっとして驚いた表情をしながら、目を丸くして口元を両手で抑えている小森桜が立っていた。


 桜は仕事を手伝っていたのか、赤と白の巫女服姿のままだった。




 それから二年の月日が過ぎて、鈴は南中学校の生徒から南高の生徒になった。


 南高には桜も一緒に入学した。


 鈴と桜は幼馴染で、こんな風に幼稚園のころからずっと一緒に、同じ場所で、二人は育ってきた。


 だから鈴と桜が同じ高校に行ったことは、二人にとってはごく当たり前の出来事だった。


 だけど南高には一人、余計な奴がいた。


 それは秋山律だった。


 二人とは違う東中学校の生徒だった律は、南高を受験して、合格し、二人と同じ南高の生徒になった。そのことを律から聞いたときに、桜は「よかったね、鈴。律くん。私たちと同じ南高なんだって」と、とても嬉しそうな声で言った。


「うん。そうだね」と言葉を返しておいたけど、実は鈴はあんまり嬉しくなった。


 できれば律とは違う高校が良かったと思った。


 鈴は別に秋山律のことが嫌いなわけではない。秋山律はちょっと軽薄なところがあるけれど、根はまっすぐで、優しくて、とてもいいやつだった。


 それはこの二年間の付き合いによって、わかっている。


 問題はそういうことではなくて、桜にあった。


 簡単に言うと、桜は律のことが好きなのだ。


 桜は初めて律と出会った日から、ずっと律のことを思っていた。そのことは親友である池田鈴にはすぐにわかった。


 桜はその自分の思いを口にしない。言葉にしない。


 小森桜とはそういう性格の少女だった。


 三月。中学を卒業して間もないころ、鈴は律と初めて出会った小森神社の鳥居のところで、秋山律に愛の告白をされた。


「ずっと前から好きだった。俺と付き合ってほしい」


 律の告白はシンプルなものだった。


 だけどすごく気持ちがこもっていた。


 鈴は律に告白されて、その顔を本当に真っ赤に染めた。男の人に好きだと告白されたのは人生で初めての経験だった。


 ……正直な話、すごく嬉しかった。


 でも、鈴は頭を下げて「ごめんなさい」と言って、律の告白を断った。


 池田鈴にとって、秋山律はどんなにかっこよくても、どんなにいいやつでも、あくまで律は友達だった。最高の男友達。


 鈴の返事を聞いて、「……そうか。わかった」と律は言った。


 それから鈴に手を振って律は桜吹雪の舞う坂を下りて行った。


 次にあったときには、まるで告白のことは夢であったかのように、律はいつもの律だった。


 律の告白を断った理由の一つには、小森桜のことがあった。


 桜が律に恋をしていることはわかっていたので、そのことを考えないわけでもなかった。


 でも一番の理由は、鈴本人にあった。


 高校生になった今でも、律は人を好きになるということがどういうことなのか、よくわかっていなかった。


 ……誰かを、好きになることが怖かった。


 恋をすることが怖かった。


 自分が変わってしまうことが、怖かった。


 ……ようするに、鈴は恋に対して、すごく臆病な少女だった。


 南高に入学して間もない四月ごろ。


 鈴は桜に大事な話がると、真剣んな表情で呼び出されて、久しぶりに小森神社に向かった。するとそこには鈴と桜の先輩である岡田匠先輩がいた。


「あ、岡田先輩。こんにちは」


 鈴は岡田先輩を見てすぐにそう声をかけた。


 小森神社の前に立っていた岡田匠は後ろを振り返って「よう。久しぶり」と池田鈴に声をかけた。


 岡田先輩は高校は二人とは違う北高(すごく頭のいい高校だ)に行ったのだけど、中学は南中学校で、二人の剣道部の先輩だった。


 岡田先輩は剣道がとても強くて、剣道着姿がよく似合っていて、凛々しくて、あと頭も良くて、すごく女子から人気があった。


「池田はめがね、コンタクトにしないの?」と岡田先輩は言った。


「気に入っているんです。めがね」鈴は言う。


「……でも、最近はたまにコンタクトにすることもあります」


「そうなの?」


「はい」


 そこまで話したところで、神社の中から「お待たせ」と言って一人の女の人が出てきた。その人は髪をポニーテールにしていて、岡田先輩と同じ北高の制服を着ていた。


「遅いよ」


「ごめん、ごめん。それで、その子は?」


 女の人が鈴を見る。


「中学時代の剣道の後輩。名前は池田。池田鈴っていうんだ」と岡田先輩は言う。


「初めまして、池田鈴といます」鈴は女の人に頭を下げた。


「初めまして、鈴ちゃん。私は西山茜と言います」と茜さんは言った。


 茜さんは岡田先輩と同じ学年の北高の生徒ということだった。


「じゃあな、池田」


「じゃあね、鈴ちゃん。またね」


 そう言って二人は小森神社を出て行った。


 恋愛の神様である小森神社に二人で一緒にやってくるということは、つまりそういうことなのかな? と仲の良さそうな二人の後ろ姿を見ながら、池田鈴は一人で思った。


 小森神社にお邪魔すると、家の中には神主さんである桜のお父さんがいた。


「やあ、いらっしゃい」


 鈴を見て、桜のお父さんは言った。桜のお父さんは仕事中のようで神主さんらしい袴姿の服装をしていた。


「お邪魔します」


 そう言って鈴はいつものように小森神社の奥の部屋に移動する。


 するとそこには畳の上で真面目な顔をして正座をしている桜がいた。桜は閉じていた目を開けて鈴を見ると、「ここに座って」と自分の前の空間に手を向けた。


 鈴は指示通りにその場所に正座をして座った。


 部屋のふすまは開いていて、外の風景がよく見えた。まだ残っている庭の桜が、すごく綺麗だった。


「私、決めました」桜は言った。


「決めたってなにを?」鈴が桜を見る。


 そこで桜のお父さんがお茶を持ってきてくれたので、二人は少しだけ言葉をつぐんだ。


「私、律くんに告白する」


 お父さんがいなくなると桜は言った。


 鈴は思わず、その言葉を聞いて、飲んでいたお茶を吐き出しそうになってしまった。


「……告白? 律くんに?」鈴は言う。


「鈴が驚くのもわかる。でも、実は私、ずっと前から律くんのことが好きだったの」恥ずかしそうに頬を少し赤くしながら桜は言う。


 いや、そんなのもうずっと前から知ってるし……、と鈴は思ったがとりあえずは桜の話を聞くことにした。


「私、初めて会ったときから、律くんのことが好きだったの」と少し間を置いてから、嬉しそうな顔でもう一度、桜は恋の告白をした。


「初めてって、あの石階段のところでの話?」鈴は言う。


「そう。あの石階段のところでの話」桜は言う。


「もう二年も前の話。あのとき、あの場所で、私は律くんに恋をしたの」


 桜はそう言ってから、庭に咲いている自分と同じ名前をした桜の花を見つめた。


 ……鈴も、同じように桜の花を少しだけ眺めた。


 すると、ちちっと庭で小鳥が鳴いた。


 その声を合図にして、二人は部屋の中で再び向かい合った。


「告白する方法はどうしようかって、すごく悩んだんだけど、……考えた末に手紙を渡すことにしたの。つまり、ラブレターだね」


 そう言って桜は前もって用意していた律へのラブレターを巫女服の中から取り出して、そっと畳の上に置いた。


 真っ白な便箋に包まれた手紙。その手紙には赤いハートマークのシールが貼ってあった。


 一目でそれが恋文だとわかる、わかりやすいラブレターの特徴を持った手紙。


 それは初めて、鈴と桜と律が会ったときに、三人の中心にあった律の友達が書いたという桜宛のラブレターの特徴とよく似ていた。いや、その手紙は鈴の思い出の中から、ひょっこりと桜がその手紙を見つけ出してしまったかのように、鈴の覚えている当時の手紙と本当にそっくりだった。


 鈴はじっとその手紙を見つめる。


 この中に、桜の愛を込めた律へのメッセージが入っているのだ。


「真剣に悩んで、本気で書いたの」桜は言う。


「うん」鈴はそう返事をする。


「鈴は私の律くんへの告白、応援してくれる?」桜は言う。桜はとても真面目な表情をしている。


「もちろん。だって私たち友達じゃん」鈴は桜に即答する。


「ありがとう」桜は言う。


 それから桜はいつもの表情に戻ると、安心したようににっこりと笑った。


 鈴も同じように、にっこりと笑う。


 そうか。よかった。ついに桜も自分の口から恋の告白をするという直接的な方法ではないにしても、律に手紙を渡すことで恋の告白をするつもりになったのか。


 うん。そうか。よかった。よかった。


 鈴はお茶を一口飲んだ。


「それでね、実は鈴に一つお願いがあるの」


「なに?」鈴は言う。


「この手紙を、鈴の手から律くんに渡して欲しいの」桜は言う。


「え? 私が?」


 鈴はまた驚いてしまった。


 私が律に桜の恋の告白を書いたラブレターを渡す。つまり私が二人の恋のキューピット役になるということだろうか? それを桜は私に望んでいるということなのだろうか?


 隠そうと思っていたのだけど、動揺が大きすぎて、それが鈴の態度に出てしまう。


 戸惑っている鈴を見て桜は「……だめかな?」と弱った声で鈴に言う。


「……ううん。別にだめじゃないよ」鈴は言う。


「ただ、急な話だったから少し驚いただけで、……でも、桜さ。こういう手紙はやっぱり自分の手で直接、相手に渡したほうがいいんじゃないかな? そのほうが律くんも喜ぶと思うし、桜だって、せっかく決意をして、勇気を振り絞って、その手紙を書いたんでしょ?」


「うん」鈴の言葉に桜は頷く。


「なら、やっぱり手紙は桜が直接、律くんに手渡したほうがいいんじゃないかな?」と鈴は言う。


「でも、どうしても勇気がでないの」桜は言う。


「手紙を受け取ってもらえなかったり、その場で断られたらって思うと、どうしても怖くなってしまって。だからお願いします。鈴さん。小森桜の一生のお願いだと思って、この手紙を律くんに届けてください」


 そう言って桜はその場で土下座する。


「ち、ちょっと、桜! そんなことしないでよ!」


 鈴は慌てて、そんな桜を元の姿勢に戻させた。


「……手紙、渡してくれる?」桜は言う。


「……わかった。届ける」


 そう言ってしぶしぶ鈴は桜のラブレターを秋山律に届けることになってしまったのだった。


 小森神社から帰る際、玄関のところで桜はとてもいい最高の笑顔で鈴のことを見送ってくれた。


 鈴は笑顔で桜に手を振って、それから小森神社をあとにした。


 石階段を降りた鳥居のところで、鈴は大きなため息をついた。それから桜か受け取っら大切な桜の恋の告白が書かれたラブレターを鈴は見る。


 ……二年前とは立場が逆になってしまった。


 二年前。律と初めて出会った場所がここだった。


 当時のことを思い出して、鈴はちょっとだけ、寂しそうな笑顔で笑った。


「どうした池田鈴。私らしくないぞ」


 鈴はそんなことを自分自身である池田鈴に言う。


 それから鈴は「うーん」と言って、大きな背伸びをして、笑顔になって元気に夕暮れの街の中を自分の家に向かって歩き出した。


 帰り際、夜に律に電話をして、明日の放課後、学校の屋上で律に桜の手紙を渡そうと、そんなことを鈴は頭の中で考えていた。


 翌日、計画通りに鈴は律を南高の屋上に呼び出した。屋上に人がいないことを確かめると、二人は屋上の高い緑色のフェンスのところに移動する。


 空は真っ青に晴れていて、まさに絶好の告白日和だった。


「で、話ってなに? もしかして愛の告白?」と律は冗談ぽい口調で鈴に言った。


「そうだよ」と鈴は答える。


「え?」すると、律は本当に驚いた顔をした。


 それから律は急に真面目な姿勢になった。


「お前、俺の告白、断ったじゃん」真面目な声で律は言う。


「私じゃないよ。桜の告白」


「桜の? どういうこと?」律が言う。


「はい」


 鈴はカバンの中に大切にしまって置いた桜のラブレターを取り出すと、それを律に手渡した。手紙を受け取った律は桜の愛の詰まったラブレターを、なにか珍しいものでも見るような目でじっと見つめた。


「これを桜が? 俺に?」律は言う。


「そうだよ」鈴は言う。


「ちなみに、その手紙をこの場で受け取らなかったり、桜の告白を断ったりしたら、私、パンチするからね。律に」鈴は言う。


「……お前、俺の気持ち知ってるだろ?」律は言う。


「知らない。覚えてない」鈴は言う。


「じゃあ手紙。確かに渡したからね。絶対に読んで、桜に返事をすること。いいね。わかった!?」鈴は言う。


「……わかったよ」律は言う。


「よろしい。じゃあそういうことで」


 鈴は片手をあげて律にさよならをすると、そのまますたすたを歩いて屋上から出て行った。そして、南高の屋上には青空と秋山律だけが残された。


 それから三日たった夜に鈴は律から電話で呼び出しを受けた。


 場所は、小森神社の鳥居前。


 鈴は、なんだろう? と思いながらもその場所にきちんと約束通りに出かけて行った。まだ少し寒かったから、鈴は制服の上に黒色のコートを着ていた。


 小森神社の鳥居前に着くと、そこには同じく制服姿の律がいた。


 この場所で律とこうして二人だけで会うのは、もう三度目だった。一度目は出会いのとき、二度目は律が鈴に告白をしたとき、そして今が三度目だった。


 律はわざとなのか、それとも偶然なのか、二人が出会った時と同じような、赤いフード付きのパーカーを制服の中に着ていた。


「よう。夜に呼び出してごめん」律は言った。


「ううん。別にいいよ」


 鈴はそう言って律のところまで移動した。


 鳥居の反対側の道路には街灯が立っていて、その明かりが夜の小森神社に咲く桜の姿を明るく映し出していた。一面が暗い夜と桜色の光に包まれているように思える幻想的な風景だった。


 恋人同士でこんな場所に来たら、あるいは恋人同士になる直前の二人がこんな風景を見たら、もっと二人の距離が縮まるか、あるいは、きっとあっという間に恋に落ちてしまうのだろうと鈴は思った。


 律はしばらくの間、黙っていた。


 だから鈴はそんな素敵な風景をしばらくの間、ずっと眺めていることができた。


「手紙。読んだんだ。桜の手紙」律は言った。


「うん」鈴は律を見ないまま、そう返事をする。


「だから、その返事をするよ」


 律の言葉を聞いて鈴はようやく律を見た。


「返事をする相手、間違ってる」鈴は言った。


「いや、間違ってないよ」律は言う。


 鈴は律の言ってる意味がよくわからなかった。


 律は手紙を制服のポケットの中から取り出した。それは鈴が私た桜のラブレターのようだった。


「この手紙に書いてあったよ。お前に告白しろって」


「……え?」


 鈴は驚く。


「ほら」


 それから、律が差し出した桜の手紙を受け取って、それを鈴はその場で読んだ。その手紙には、……桜から律に向けて、鈴があなたのことをずっと好きでいるから、あなたのほうから律に告白をしてほしい。私のことは気にしないでほしい。あなたに告白をしてふられたことは、もう私にとっては過去のことであって、すごくいい経験になったからそれでいい。だから、正面から鈴のことを愛してほしい。鈴の気持ちに答えてあげてほしい。


 ……そんな意味の文章が便箋に三枚分、見慣れた桜の綺麗な文字でびっしりと書いてあった。


「……これって、どういうことなの?」


 鈴は言う。


 鈴の手紙を持つ手はかすかに震えている。


 鈴はもう、なんだかすごく泣きそうだった。


 でも、泣いちゃいけない。そう思った。ここで泣いたら、桜にすごく失礼だと思ったのだ。桜に顔向けできないと思った。


 桜の手紙に書いてあることは本当のことだった。


 鈴は、ずっと秋山律のことが好きだった。


 鈴が律のことを好きになったのは、今いるこの場所で、小森神社の鳥居のところで、ぼんやりと舞い散る桜の花を眺めている律の姿を見たときだった。


 それは池田鈴にとって人生で初めての恋であり、……つまり、一目惚れの、初恋だった。


 でも、その鈴の恋はかなうことのない恋だった。


 なぜならそのあとで、あの石階段のところで、約束の時間になってもやってこない鈴を迎えに神社のほうからやってきた鈴の親友である小森桜も、鈴と同じように、その日、律を見て、律に恋をしたからだった。


 桜が律に恋をしたのは、その瞬間にすぐにわかった。


 だから鈴は、自分の気持ちをその瞬間から心の一番奥のところにしまいこんだ。


 それで、全部を忘れようとした。


 なかったことにしようとしたのだ。


 自分の運命に逆らおうとした。


 ……でも、それは儚い抵抗だった。


 すぐに消えると思っていた鈴の律への思いは二年経っても消えることはなくて、今もずっと鈴の中に残っていた。


 あのときよりも、ずっと大きな気持ちとなって、鈴の中に確かにに、もう無視することができないくらいに、まるで我慢比べの風船のように大きく膨らんで、きちんと存在し続けていたのだ。


「そこに書いてあることは、本当のことだよ。俺は確かに桜から告白されたし、その告白を断った。俺が好きなのは鈴だから。そう言って桜の告白を断ったんだ」


 律は言う。


「それって、いつ頃の話?」


「中学の、二年生のころの話。鈴と桜に初めて会った日から、そんなに時間は経っていないすぐのころだったと思う。五月の終わりか、六月の初めごろくらい。強い雨が降った日。俺が友達の桜への返事を聞きに行ったときに、連絡先を交換して、それから一ヶ月くらいあとの日曜日だったと思う」


 鈴は思う。


 そうか、桜はきちんと律に自分の口から告白をしていたのか。


 それも出会ってすぐのころに。中学生のころにもう律に恋の告白をしていた。そして、律の返事を聞いて、たぶん、私のことが好きだっていう律の言葉を聞いて、桜は自分の思いを私に全部隠そうとした。


 桜は気がついていたんだ。


 私の思いに。


 律が好きだっていう私の思いに気がついていた。


 親友だから。


 私が桜の思いに気がついていたように、ちゃんと桜も私の思いに気がついていた。……そういうことなんだよね、桜。


 鈴は夜の小森神社のある方向の空を見つめた。


「……ごめん。五分だけ待って」鈴は言う。


「わかった」


 律は言う。


 鈴はそれから律に背中を向けて、自分の気持ちを整理した。


 そして五分の時間が経過した。


「私は、秋山律くんのことが好きです」


 律のほうを振り向いた鈴がそう言った。


 それは二年越しの鈴の恋の告白だった。


「二年前、この場所であなたに初めて会ったときから、私はずっとあなたのことが好きでした。あれから二年経った今も、その気持ちは変わっていません。私はずっと律のことが大好きです」


 自分でも驚くくらいに素直な言葉が口から出た。


 気分もすごく落ち着いている。


 こんなに素直に、冷静に、律に恋の告白ができたのは、きっとその手に桜の手紙を持っていたからだと思う。


 律は鈴の告白を聞いてとても驚いていた。


 でも、すぐに真面目な顔になった。


 そして「俺も鈴のことが、鈴に負けないくらいに大好きです」と鈴に言った。


 その言葉を聞いて、鈴の頬はほんのりと赤く染まった。


 同じように律の頬も少しだけ赤く染まっている。


「あの、秋山律くん」


「はい」


「秋山律くん。もしよかったら、私とお付き合いをしてくれませんか? ……私の、恋人になってください」鈴は言う。


「はい。なります」


 律は即答する。


 まっすぐ、鈴の目を見て、律ははっきりと言う。


 その瞬間、池田鈴と秋山律は晴れて恋人同士として結ばれた。

 

 ずっと我慢をしていた涙が、鈴の両目から頬を伝って、地面の上にこぼれ落ちた。


 鈴は今からでも鳥居をくぐって、それから石階段を駆け上って、小森神社にいる桜のところまで言って、桜ときちんと話がしたいと思った。


 でも、それが鈴にはできなかった。


 もう遅い時間だし、桜はすでに寝ているかもしれないし、それに「家まで送っていくよ」と優しい声で律がそう泣いている鈴に言ってくれたから……。


 だから鈴はその日はそのまま家に帰ることにした。 


 帰り道の途中で、二人は少しだけ夜の中で立ち止まって、そこで初めてのキスをした。それは二人にとってお互いに人生で初めての、キスだった。


 二人が付き合い始めたことはすぐに南高で噂になった。


 二人は朝一緒に通学してきたし、休憩時間には、二人は一緒にいたし、お昼には「鈴。飯食おうぜ」と言って律がやってきて、その誘いに「うん」と言って鈴は乗ったし、なによりも二人が周囲の問いかけに自分たちの関係を隠さなかったからだった。


 その日、鈴は朝から桜と一言も口を聞いていなかった。


 二人は戦争状態にあった。


 あれから、家に帰って桜の思いと行動に感謝をして、わんわんと泣いていた鈴だけど、一晩ぐっすりと寝て、朝、改めて桜の行動を考えてみるとなんだか無性に腹が立ってきたのだ。


 そりゃ、いろいろと悪いところが私にあったことは認める。


 私は自分の思いを隠して、律を桜に譲ろうとした。でもそれは桜が恋の告白を律にしていない、あるいはできないと思っていたからで、まあ、それは桜の恋の爆発力を私が見誤っていたからなのだけど、それはともかくとして、そのことを桜は私にずっと、二年間も隠し続けていた。


 律の返事に私への内容が含まれていたとはいえ、そのことを、たとえば律の思いを私に隠してでもいいから、律に告白をしたことを桜が前もって私に言ってくれれば、二人でもっと冷静に話し合いをして、律と私たち二人の関係を、(それが、たとえば鈴と律ではなくて、桜と律が付き合うという結果になったとしても)もっとうまく前に進ませることができたのではないかと思うようになったのだ。


 ううん。それだけではない。


 なんだか今回の一件は、私が桜にいいように操られていたような、そんな気がして、それもなんだか気に入らなかった。律に恋の告白を綴った手紙を書いた、だけど怖くて手紙が渡せないから代わりに渡してきてほしい、なんて嘘を言わずに、もっと正面からぶつかってきてほしかった。


 そんな思いが募って池田鈴はちょっと怒っていたのだ。


 小森桜も怒っていた。


 桜の律への恋は本物の恋だった。


 桜が今回のラブレター大作戦を思いついたのは、律の告白を鈴が断ったことがきっかけだった。そのことを桜は律から聞いて知っていた。律は鈴に告白をするとき、「一応礼儀として」と前置きをして桜にそのことを伝えていた。そして結果も桜に報告をしたのだ。


 そして鈴が自分に遠慮をして律のことが好きなのに、律の告白を断ったのだと理解した。


 だからこうして作戦を考えて、二人の間を取り持ったのだ。


 それが自分の使命だと思った。


 縁結びの神様として名高い小森神社に生まれた娘として、親友の恋を応援しようとした。


 その作戦はうまくいった。


 なのに、なぜか鈴は桜に対してすごく怒っているようだった。


 こっちだって泣きたい思いで、(実際に桜は鈴に手紙を渡した日の夜に泣いた)律くんへの思いを封印しているというのに、いったいあの態度はなんなのだろう? と桜は思った。


 自分たちの恋がうまくいったら、もう縁結びの神様は用済みということだろうか?

 あっちから声をかけてくるまで、とりあえずは鈴とは口を聞かないことにした。でも、その日、結局放課後の時間まで、鈴は桜に声をかけてこなかった。


 ありがとうもなかった。


 それだけではく律くんとのラブラブなところを桜に見せつけてきた。そんな思いは鈴にはなかったのかもしれないけれど、桜の目にはそう見えた。


 だから小森桜は一日中、なんだかいらいらしていたのだ。


 周囲のクラスメートたちも少し緊張していた。


 二人が大の仲良しであり、幼いころからの親友同士であることは、みんなが知っていることだったからだ。


 その日、二人が初めて話をしたのは放課後の時間になった、誰もいない一年二組の教室の中だった。


 白いカーテンが風に揺れている。窓の外には青色の空が広がっている。


 真っ白な教室の中には二人のほかに誰もいない。


 教室の中には、池田鈴と小森桜の二人だけが存在している。


 二人は窓際のところに立って、鈴は教室のほうを、桜は青色の空のほうを見ている。


「……話ってなに? 鈴」桜が言う。


 自分からは言わないつもりだったけど、桜は鈴にそう言った。


 放課後の教室で待ってる、そんな鈴の文字の書かれた四角いノートの切れ端の手紙が桜のもとに回ってきたのは午後の英語の授業中だった。


 鈴から桜への手紙。


 大切な親友からの呼び出しの手紙だ。


「律のことだよ」鈴は言う。


「……付き合えたんでしょ? よかったじゃん」桜は言う。


「よくないよ。……いや、そりゃ、嬉しかったけどさ、……全然よくない」鈴は言う。


 それから鈴は桜を見る。


「だって桜が幸せになってないじゃん」鈴は言う。


 桜は青色の空から真っ白な教室の中にいる鈴に目を向ける。


 鈴はじっと桜を見ている。


 メガネの奥の大きな瞳は、少し涙で滲んでいるようだった。その涙を見て、桜は少し反省する。


「鈴。私は小森神社の娘だよ。縁結びの神様として有名な小森神社の巫女さんなの。誰かの恋を応援するのが、私の仕事であり、指名なんだよ」桜は言う。


「じゃあ、そんなのやめちゃえばいいじゃん」鈴は言う。


 桜は沈黙する。


「それじゃ、いつまでたっても桜が幸せになれないじゃん。……そうでしょ?」鈴は言う。


 桜は小さく、でも、確かににっこりと笑う。


「ありがとう、鈴。でも、私は幸せだよ。誰かの幸せが、きっと私の幸せなんだよ」桜は言う。


 鈴はじっと桜を見る。


 鈴はほかのものはなにも見ていない。ただ桜だけを見ている。


「でも、それは嘘でしょ? 本当の桜の気持ちじゃないんでしょ?」鈴は言う。


「うん。まあ、それはそうだけど……」と桜は言う。


 鈴と桜は幼いころからの親友だった。だから桜は鈴に嘘をつくことをやめた誰にも言えない本音を言った。鈴には桜の気持ちが全部、ばれているからだ。今更嘘をついたり、強がりを言っても仕方がなかった。


「なんで律くんを私に譲るようなことをしたの?」鈴は言う。


「そんなことしていないよ。私、律くんに告白したもん。鈴に内緒で。鈴よりもずっと早くに告白したもん。……ふられちゃったけど。だから別に譲ったなんて思ってないよ」桜は言う。


「私は、ずるい女なんだよ」


 桜はじっと鈴を見ている。


「私は負けたの。勝負に負けた。ただそれだけだよ、鈴。だって、私、もし律くんが告白を受けてくれたら、きっと律くんと付き合ったよ。鈴が律くんのこと好きなの知ってるのに、だよ。私はそういう女なんだよ、きっとね」


 鈴は黙っている。


「……ずっと、律くんのこと好きだったんでしょ?」桜は言う。


「うん」鈴は答える。


「私と同じように初めてあったときから、あの石階段のところで、いや、鈴の場合は鳥居のところでだよね。あそこで律くんを見て、……一目惚れして、恋に落ちた。そうだよね?」


「うん」


「それは百年の恋だよね?」


「うん」


「もしかしたら、千年の恋かもしれないよね?」


「……うん」


 そう言って桜が笑うと、鈴の目から涙が溢れた。


「じゃあ、やっぱりよかったじゃん。あ、でも私のことも少しは感謝してよね。千年の恋がかなったのはさ、きっと小森神社の巫女である私の加護があったからなんだからね。鈴は神社にお願いごと、してないんだからさ」


 鈴は黙っている。


「おめでとう、鈴」桜は言う。


「……本当にいいの?」鈴は言う。


「いいよ。いいに決まっているじゃん。これってさ、もう誰が見てもハッピーエンドだよ」


 桜は泣いている鈴の体をぎゅっと抱きしめる。


 二人の友情は永遠だ。


 千年の恋にだって、きっと負けやしない。


 泣いている鈴の頭の横から、白いカーテンの隙間から見える、かすかに滲んだ青色の空を見ながら、……鈴の鼓動を感じながら、小森桜はそんなことを、頭の中で考えていた。


 池田鈴の好きな人 終わり

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池田鈴の好きな人 雨世界 @amesekai

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